―6―
翌朝。
リンは目蓋を押し上げて、うっすらと目を開けた。
先程まで眠っていた体はまだ目覚め切ってはおらず、リンはぼんやりしたまま二、三度瞬きする。
今の季節は昼はとにかく暑いが、朝は冷え込むため、布団の外に出ていた手が少し冷たくなっていた。
夜はもう明けているようで、出入り口に掛かる布の向こうは明るい。
スイランとナギは一晩中ずっとお喋りをしていたらしく、昨日最後に見た時と同じ場所に座り、楽しげに言葉を交わし続けていた。
リンが視線を少しずらしてクレイを探すと、クレイはまだ眠っている。
その寝顔は心なしか起きている時より幼い印象で、少し可愛かった。
リンが思わず口許を綻ばせた時、スイランが声を掛けてくる。
「起きたのね。おはよう」
朝の挨拶をしてくるスイランに、リンは体を起こしながら挨拶を返した。
「おはよ」
何度も交わした言葉だが、そのやり取りがどこかぎこちないのは気のせいではないだろう。
一族をこれからどうして行くのかについて、何度も話し合っているが、なかなか意見の一致を見なかった。
スイランがスイランなりに一族のことを考えているのはよくわかっているし、同じようにスイランも自分が一族のことを真剣に考えていることはわかってくれている筈だ。
それでも互いに一族にとっての最善を望んでいるからこそ、なかなか考えを曲げることができなかった。
だが、決して仲が悪くなった訳ではない。
顔を合わせれば他愛のない話もするし、自分のことを心配してわざわざ泊まりにも来てくれる。
蟠りのようなものが、全くないと言うと嘘になるのだろうけれど。
リンが思い切り伸びをしていると、ナギが言った。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん。ちょっと疲れてたけど、もうすっかり元気だよ」
「良かった」
僅かに瞳を笑ませたナギにリンが微笑み返すと、スイランは居丈高に言った。
「ちゃんと一晩中見張っといてあげたわよ。その無威者ってばさっさと寝ちゃって、妙な真似をする素振りもなかったけど」
「無威者じゃなくて、クレイだよ。ちゃんと名前で呼んでやってくれ」
「どうでもいいわよ。名前なんか」
「何もそんなに毛嫌いしなくてもいいのに……いい奴だと思うけどなあ」
リンは眠ったままのクレイを一瞥してそう言った。
クレイとは昨日会ったばかりだが、概念をやり取りするためにずっと触れていた心は優しかった。
簡単に壊れてしまいそうな繊細さと微かな怯えを感じて憐れに思いはしても、敵意を向ける必要は感じなかったのだが。
スイランもクレイと精神の一部を繋げていたのだから、クレイが悪人ではないとわからない訳でもないだろうに、本当に無威者が嫌いなのだろう。
何とか打ち解けてくれないものだろうかとリンが思っていると、ナギが控えめにスイランに言った。
「あのね、私もその人、悪い人じゃないと思う。無威者だから、ちょっと怖いけど……」
「何よ、あんたまでそいつの肩持つ気?」
「別に、そうじゃないけど……」
ナギはスイランから目を逸らして、曖昧に語尾を濁した。
ナギは昔からスイランの言葉のきつさが少々苦手なようで、強く言われるとなかなか言い返せずに口を噤んでしまうところがある。
だが、もしかしたら本当はもっと言いたいことがあるのかも知れないと、リンはナギの背中を押してやることにした。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと最後まで言った方がいいぞ」
ナギはこくりと頷くと、自らを鼓舞するように両手を握り締めて言った。
「あんまり辛く当たったら、可哀想、だよ。その人の心、優しかったよ。それに、ちょっと怯えてた」
「スイランだって、それくらいわかってるだろ?」
リンの問いかけに、スイランは渋々ながら頷いた。
「勿論わかってるわよ。わかってるけど……無威者なんだもの」
「お前の気持ちもわからなくはないけどさ、そういうのやめようよ。お前だって、何の恨みもないクレイに辛く当たるのがいいことだなんて思ってる訳じゃないんだろ?」
「それは……まあ……」
スイランは目を逸らすと、歯切れ悪くそう言った。
物言いはきつくても、その心根が優しいのは子供の頃から変わらない。
リンがにんまりと笑うと、スイランは少しむっとした顔になって唇を尖らせた。
「でも、私にだって立場ってものがあるし、何よりみんなに示しが付かないわよ」
「客人をもてなすのに、立場も何もないだろ? 私達が何の問題もなくクレイと親しくしていれば、みんなだってその内わかってくれるよ。ちょっと時間はかかるだろうけどさ」
「そんなこと言って、なし崩しに私達を自分の方針に従わせようとしてるんじゃないでしょうね?」
スイランが疑念に満ちた眼差しをリンに向けると、リンは小さく笑った。
「穿ち過ぎだよ。私はただ、みんなに仲良くしてもらいたいだけだ」
「……本当?」
