第5節 猫は喋らぬ(2)
猫の瞳は、菫色の紫陽花が寄り添うように咲いているようで、でも少し悲しげです。特に左目は、梅雨の長雨で色素が流されたように白みがかっています。春の穏やかな香りを掻き消すような冷たさです。
雨が止めば夏が来ます。
それなのに、猫は夏に興味などないのです。澄み渡った青空の下、少し風が強い丘の上で山彦がどれだけウズウズと待っても、猫は叫ぼうとしないのですから。
「……空猫。」
ええ、その猫の特徴は一郎が図鑑に示した猫と一致しました。
およそ五百年前に出現し、数世紀の間に絶滅した生き物。少なくとも、口がついていない猫など他には思い当たりません。
「……でも、羽がない。違うのかな?」
私は注意深く横たわる猫を見つめました。背中にはやはり羽は生えていません。左目が失明したように霞んでいることもあり、事故にでもあって羽を失ってしまったのでしょうかと私は推測しました。
「チャンスだ……。」
私は猫に気付かれないように小さく声を出しました。
初めて見る猫、私のキャンパスノートにぜひとも描きたいモデルです。
猫は私を警戒しているようですが、動く気配はありません。ずっと折れ曲がった自転車のタイヤの前でソファーに寝転ぶ私の母みたいにこちらを眺めています。
私はそっと色鉛筆を取り出し、ノートの新しいページを捲りました。猫との距離は絶妙に遠く、細部を描くにはもう少し距離を縮める必要があります。何より私自身がもっと傍で猫を観察したかったのです。
一歩、足を進めます。猫は鋭く私を睨みますが、動き出す気配はありません。
二歩、足を進めます。猫は尾を微かに震わせ、目を細めます。
三歩、足を進めます。すると猫は――。
「あー!」
近づきすぎました。
猫は不意に立ち上がると、流れるように障害物を避け、軽い足取りで薄暗い路地を走り抜けました。その身のこなしに私は感心としながら呆然と眺めていたのですが、我に返って慌てて追いかけました。
よく、一郎や次郎と鬼ごっこをしてあげることがあります。とはいえ、私は年上、身体能力に差がありすぎるのでゆったりと走るようにしています。次郎はこれで満足するのですが、一郎はややひねくれ者。揶揄っているみたいだ、本気じゃないと抗議を受けたことがあります。今、私は彼の気持ちを初めて理解しました。
「はぁ……はぁ……。」
道には空き缶や左矢印の青い看板などの障害物が転がっていて非常に走りづらく、靴下を汚しながらやっとの思いで距離を縮めると、私を嘲笑うかのように猫はまた全速力で逃げるのです。まるで捕まえてごらんとでも言っているかのようです。
「あー、もう! 追いつけないっ。」
これだけ大声で叫んだのは随分久しぶりです。しかし、私の中には諦めるという選択肢はありませんでした。だって未知のものを描けるチャンスなどそうそうないのですから。
やがて、猫は不思議な、それはそれは大きな建物へ入っていきました。
「果樹園の何倍あるんだろう……。」
小説に出てくるような大豪邸です。フェンスは敷地をぐるっと取り囲んでいるようで、猫が悠々と入っていった入り口はガラスのドア。少し古びた壁の傷跡がまたこの建物の歴史を感じさせます。私も猫を追って入ろうとしたのですが、すぐ近くの壁に文字が埋め込まれているのに気が付きました。
「えーっと……『空風中学校』……中学校?」
この言葉は知っています。
私が小さい頃、父が泳げないことを知ったのですが、その時に父がこう言っていたのです。
お父さんが通っていた中学校にはプールがなかったんだ、と。
結局母がすぐに別の話題に切り替えたせいでその日も追及できなかったのですが、私は忘れないようにノートの片隅に『中学校』の文字は記していました。
「お父さんは……ここを知ってる。」
暴いてみせましょう。中学校とは何のことなのか。
「猫ちゃーん。どこ~?」
入り口で文字に気を取られているうちに猫は視界から消えました。仕方なく私は建物の中を歩いて探しているのですが、建物の中は恐ろしいほどに広いのです。似たような部屋がいくつもあって、たくさんの勉強机が並んでいます。
「ここに住んでいた人はきっと無類の勉強好きに違いない。」
これがこの家の家主に対する第一印象です。
「きっと大金持ちのお嬢様が世界中から知識人を集めてこの机に座らせたんだ。そして、部屋の一番前にあるこの大きな板にお嬢様はたくさん文字を書いて覚えたんだ。」
私は深緑色に染まる巨大な板に、その下に置いてあった白いクレヨンのような塗料で小さく文字を書きました。面白いことにこの文字は消しゴムを使わなくても手でこすれば消えるのです。
「贅沢なお嬢様だなー。」
私の妄想なんですけどね。
建物は三階建てで、兎に角机が多いですね。どの部屋にも必ずと言っていいほど等間隔に並べられています。階段も多く、不思議なことに一階から二階に上がるのに階段が4つもありました。一つあれば充分なんですけどね。
