―5―
クレイがリンの背中を抱き締め返した時、足音荒く男が入ってきた。
リンとは十歳程も年の離れた男。細身だが、先程ざっと有威者達を見た印象では男女で体型の差があまりないようなので、これくらいが標準的な男性の体型なのだろう。
自分にしか見えない色は青みがかった濃い緑だった。
リンの恋人だろうか。
そうであってもなくても、まずいところを見られてしまった。
決して妙なことをしていた訳ではないが、男女が密室で抱き合っていたら誤解されても文句は言えない。
驚いて涙の止まったクレイがすっかり固まっていると、男は鬼気迫る形相で歩み寄ってきて、リンをクレイから引き剥がした。
男はそのままクレイに掴み掛かって拳を振り上げたが、リンはその拳が振り下ろされる前に、細腕に似合わぬ強烈な一撃で男を殴り倒す。
流石は一族最強。
腕一本で、一瞬にして決着してしまった。
クレイが唖然としてリンを見つめていると、リンは凄まじい剣幕で倒れた男を怒鳴り付ける。
「やめろ! 何の力もない、敵でもない奴に暴力を振るうな! 私達は威ある者だ! 卑怯者じゃない!」
リンは本気を出してはいなかったらしく、男はふらつきながらもすぐに起き上がって、リンに食って掛かった。
「いきなり何しやがる!?」
「それはこっちの台詞だ! クレイがびっくりしてるだろ! さっさと帰れ!」
「俺は追い返すのに、そいつとは一緒に住むのか!? サイカから聞いたぞ! お前が無威者の男と二人っきりで住むことにしたって!」
「別に疚しいことはないぞ。客人を泊めるだけだ。他に泊まる所もないしさ」
「だからって、軽々しく男と住むな! やめろ! 考え直せ! 俺の家に来い! 今すぐ俺と結婚しよう!」
結婚!?
できればそういう話は二人きりの時にして欲しかった。
クレイがどうしたものかと困惑していると、リンが些か面倒臭そうな口調で男に言う。
「今は長の務めで手一杯だから、誰とも結婚する気はないよ。何度も言っただろ」
「じゃあ、いつなら結婚する気になるんだ!? 今のところ後継者がいないも同然なんだから、下手すると死ぬまで長を続けることになるんだぞ! 死ぬまで独り身を貫く気なのか!?」
「そこまで考えてないけど、スイランだってまだ独り身じゃないか。スイランが結婚したら、私も考えるよ。相手はお前じゃないかも知れないけど」
「何で俺じゃ駄目なんだ!」
「何でって言われても……別にお前じゃ駄目だとは言ってないだろ。大事なことだから、もっと考える時間が欲しいんだ」
話を聞いていると、どうも男が一方的にリンに夢中になっているだけで、リンにその気はないらしい。
クレイは少しほっとしてから、そんな自分にひどく驚いた。
これはもしかして、リンのことを好きになってしまったのだろうか。
そうかも知れない。
こんな女の子に出会ったのは、初めてなのだから。
クレイが久しく忘れていた温かな感情に戸惑いながらも幸せを感じていると、男はリンの細い両肩を掴んで言った。
「とにかくそいつが帰るまで、俺も帰らないからな! つーか、今すぐそいつを捨てて来てやる!」
「寧ろ私がお前を捨てて来てやるよ。今すぐ帰らないなら、湖の果てまで吹っ飛ばしてやる。多分死ぬと思うけど」
目を半眼にして剣呑な台詞を口にするリンにはかなり凄みがあって、男は少したじろいだ。
「……一つ確かめておきたいんだが、そいつはお前の男って訳じゃないんだな?」
「ついさっき会ったばかりなのに、いきなりそんな仲になる訳無いだろ。只の友達だよ」
リンに友達だと思ってもらえていたと知って、クレイは素直に喜んだが、しかしすぐに複雑な気持ちになった。
只の友達ということは、今のところ完全に恋愛の対象外だと思われているということだろう。
大の男を容易く殴り倒せるリンからすれば、何の力も持たない人間など非力過ぎて、全くときめかないのも無理はなかった。
この恋、駄目かも知れない。
クレイが思わず遠い目をしていると、リンが続けて男に言った。
「お前が心配するようなことは何もないから、安心して帰れ。出て行け。二度と来るな」
「……お前、実は俺のことすげえ嫌ってないか?」
「別に。こういうやり取りをしてる間にも帰って欲しいと思うくらい、迷惑だと思ってるだけだ。じゃあな」
リンは男を追い出すと、クレイに向き直った。
