第4節 猫は喋らぬ(1)
漂ってきたのは酷く歪な匂いでした。
腐った生卵をカレーやラーメンと一緒に煮込んだような、いわゆる腐敗臭という奴です。
「どうして?」
どれだけ美味しい食べ物でも混ぜれば不味くなります。
私の心もこの匂いと同じでした。
期待、高揚感、緊張、あらゆる具材は目の前に広がる土足で踏み荒らし、すっかり茶色くなった雪と一緒に煮込まれてしまったのです。
この時ばかりはあの二人の少年と喧しかった蝉の声が恋しくなりました。
ここにいてはならない。
そう感じた私はすぐに引き返そうとしました。苔むしたトンネルの入り口に足を戻そうとした時、不意に思い出したのは父の声でした。
「そうだ。あの時……。」
トンネルの向こう側には何があるの? まだ幼い私が父の隣でワクワクしながらそう尋ねた時、初めて父の冷たい声を聞いたのです。理由を告げるわけでもなく、たった一言、行ってはならないよ、と。
今にして思えば、大人達は鴨草足村の外がどうなっていたのか最初から知っていたように思います。では、なぜ私たちに秘密にしたのでしょう?
「私の夢を壊したくなかったから?」
違う。
もしそうなら、あの時の父の言葉はもっと明るかったはずです。
私達にこの景色を見せたくなかった理由――。
「何かあるんだ。この場所に……。」
壊れた自転車、折れ曲がって錆びついた白い柵、空に張り巡らせれた細い線、あり得ないほど密集した住居。
「私達が見れば人生を揺るがしかねない何かが……。」
時間はそう長くありません。暗くなる前に帰らなくてはならないのですから。
リュックから色鉛筆と新しいノートを取り出し、そっと灰の町へと繰り出しました。
まず、私は一番近くにあった家屋を調べてみました。
その外壁はざらざらした岩のようで、私達が住んでいる木の家とはまるで違います。正面玄関のすぐ隣には、触れればガラガラと音が鳴る銀色の金属の壁が不自然にも一部だけ取り付けられています。家に穴が開いたところを修繕したのでしょうか? そもそもこれだけの穴が開くとも思えないのですが、もしそうならなぜこんな蛇腹な表面に加工したのでしょうか?
申し訳ないとは思ったのですが、人もいないようでしたしドアを開けてみることにしました。
「……あれ?」
しかし、どれだけドアノブを引いてもドアが開くことはありません。建付けが悪いのでしょうか。気にはなりますが、家屋はまだまだありますし、他をあたることにしましょう。
歩いていて思ったのは、驚くほど町に普通の砂道がないことです。どこもかしこも不思議な砂道で、町はどこか金属のように冷たく感じました。まるでその印象を振り払おうとするかのように道の脇には木々が不自然なほどに等間隔に植えられています。もう枯れてしまっているんですがね。私は枯れた木の枝を拝借して持ち帰ることにしました。
「これは何だろう?」
数歩も歩かないうちに新しい発見があります。
私が見つけたのは人の身長よりほんの少しだけ高いボックスでした。片面の半分がガラス張りになっていて、そこには数段に渡って円筒が並んでいます。
「天然水、リンゴジュース、お茶……。」
どうやら飲み物のようです。中にはよく分からない名称の飲み物もあり、非常に興味をそそります。下部に細長い穴があり、「硬貨」と書いてあるので、無人の販売所なのかもしれません。幸い、ポケットには百円玉があります。貴重なお小遣いですが、背に腹は代えられません。本当に飲み物がカランと出てくるのか気になって仕方がないのです。
「えい。」
しかし、ボタンを押しても飲み物が落ちてくることはありませんでした。壊れているのでしょうか? だとしたら私の百円玉は何のためにポケットにあったのでしょうか。
「……叩いたら返してくれないかな?」
久しぶりの固形物を口にした腹ペコさんは見てみぬふりです。本当に叩いてやろうかとも思いましたが、すでに茶色く錆びついて、ところどころ凹んだその体を見ると申し訳なく思い、諦めることにしました。また明日から肩たたき強化週間が続きそうです。
混沌としたこの町には曖昧な境界で彩られる絵の具が似合うと感じました。
パレットに白い生クリームと艶のあるチョコクリームを絞り出し、まっさらなスポンジケーキに塗りたくります。こうも甘ったるいと口直しが必要ですね。もはや本来の用途が守られていない水筒の蓋を開け、筆を湿らせます。クリームの甘さは水で無理やり流しましょう。
気分は飲みたかったリンゴジュース。果実の表皮を飾るは真紅。
この場所に来て少しばかりナーバスになっていた心も、大好きな絵の具の明るい色で普段の調子を取り戻しました。今、この瞬間だけは私だけの世界です。
「次は緑色で……いや、違うな。」
実のところ、その日の気分で調合する色の比率も変わるので、現実から離れた絵が完成することも少なくありません。しかし、この時はなぜか、ガラスの奥に映るあの透明な円柱の色を変えてはいけないと感じたのです。本当に珍しいことなんですけどね。
そして、これも珍しいのですが、私はその円柱をどうしても目立たせたいと感じました。あの透明で無機質なボトルをケーキにトッピングするイチゴにしたいと思ったのです。
どうしてでしょう?
今にして思えば、この無人販売機に興味を持ったのもあのボトル達が私を呼び止めたからのように思えます。どうしてここまで心惹かれるのでしょうか?
「……あれ?」
ふと、視点がボトルから移りました。ヒビが入ったガラスに私以外の命が映ったのです。慌てて振り返ると、折れ曲がった自転車の脇でこちらをじっと見つめる瞳が二つ。体は細かい灰色の毛に覆われ、尻尾をピンと張ったままこちらの様子を窺っています。
「猫?」
そう、それは私が初めて見た猫という生き物であり、この町で初めて出会った小さな命でした。瞳は綺麗な空色ですが、左目は少し雲がかかっているように霞んでいます。
「あれ?」
ふと、違和感を感じました。
その猫には何かが足りないように思えたのです。私がもう少し近くで観察しようと傍へ寄ると、猫はさっと私から視線を外し、薄暗い家と家の間の路地へ駆けていきました。その一瞬、私は確かに見たのです。
猫には口がありませんでした。