―9―
突如肌を打ち据えるような激しい雨が降り始め、クレイとスイランは木の下で雨宿りをすることになった。
今は雨季なので、雨が三十分から一時間程激しく降っては、また何事もなかったかのように晴れ渡る。
雨だけでなく、雷も凄かった。
近くで轟く雷鳴は肌がぴりぴりする程で、なるほど音というものは空気を震わせて伝わるものなのだと実感する。
こちらに来て日が浅いクレイがまだ慣れない一方で、スイランはすっかり慣れた様子で雷に怯えるような素振りは少しも見せなかった。
クレイとスイランの間に会話は最早なかったが、今の沈黙はそれ程気詰まりではない。
スイランへの苦手意識が完全に消えた訳ではないものの、見回りを始めたばかりの時と比べて、いくらか打ち解けたからだろう。
クレイは雨音が吸い込まれていく森を静かに見つめていた。
今のところ人間に出くわすこともなく、見回りという名の散歩状態だ。
スイランが言うには何かあることは滅多にないそうで、何も起こらないからこそ、リンも自分を連れて見回りに行ったのだろう。
何気なくリンのことを考えたクレイは、リンはまだだろうかと空を見上げた。
丁度その時、リンの元気のいい声が雨音に負けずに降ってくる。
「ただいま!」
軽やかに空から降りてきたリンは、すっかりずぶ濡れになっていた。
だがリンの服と靴は濡れることなく、雨粒を弾き続けている。
リンが自分の力で創り出した物質なので、只の布のように水を吸ったりはしないのだろう。
リンは濡れた髪を掻きやりながら言った。
「いやあ、間が悪かったなあ。びしょ濡れだよ」
「もうちょっと待ってれば良かったのに。完全に境界を超える前に、雨が降ってるって気付いたでしょ?」
スイランの問いかけに、リンは濡れた髪を掻きやりながら答える。
「止むまで待とうと思ったけど、お前にクレイを預けてたからさ、早く戻ろうと思って」
「ごめん、僕なんかのために……」
クレイができる限りの誠意を込めて詫びると、リンは気にするなという風に笑った。
「いいんだよ。私は気が短いから、待つのが嫌いだし」
待つのが嫌い。
だからこそ、リンはスイランとの話し合いがまとまる前に、男達と寝ることにしたのだろう。
スイランの方針に従ってこのまま滅びることになれば、全ては無駄になってしまうのに。
それでもじっとしてはいられなかったのだ。
いかにもリンらしいが、そこがリンの欠点でもあるのだろう。
「あ、そうそう。クレイ、明日、午後から一緒に城に行こう」
リンにそう言われて、クレイはきょとんとした。
リンは今日、自分を城に連れて行けないからこそ、スイランに預けて行った筈なのだが。
「本当にいいの?」
「うん、さっき王妃様にクレイのことをお話したら、明日王と一緒にもてなして下さるって。ここにいるなら、王達に挨拶くらいはしておいた方がいいだろ?」
「それはとても光栄だけど、僕は身分の高い人間じゃないよ。本当に僕なんかがお会いしていいのかな?」
「御二方が構わないっておっしゃってるんだから、構わないだろ。招かれてるんだから、寧ろ行かない方が良くない」
「それもそうだね」
クレイは礼服を持って来れば良かったと後悔したが、無い物をどうこう言っても仕方がない。
普段着で行くしかなかった。
せめて失礼のない振る舞いを心掛けるしかない。
「そろそろ行こうか。もう雨も上がりそうだし」
リンの言葉にクレイが頷くと、リンはスイランに言った。
「悪かったな。おかげで安心して出掛けられたよ。ありがとう」
「別に、監視を兼ねて一緒にいただけよ。さっさとそいつを連れて行って頂戴」
「うん、それじゃ。あ、舟借りていいか? 服が濡れてるから、クレイを抱えて飛ぶと、クレイまで濡れるし」
「全くもう、仕方ないわね。貸してあげるわよ」
クレイは注意深くリンとスイランのやり取りに耳を傾けていた。
リンとスイランの間にはやはり険悪な雰囲気は感じられず、とても親しそうに見える。
だが先程スイランが「リンは自分の言葉など聞く耳を持たない」と言っていたところからして、少々複雑なところもあるようだった。
仮にも一族の今後を巡って対立しているのだから、口も利かない状態になっていたとしてもおかしくなかったのだろうが、そうなっていないのは二人がそれ程仲が良くて、真っ直ぐだからなのだろう。
「子供じゃないんだから、もうちょっと先のことも考えて行動しなさいよね」
「気を付けるよ。じゃあな」
リンは些か面倒臭そうにそう言うと、まだぽつぽつと雨粒が落ちてくる森の中を歩き始めた。
クレイもその後を追って歩き出す。