「悪かったな。あいつ、テンウって言うんだ。別に悪い奴じゃないんだけど、ちょっと喧嘩っ早いところがあって……」
「別に気にしてないよ」
クレイはそう言ってから、おずおずと問いを唇に乗せた。
「……ねえ、立ち入ったことを訊くようだけど、さっきの人って恋人?」
「違うぞ。子作りしてる奴の一人ってだけだ」
「そ、そうなんだ……」
クレイは少なからず落ち込んだ。
リンが男を何とも思っていないにしても、肉体関係があると聞かされて愉快な気持ちにはなれない。
しかも他にも関係がある男がいるというのでは尚更だ。
妊娠の確率を上げるためなのだろうが、いくら一族のためとはいえ、リンが自分の身をそんな風に犠牲にしているのは酷く痛々しく思えた。
「その……凄く失礼な質問だと思うけど、もう一つ訊いてもいい?」
「いいけど、何だ?」
「この村の女性って、みんな君みたいに好きでもない人とでも子供を作ろうとしてたりするのかな?」
「まさか」
リンはあっけらかんと笑って続けた。
「いくら私が長でも、そんなことを強制できない。私だって一応女だし、本音を言えば伴侶を決めるまでは綺麗な体でいたかったけど、私にできるのはこんなことくらいだしな」
「だからってそこまでしなくても……スイランも君と同じことをしてるの?」
「いや、そういう話は聞いてないな」
「だったら、君はどうして……? 君がそこまでしなくても、誰も君を責めたりしないと思うよ」
「お前はいい奴だな」
リンはにこりと笑って続けた。
「スイランとなかなか終わらない話し合いをするだけなんて、嫌なんだ。早く行動したいんだよ」
クレイはもう何も言えなかった。
長という立場にあるリンからしたら、一族が滅びかかっているというこの状況は確かに気が急いて仕方がないだろう。
村の雰囲気は穏やかだが、もう誰も生まれることもなく、ただ緩やかに滅んでいくばかりという状況はなかなかに絶望的だ。
リンがとにかく子供を作ろうと躍起になるのも理解できる。
たった一つでも新たな命を生み出すことができれば、それはリン達にとって大きな希望になるに違いなかった。
一族のためにリンが自分を犠牲にしているのは胸が痛んだが、只の余所者である自分がこれ以上どうこう言えることではない。
本当は今すぐにでもやめて欲しいけれども。
「……君とスイランは、何をそんなに揉めてるのかな?」
「一族のこれからについてだよ。さっきも話したけど、私は無威者を一族に迎え入れようと思ってるんだ。できれば一族の者だけで子孫を残して行きたいところだけど、それはやっぱり難しいみたいだから。でもスイランはそんなことをするくらいなら、このまま滅んだ方がいいって。いくら王の御力で同族になったところで、無威者は無威者で、私達の仲間じゃないから」
クレイは軽く目を伏せた。
もし人間であることを捨てたとしても、それでも同族とは見てもらえない。
恐らくは他の者達もスイランと同じだろう。
残念だが、それも仕方のないことだ。
いくら体を作り変えたところで、自分は有威者の文化や価値観を身に付けてはいない。
これから学ぶことはできるが、恐らく完全に身に付くことはないだろう。
リンがどれくらいの数の人間を一族に招き入れようとしているのかはわからないが、場合によっては有威者が文化的な危機に晒されることになりかねなかった。
仮に種として存続できたとしても、元々持っていた文化を失ってしまったら、それはもう滅んだも同然に違いない。
元々敵対勢力に属していた人間を危険因子と見做すのは当然であるし、元人間を一族に加えるくらいなら滅んだ方がいいとスイランが考えるのも無理はなかった。
少し、いやとても残念だけれども。
クレイが目を伏せたまま黙っていると、リンが続けた。
「無威者を一族に加えたら争いの元になるだろうってことくらい、私でもわかってるよ。でも、私は一族が滅びるのを何もしないで見ていたくないんだ。王妃様が教えて下さったんだけど、無威者はいろんな文化や外見を持つ連中が交わることで、発展してきたんだろう? だったら、私達も同じようにできるかも知れない。試してみたいんだ。みんなを守るだけじゃなくて、一族を次の代の者に託すのも、私の役目だと思うから」
「一族の人達は、君を支持してくれてるの?」
