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第1節  トンネルを抜けると(1)

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。


 もう古くなったその書籍を捲るたびに私は心を躍らせていました。山間部に位置するこの小さな集落から一度も出たことがない私にとって、生まれてこのかた見たこともない雪景色はそれこそ小説でしか感じられない世界なのです。

 尤も、季節は夏。白雪に思いを馳せるには少しばかり熱すぎるんですけどね。


 七月――ここ、鴨足草村では蝉達による合唱が最盛期を迎えています。昔の人達は夏の風情溢れる音色だと絶賛していたそうですが、今となってはただただ騒がしいだけです。どれだけ素敵な応援歌を体一杯に浴びても、私が鉛筆を走らせる速度は上がらないということを蝉達には分かって欲しいものですよ。


「薫。朝ご飯よ。」


「はーい。」


 今朝の課題の達成率は七割ほどでしょうか。これが秋や冬なら九割ほどまで上がるのですが、どれだけ蝉に文句を言ったところで私の課題が早く済むわけではないということくらい重々承知しています。使い古されてすっかり縮んでしまった鉛筆をノートの上に放り投げ、私は自室の扉を閉めました。


「あんた、課題は終わったの?」


 階段を降りていると、キッチンから食卓へ上機嫌で朝食を運ぶ母に見つかりました。ミトンをはめている両手はがっしりと白い陶器を掴んでおり、そこから忘れていた空腹を思い出させる素敵な香りが漂ってきます。今朝のメニューはグラタンのようですね。


「も、勿論だよ、お母さん。私を誰だと思ってるの?」


「数学嫌いのかーおーるーちゃーん。午後までには終わらせなさいよ。」


 母親だからか、それとも私の先生だからか、簡単に私の嘘は見破られてしまいました。そんな様子を食卓に座って眺めていた父が新聞を閉じ、この一週間で一番の笑みを浮かべて私を揶揄い始めました。


「何だ? また数学か? どこができない? お父さんが教えてやろう。」


「いいよー。お父さんに教えてもらったら、また鉛筆がすり減って遠くまで買いに行かなくちゃいけなくなるんだもん。それより、何か面白い記事でもあった?」


 父の有難い提案を遠回しに棄却し、丁度父の向かいの椅子に座りました。テーブルにはすでにレタスやトマトで彩られたプレートが中心に鎮座し、その隣には日替わりの自家製ドレッシングが透明の器に半分ほど入れられています。


「いいやー。平和すぎて何にもない。まるで日記を読んでいるみたいだよ。」


「……? 新聞ってそういうものじゃないの?」


「えっ、ああ。そう。そうなんだけどね。」


 まるで父の、手に持っている手書きの新聞以外に別の新聞を知っているかのような口ぶりに目を細めると、父は慌てて誤魔化しました。もう何年も見慣れた光景です。そして、こういう時には大抵私の視界の外側から父への応援歌が添えられるのです。


「あんたら、喋ってないで朝食の準備を手伝いなさい!」


「はい!」

「はい!」


 来ると分かっていても、母はあまりに的確な指示を下すので、私はおろか、応援を受けた父も背筋がピンと張り詰めます。すぐさまスプーンを運びながら思わずフッと溜息が零れます。こうなっては先程の会話には戻せず、父を追及することはできないのです。なぜなら私の応援をしてくれるのは知性のない蝉達だけですから。


「いただきます。」


 食卓にパンが並ぶのは本当に久しぶりで、毎日食べると飽きそうな固い触感もこの時ばかりは嬉しく、更に大好物のグラタンまで出されては、普段バリエーションが少ないと不満を言っている私も満足せざるを得ません。ドレッシングに使われていたのは自宅から徒歩一分ほどの果樹園で育てているレモンのようで、爽やかな酸味がまた食を進めます。

 朝食にしては聊か豪華、その理由も何となくは分かっているんですよ。


「薫? 私達今日は……。」


「町内会の飲み会でしょ? 二人で美味しいものを食べてきたらいいですよーだ。」


 拗ねたふりをしてみると、父も母も申し訳なさそうに苦笑しました。私が幼い頃はお父さんやお母さんだけずるいと泣き喚き、連れていってとせがんだこともありましたが、いつからかすぐに諦めるようになりました。