「本当だよ。一族の未来に関わることなんだから、ちゃんとお互い納得できる形で決めないと。そんなに私が信用できないんだったら、思考を読んでみるか?」
リンはそう問いかけたが、いくら思考や感情を読み取る能力があっても、誰かの心を見たり、見せたりすることはまずない。
それはできるからこそ、やってはいけないことだった。心は美しい思いだけでできている訳ではないのだから、気安く暴き立てていいようなものではないのだ。
子供の頃から言い聞かされてきて、よく心得ていたが、身の潔白を証明するためにはこうするしかなかった。
いくらでも偽ることができる言葉と違って、心は決して偽れない。
スイランは完全に疑いを消した訳ではないようだったが、小さく溜め息を吐いて言った。
「いいわよ、そこまでしなくても。あんたはそんな狡いことができる性格じゃないわよね。疑ったことは謝っておいてあげるわ」
スイランの態度は相変わらずだったが、これでも素直に謝るのが苦手なスイランにしては頑張った方だろう。
とりあえずはわかってもらえたようで良かった。
安堵するリンに、スイランがぴしゃりと言う。
「言っておくけど、必要以上にその無威者と慣れ合うつもりはないわよ。口くらいは利いてあげるけど」
「うん、ゆっくりでいいよ。私はもうクレイと友達だし、お前だってナギだって、きっと友達になれるよ」
リンはナギに視線を移すと、その大きな目を覗き込むようにして問いかける。
「ナギもわかってくれるよな?」
ナギはこくりと頷いた。
目を覚ましたクレイは見慣れない天井にぎょっとして身を固くしたが、すぐに昨日の出来事を思い出して体の力を抜いた。
家の中を見回してみると、スイランとナギの姿はなく、リンだけが一糸纏わぬ姿で身を清めている。
水取り口から布を水に浸して、濡らした布で体を拭いていくリンのほっそりした体は驚く程白かった。
小ぶりだが形のいい胸や細くくびれた腰の線がひどく綺麗で思わず目を奪われたが、クレイはすぐに我に返ると、慌ててリンから目を逸らす。
「おはよう」
リンは裸を見られたことなど全く気にしていないのか、平然とそう挨拶してきた。
お互いに気まずい思いをしないように気を遣ってくれているとも考えられたが、リンにはあっけらかんとしたところがあるようなので、本当に何とも思っていないのかも知れない。
クレイはしどろもどろになりつつも、何とか挨拶を返した。
「お、おはよう。ごめん、その、見ちゃって……」
「気にしないでいいぞ。私の方こそ、こんな格好で悪いな。お前が起きる前に済ませておくつもりだったんだけど」
「間が悪くて本当にごめん……ところで、スイランとナギは?」
「着替えに戻ったよ。ナギは食事も済ませてくるって」
「そうなんだ。ええと、今日は何か予定はあるのかな?」
「ああ、ちょっと昼から城に顔を出しに行こうと思ってる。王妃様にお前のことをお話しておきたいからな。できればお前も連れて行きたいけど、同族でもおいそれとは行けない場所だから、悪いけどお前のことはスイラン達に頼むことにするよ。ナギはともかくスイランはあの通りちょっときつい性格だけど、理由もなく酷いことをするような奴じゃないから、安心してくれ」
「僕なら大丈夫だよ。気にしないで、行ってきて」
クレイは少し無理をしてそう言った。
本音を言うと、リン抜きであのはっきり物を言うスイランと一緒に過ごすのは気が重かったが、我儘を言ってリンを困らせるのも悪い。
「もうこっちを見てもいいぞ」
クレイがそろそろと視線をリンに戻すと、リンはきちんと服を着ていた。安堵すると同時に、少し残念に思ってしまった自分がどうにも悲しい。
リンは髪から滴る雫を気にするでもなく言った。
「お前は朝は基本的には食べなくて、昼と夜にしっかり食べるんだったよな? で、腹が減ってる時には間食もするってことで」
「うん、昨日ちょっと話しただけなのに、よく覚えてるね」
「私達は、基本的に忘れるってことがないからな。精神に傷を受ければ、その限りじゃないけど」
「本当に? それも肉体が半分しかないおかげ?」
「まあな」
「いいなあ、羨ましい」
クレイは心の底からそう言った。
読んだ本の内容を全て覚えていられたら、知識だけは容易く大学教授並みになれそうだ。
ここに来た時点で数学への関心は捨てたつもりだったが、こんな話を聞かされると、転化して勉強を続けてみたいという欲が出てきてしまう。
有威者になるのも悪くないかも知れなかった。
そんなクレイの考えを見透かしたように、リンはにやりと笑って訊いてくる。
「無威者をやめてみるか?」
「ごめん、それはもうちょっと考えさせて」
人間であることを捨てる方に心が傾いたのは事実だが、まだ思い切ることはできなかった。
クレイの答えに、リンは大口を開けて笑う。
しとやかさとは無縁なその姿にクレイは何とも物悲しい気分になったが、実にリンらしいとも思った。
「じゃあ、出掛けようか。昼までは辺りの見回りをするのが私の日課なんだ」
リンは出入り口の布を捲り上げながらそう言った。