「まあ、半分くらいはな。無威者を良く思ってない奴は多いけど、このまま一族が滅びるよりはマシだから。でも、王が私達を守って下さっているおかげで、今まで無威者に殺された仲間はほとんどいないんだ。敵だと思ってはいても恨みはないようなものなんだから、元が無威者であっても、いい奴だったらみんなも仲間だと認めてくれるかも知れない。私達は相手の心がわかるんだから、いい奴を見付けるのはそう難しいことじゃないしな。だから、お前みたいに私達の仲間になりたいって言ってくれる奴に、仲間に加わってもらいたいんだ」
クレイが目を上げると、リンは淡く微笑んだ。
閉鎖的な社会で暮らしてきたリンには、余所者に対してどれ程の排他性が働くものなのか、今一つわからないのだろう。
だが他国と地続きで、外国人など珍しくもないベルファースで育ったクレイには、元は人間であった者が不当に差別されたり、利害の対立時に殺されたりする様が想像できて、何とも複雑な気分になった。
だがそうした問題も、リン達が向き合うべきことなのかも知れない。
たとえ解決できなくても、何度同じことを繰り返しても。
今まで人間達がそうしてきたように。
「部外者の僕がこんなことを言うのもおこがましいと思うけど、君の考えは前向きでいいと思うよ。時間はかかるだろうけど、やってみたらいいんじゃないかな」
「ほんとか?」
「うん」
「だよな! 私もそう思うんだけど、スイランにはなかなかわかってもらえなくて……私の考えが間違ってるのかなとか、気弱になったりもしてたんだ」
「難しい問題だから、一概にどっちが正しいとは言い難いけど、僕は君の考え方の方が好きだよ」
「ありがとう!」
リンはそう言って、子供のように無邪気に笑う。
とても美しい顔立ちをしているのに可愛いとしか言いようのないその笑顔に、クレイはどうしようもなく胸が高鳴ってひどく困った。
クレイはそれからも、日暮れまでリンとたくさんの話をした。
人間と完全に没交渉であるリンにとって、人間の暮らしぶりはとても興味深いものらしい。
次から次にいろいろなことを訊かれた。
これまで住んでいたのはどんな所だったのか。
人々はどんな暮らしをしているのか。
どんなものに価値を見出すのか。
他にも礼儀作法や習慣、社会の仕組みなど、様々なことを訊かれて、思い付く限りのことを答えた。
すっかり話に夢中になって昼食を摂っていなかったが、リンとたくさん話ができたことが嬉しくて、それ程苦にはならなかった。
窓から斜めに差し込む光が赤みを帯び始めると、リンはたくし上げていた出入り口と窓の布を下ろし、薄暗かった部屋の中はいよいよ暗くなる。
明かりが欲しいなとクレイが思っていると、リンは眼前に上げた手の平の上に、握り拳程の小さな光を生み出した。
その白い光は炎や太陽から放たれるそれのように温かくはないが、光量は十分で、本が読めるくらいの明るさがある。
しかも、すぐに消えてしまう訳でもなかった。
何かを燃やしている風でもないのに、この光はどうやって維持されているのだろう。
クレイは興味深く光に見入りながら、リンに尋ねた。
「凄いね。これ、どうやって明るくしてるの?」
「私の力を光の形で発現させてるだけだよ。似たような要領で力を物質化させると、服や靴だって創れるんだ。こんな風にな」
リンはもう一つ光の玉を生み出したが、その光はすぐに細長く伸び、銀色に輝く一本の簪になる。
いくつもの可憐な花をあしらったその簪は、リンによく似合いそうだった。
「ちょっと持たせてもらってもいい?」
「いいぞ」
許しを得たクレイがそっと簪を手に取ると、驚く程軽かった。
全く重さを感じない。
力という質量のないものに仮初の形を与えているだけのようだから、重さがある方がおかしいのだろう。
クレイは納得したが、少し引っ掛かることがあった。
「ねえ、さっきサイカは機織りしてたよね? こんなに簡単に服が創れたりするなら、わざわざあんな手間の掛かることをする必要はないと思うんだけど……」
「サイカは力を物質化できないんだ。これ、結構難しいことだからさ。言っただろ? 私達の一族は力の大半を失ってるんだ。サイカは心で話すくらいのことはできるけど、それ以外のことはほとんど何もできないから、ああやって機織りして自分の服を作ってるんだよ」
「ああ、それで……」
クレイが腑に落ちると、リンはすっと立ち上がって言った。
「そろそろ夕食を調達に行こう。腹が減っただろ?」
「あ、うん。ありがとう。ごめんね、君は食べなくても平気なのに」