「ごめんね。」


「いいよ。果樹園は水あげるだけでいいんだよね?」


「ああ、頼むよ。」


 この飲み会というのが中々不思議なもので、月に一度開催されるんですが、朝から夜までずーっと帰ってこないんです。この町の飲食店なんてウェンディさんのこじんまりとしたイタリアンしかないんですけどね。


「そうそう、薫。あんた来月の誕生日までに食べたいもの考えときなさいよ。」


「そうか、もう十八か。早いもんだなー。昔はケーキを……おっと。」


 もう、本当に何年も見慣れた光景なんですよ。

 父が何かを口走り、母がすぐに別の話題を提供して笑って誤魔化す。私も深くは追及できず、ぬいぐるみのように笑みを浮かべて彼らの動揺が落ち着くのを待つ。


 でもね、私は知っているんですよ?


 この町の大人たちは皆――私に何かを隠している。




「それじゃ行ってくるね。」


「昼は適当に何か作って食べて。夜には帰るから。」


 この日、大人たちは忽然と姿を消し、村のどこを探しても見つからないのです。しかし、私はずっとこの日を待っていました。大人たちがいなくなること、それ即ち、子供の世界の始まりです。今日こそ大人たちが隠す秘密を暴いてみせます。


 とはいえ、まずはすべきことをしなくては父や母が帰ってきた時に叱られてしまいます。リュックにキャンパスノートと絵の具のセットを詰め込み、玄関口に無造作に置かれたゴミ袋を両手に抱えて私も家を出ました。


 私の家は村の最北端の少し高台になっている場所にあります。扉を開けると夏の爽やかな香りとともに見晴らしのいい水田風景が視界一杯に広がるのでお気に入りの場所の一つです。さて、この砂の道を左にまっすぐ進むと果樹園があり、果樹園から折り返すように下っていくと河川敷に出ます。

 この辺りに他に家がないのにも関わらず、なぜかゴミ置き場は少し遠く、河川敷へ出る道の途中にあります。ゴミ袋が重いだけでなく、今日はハードスケジュール。親の目もありませんし、ショートカットしてしまいましょう。普段は危険だから止めなさいと言われるのですが、この斜面を滑り降りれば、わざわざ果樹園まで重い荷物を運ばずに済みます。網目の扉を開き、放り投げるようにゴミ袋を置いて、仕事の一つ目は終了です。




 時間がないのでサクサク行きましょう。

 次は果樹園です。私たちの親の収入源なのですから、私がサボって大切な果樹を枯らすわけにはいきません。懐の温かさは食事の質に直結しますからね。

 リュックを汚れない場所に置き、沢からホースを使って水をひきます。果樹園は主に蜜柑などの柑橘類を栽培しており、この時期にはまだ緑色の丸々と太った果肉が至る所にぶら下がっています。


「お前たちはいい物を食べているのかね?」


 一番大きく育っていた果実をちょこんと小突くと、大きく揺れる様子が慌てて否定しているかのようで面白く、くだらない子芝居が始まります。


「ソ、ソンナ事ハナイデスヨー。」


「本当かね? ではその根っこに隠している栄養は何だっ!」


「ヒッ! コ、コレハ違ウンデス。コノ『リン酸』ハ奥様カラ頂イタ……。」


「ええい。黙れ。お前は今日から『リン酸泥棒』だ!」


「ヒィー! ド、ドウカオ許シヲ。」


 おっと、こんなことをしている場合ではありませんでした。手に掴んでいた青々とした蜜柑を手放し、急いで放水します。濡れた土を蹴とばして数畝に渡る果樹に新鮮な天然水をご馳走すると仕事の二つ目も終了です。


 さて、秘密を暴きに行きましょう。


 おはようございます。

 作者の七瀬桜雲と申します。現在進めている別作品とは全く傾向の異なる作品を書いてみたいという思いから予てより構想を練っていたこの作品を書いてみようということで投稿いたしました。最後までお付き合いいただければ嬉しく思います。


 薫や登場人物たちの「Message」が、誰に「Link」していくのか、ぜひお楽しみください。

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