丁度二人きりになれたことであるし、立ち入った話をするなら今がいいだろうとクレイは思ったが、極めて個人的なことに口を出すのはやはり気が引けた。
先程スイランを怒らせてしまったように、リンを怒らせてしまったりはしないだろうか。
不安だったが、しかし「友達が良くないことをしてたら、それをやめさせたいって思うのは当たり前」だとスイランは言っていた。
リンとは本当の友達になりたいし、少しだけ頑張ってみることにする。
「……ねえ」
クレイが思い切って呼び掛けると、リンが振り返った。
「何だ?」
「……その、君って子供を作るためにいろんな男の人と寝てるんだよね? それ、やめた方がいいと思うんだけど……」
きちんと言おうという気持ちが次第に挫けて、語尾が弱々しく消えたが、言いたいことは伝わった筈だ。
見たところリンは気分を害したようには見えず、むしろきょとんとしているようだったが、どんな言葉が返ってくるのかまるで予想できない。
ただ、リンとの関係が悪くならなければいいと思った。
リンはたった一人の友達であるし、リンに嫌われてしまったら、ここにいることは苦痛でしかなくなるだろう。
クレイが緊張しながらリンの言葉を待っていると、リンは不思議そうに言った。
「急にどうしたんだ?」
「ええと、スイランに頼まれたから……君を説得して欲しいって。僕も、できれば君にそういうことはして欲しくないし……」
リンが足を止め、クレイも一歩遅れて立ち止まると、リンは体ごと振り向いて言った。
「私は自分なりにできることをしてるだけだ。気持ちは有り難いけど、誰に迷惑掛けてる訳でもないし、やめるつもりはないよ」
リンの口調は穏やかだったが、どこか他人を寄せ付けない冷たさがあった。
やはり決意は固いらしい。
リンは軽々しく好きでもない男と寝るなどという真似ができるようには見えないし、一族の命運がかかっているのだから、それも当然というものだろう。
説得するのはなかなか難しそうだったが、クレイはもう少し粘ってみることにした。
ここであっさり引いていたら、きっと一生誰とも深く付き合えない。
やっとできた友達なのだから、上辺だけの付き合いなどしたくなかった。
クレイは自らを励ますように、手の平を強く握り込んで言う。
「君は長で、みんなを守るのが役目なんだよね? でも、今の君は君のことを大切に思ってる人を悲しませてるよ。君が守るべき人に、スイランは入ってないの?」
「それは……」
言い淀むリンに、クレイは更に問いを重ねる。
「スイランだけじゃなくて、ナギもきっとやめて欲しいって思ってるんじゃないかな? まだ君と出会ったばかりの僕がそう思うんだから、幼馴染みのナギはもっと悲しい思いをしてると思うよ。君だって、できれば綺麗な体でいたかったって言ってたじゃないか」
「そう、だけど……私のことなんか、どうでもいいじゃないか」
「良くないよ。君は君自身まで悲しませてる。君が一族のために必死なのはわかるけど、君が自分を犠牲にしてまで子供を作っても、誰も喜ばないよ。生まれた子供だって、君が只の義務感で自分を産んだって知ったら、きっと悲しむ。君は一族を存続させるためなら、他のことは全部どうでもいいなんて思うような子じゃないでしょ?」
クレイは言葉を紡ぎながら、不安で仕方がなかった。
こんな言い方で、リンはわかってくれるだろうか。嫌われたりしないだろうか。
せめて自分がリンのことを大切に想っていることだけは、わかって欲しかった。
クレイがじっとリンの言葉を待っていると、リンはややあって沈痛な面持ちで言った。
「……私は頭が悪いからさ、自分がまず動いて皆に範を示さないといけないと思った時に、こんなことしか思い付かなかったんだ。何かしてないと、落ち着かなかったしな」
反発や拒絶も覚悟していたが、リンの口からそういった言葉が出て来ることはなく、クレイはそのことに深く安堵した。
「君はただ、君なりに現状を何とかしたかったんだよね」
リンはこくりと頷いた。
「状況が変わらないのに時間ばっかり過ぎて行くから、ちょっと焦ってたんだ。一人でも子供を産んでみんなを安心させたかったんだけど、一人増えたって意味がないよな。少しずつでも一族が数を増やして行けるようにしないとさ」
「そうだね。それが本当に君がやるべきことなんだと思うよ」
「うん、ありがとうな。もう子作りはやめるよ」
リンはいつもの調子に戻って明るく笑うと、クレイに背を向けて再び歩き出した。
その背中を追いかけて、クレイも再び歩き出す。
リンと心が通じ合えたかはわからなかったが、リンがもう好きでもない男達と寝ないと決めたのなら、それで十分だった。