有威者は半分しか肉体を持っていないため、食事や睡眠は数日に一度で十分なのだそうだ。
ついでならともかく、基本的に食事は自分のためだけにわざわざ用意してもらうことになるため、クレイとしてはどうにも心苦しい。
リンは長として領土を守る代わりに、村人達から食べ物を融通してもらっているそうなので、リンに対してと言うより村人達に対して申し訳なかった。
「別に気にしなくていいぞ。私もそろそろ腹が減ってきたところだし」
そう言いながら家を出たリンを追って、クレイも外に出た。
暮れていく空の下、リンの青銀の髪が夕日を受けて紫がかった銀色になる。
クレイがその美しさに思わず見惚れていると、不意にリンが大声を出した。
「おーい! 誰か、食べ物を分けてくれないかー!?」
湖全てに響き渡りそうなその声に応えて、同じ木に縄で繋がっていた家の一つから中年女――あるいは老婆かも知れない――が顔を出した。
「魚で良かったら、分けてあげられますよ」
「ありがとう。今行く」
リンはふわりと体を浮き上がらせると、程無くして女の元に降り立った。
「悪いな、助かるよ。美味そうだ」
「あんまり大きくなくてごめんなさいね。どうぞ」
少し申し訳無さそうに言う女から、リンは笑顔で皿を受け取ると、再び空を低く飛んでクレイの所に戻った。
家の中に入り、再びクレイと向い合って腰を下ろすと、リンは皿を床に置く。
皿はリンの顔よりも大きかったが、そこに乗った魚は皿より一回り小さかった。
いい色の焦げ目が付いた魚は焼かれたばかりらしく、油が小さく音を立てていて、食欲をそそる香りを漂わせている。
リンは虚空に創り出した短刀を手に取り、魚を三分の一の所で切り分けた。
そうして小さい方の魚を素手で取ると、大きい方の魚が載ったままの皿をクレイに差し出して言う。
「お前の分だ。食べてくれ」
「ありがとう。でも、君はそれだけで足りるの? 半分に切り分けてくれれば良かったのに……」
「大丈夫だ。まだそれ程空腹って訳でもないしな」
リンはそのまま魚に齧り付くかと思いきや、魚を前に厳かとも言える口調で言った。
「頂きます」
「それはお祈りの言葉か何か?」
「感謝の言葉だよ。飢えを満たして、自分の一部になってくれる生き物へ、有り難く食べさせてもらうよっていう意味で言うんだ」
「いい習慣だね」
子供の頃からの習慣で食事の前にはいつも神に感謝の祈りを捧げてきたが、よくよく考えてみたら感謝は会ったこともない神よりも、食べ物になってくれた目の前の生き物に対してするべきことだったのかも知れない。
クレイはリンに倣って言ってみることにした。
「頂きます」
リンはにっと笑うと、大口を開けて豪快に魚に齧り付いた。
そのお世辞にも上品とは言えない姿を見て、クレイは内心うわあと声を上げる。
文句の付けようがない美少女なのに、その食べ方はガサツとしか言いようがなかった。
ナイフやフォークといった食器が出て来ないことからして、恐らくリンにとっては無作法でも何でもない食べ方なのだろうが、異なる文化で育った自分の目にはどうしても粗野に映ってしまう。
あまりにも勿体なかった。
美味しそうに食べる笑顔は、とてもいいと思うのだけれども。
クレイがそんなことを考えていると、リンが口をもごもごさせながら訊いてくる。
「食べないのか?」
クレイは慌てて魚を手に取ろうとしたが、まだ熱くて慌てて手を引っ込めた。
「使うか?」
リンが先程魚を切った短刀の柄を差し出した。
クレイは有り難く受け取ると、更に魚を小さく切り分け始める。手で押さえて切ろうにも、熱くてあまり長い間は触っていられない。
おかげでなかなか上手く切れなかったが、格闘している内に魚が冷めてくると、ぐっと切り易くなった。
一切れ切り分けたところで、クレイはフォーク代わりに短刀で切り身を刺して口に運ぶ。
淡泊な味わいのその白身は、特に調味料の類はかけられていないらしく、魚そのものの味しかしなかった。
不味くはないが、どうにも物足りないような気分になる。
不満が顔に出ていたのか、リンが少し残念そうな面持ちになった。
「口に合わないか?」
「あ、違うんだ。美味しいんだけど、僕が生まれ育った国とはやっぱり食べ方が違うから、ちょっと戸惑って……君達は料理に味付けしたりしないの?」
「味なら、魚の味がちゃんとするじゃないか」