くまなく建物の内部を歩き回ったのですが、どこを探しても猫は見つかりませんでした。ふと、窓に目を遣ると、この建物から少し離れた場所にもう一つ、大きな家くらいの建物があります。屋根に覆われたその建物もどうやらお嬢様の敷地の内のようです。
「あっちかな?」
私の脳細胞たちが一斉に指を差しました。勘が働いたのです。これでも私の勘は当たると有名なんですよ。
この辺りは不思議な砂道ばかりだったので、敷地内の目の細かい砂の地面が何だか不釣り合いでした。砂の地面を走り抜けて、その大きな家に辿り着くと扉の前に不思議な看板があります。
『優しい地球に戻しましょう――空風自然エネルギー推進の会、集会所はここです。』
その看板は支柱に大きく丈夫な紙をテープで貼り付けただけの簡易なもので、これもまた背後の堂々とした玄関口には不釣り合いで、どこか不格好なものでした。
「自然エネルギーって何だろう?」
これは父の口からも聞いたことがありません。エネルギーという単語自体は発電所の電さんがよく口にしていますが、自然という接頭語がつくと話は別です。
「うーん。太陽かな?」
陽の光を浴びると体がポカポカします。きっとあれはエネルギーです。安直な考えですが、私にはそれ以上は思いつきませんでした。
この看板も充分不思議なものですが、ここで突っ立っていても仕方がありません。私はそっとドアを開き、建物の内部へと入っていきました。
猫はいました。
「――。」
猫は鳴きません。
木目のフローリングはつるつるで、うっかり足を滑らせてしまいそうです。
滑り止めでしょうか?
フローリングにはビニルテープが不思議な形で貼ってあります。密集している場所もあれば、ほとんど張られていない場所もあり、私はどうして満遍なく等間隔に貼らなかったのか不思議でした。
「明るい……。」
ここだけどういう訳か電気が通っているようです。
猫は、鏡のように反射する床の上で私を待っていました。
猫の背後には、他よりも一段盛り上がった空間があります。そして、そこにも不釣り合いな幕が垂れ下がっていたのです。そこにはこう書かれていました。
『クローゼットの限界を考えるシンポジウム2477』
「はい?」
私は困惑してしまいました。
クローゼットなら我が家にもあります。母は収納好きで、ありとあらゆるものを工夫してクローゼットに押し込んでしまうのです。そのため、私も父も、リビングにあるクローゼットを開ける時には細心の注意を払います。下敷きにはなりたくないですから。
「シンポジウムって何だろう?」
その言葉を私は聞いたことはありませんでした。しかし、クローゼットの限界と書いている辺り、何かくだらないもののように思います。
しかし、猫はその場から動きませんでした。まるで自分をモデルにするのならあの情けない垂れ幕を背景にしなさいとでも言っているようです。その証拠に私が近づいても、もう猫は逃げ出しません。触ろうとすれば後ろに飛びのくのですが、やはり逃げようとはしません。
『フフフ、吾輩ヲ上手ニ描イテミルトイイ。』
「いいでしょう。きっと私の絵が仕上がれば、閣下は満足なさるでしょう。」
ふざけながら絵の具を取り出しました。この絵は透明なボトルを描いた時とは違って、絶対に私の感情を色に乗せて描かなければならないと思いました。
猫はやはり喋りません。
絵の中の猫も喋りそうにありません。
喋らないのにお喋りな猫はずっと私を見定めるように見つめています。
私も絵を描き終え、体育座りをして猫をじっと眺めました。
「ねえ、あなたはどうして羽がないの?」
猫は答えません。
「ねえ、あなたはどうして口がないの?」
猫は答えません。
「その左目はどうしたの?」
猫は答えません。
「どうして私に会いに来たの?」
猫は――。
――。
「――っ!」
それは物音でした。
音に尻尾を立てた猫は私から逃げ回っていた時よりも更に速いスピードで室内を横切り、壁の下にあった小さな横長の窓から外へ逃げ出しました。
音は、垂れ幕が下がっているそのさらに奥からです。
音がしたということは誰かがいる、ずっと人に会いたかった私ですが、どうしてかここから逃げなきゃという強迫観念に駆られたのです。あの垂れ幕の向こう側には恐ろしい何かがいる。大山のお爺ちゃんすら泣いて逃げ出しそうな化け物がいる。私は無心に走ってその場を離れました。
少しでも遠くへ。
少しでも遠くへ。
私にとっての安心できる場所はやはりあの小さな家だったんですね。気付けば私はトンネルを越えて鴨草足村へ戻っていました。これが、私の最初の外の世界への探検だったのです。
猫は喋りません。
霞んだ左目の代わりに、菫色の右目で綺麗な草木の生い茂る村を見つめます。
小さな灰色の耳で川の流れる音を聞いています。
猫は喋りません。
必死に走った私は気づきません。
猫は……鴨草足村に建築中の巨塔を静かに眺めていました。