確かに、リンの言葉は正しい。
毎食この調子だと少々辛そうな気もしたが、慣れてしまえば案外どうということもないのかも知れなかった。
クレイが再び魚を切り分け始めると、リンが魚を飲み下して言った。
「なあ、私は無威者じゃないから、お前達のことが本当にわからないんだ。だから変に遠慮なんかしないで正直に答えて欲しいんだけど、無威者の一食分ってこれくらいで足りるものなのか?」
クレイはどう答えたものか、少し迷った。
正直なところ、主食もなしに一匹にも満たない魚だけではとても満腹にはならないが、本当に正直に言ってしまっていいものだろうか。
意地汚く思われそうでどうにも気が引けたものの、しかしこれを適正な量だと思われて、毎回この量を出されたら体が持ちそうにない。
クレイは控えめな表現で事実を伝えることにした。
「できれば、もうちょっと量が多いと嬉しいかな。こういうことは個人差があるから、この量で十分足りる人もいるとは思うけど」
「じゃあ、ちょっと頑張らないとなあ。今日は何とかなったけど、これから毎日二回食事の用意をしなきゃならないとなると、流石にずっとみんなに甘える訳にも行かないし。都合良くいつも誰かが食事してるとも限らないしな。しばらくやってなかったから、腕は落ちてるだろうけど、明日から魚釣りとかしてみるよ」
「でも、君は責任ある立場の人なんだから、忙しいんじゃない? 僕は特にやらなきゃいけないこともないし、できるだけ自分で何とかするようにするから」
魚釣りなどやったことはないが、ここにいるならそれくらいのことはできるようにならなければいけないだろう。
クレイがもう一切れ魚を口に入れると、リンが言った。
「私だって時々は食べなきゃならないんだし、そう気を遣わなくてもいいぞ。辺りの見回りをしたりはするけど、一日中忙しくしてる日なんて滅多にないんだ。私の役目は基本的に一族のみんなを守って戦うことだから、何もなければそれなりに暇なんだよ。役割分担って言っても、みんなが機織りをしたり、魚を獲ったりしてるのに自分だけ何もしてないのもちょっと肩身が狭いしさ」
気を遣うなとリンは言ったが、そう言うリンの方こそ余程気を遣ってくれているとクレイは思う。
言ってみればこれまで召使いにさせていた雑用を自分でこなすようなもので、食料の調達などリンにとっては煩わしいことでしかないだろうに。
クレイは魚を飲み下してから、ゆっくりと言った。
「ありがとう」
食べ終わった皿を先程の女に返しに行ったリンは、戻ってくるなり細い腰に手を当てて言った。
「さてと。食事も済んだし、後は寝床だな。悪いけど、客人用の布団はないから、サイカのを使ってくれ」
「うん、ありがとう」
クレイは差し出された掛け布団に敷き布団、枕を受け取った。
布団はどちらも薄手で、あまり上等とは言えなかったが、使わせてもらえるだけ有り難いと言うべきだろう。
クレイが布団を広げていると、出入り口の布の向こうから声がした。
「リン、入るわよ」
「入るよ」
連れ立って入ってきたスイランとナギは、揃って寝具を一式抱えていた。
どうやらここに泊まるつもりらしいが、家主であるリンの許可は得ていなかったようだ。
リンが少し驚いた様子で問いかける。
「二人共、どうしたんだ?」
「サイカがしばらく余所で寝泊まりするって言うから、仕方なく来てあげたのよ。昼ならまだしも、夜に無威者と二人っきりなんて、絶対駄目なんだからね!」
スイランは気恥ずかしいのか、リンから大きく目を逸らしてそう答えた。
リンとスイランとは意見が対立しているということだったが、その友情は決して損なわれてはいないらしい。
それどころか、リンの身を案じて毛嫌いしている人間と一つ屋根の下で過ごそうと言うのだから、寧ろかなりリンのことを大切に思っているに違いなかった。
只の友人と言うより、親友と言うべき間柄なのだろう。
つい先程やっとリンという友人ができたばかりのクレイからすると、そこまで親しい友人がいるというのは何とも羨ましい話だったが、当のリンはあまり喜んではいないようだった。
「クレイは悪人じゃないし、寝るのなんて時々なんだし、別に心配しなくてもいいのに……」
「そいつの見張りも兼ねてるのよ。入浴の時とか、あんた一人じゃ目が行き届かないでしょ?」
「まあ、クレイを一人にしておくと、不安に駆られて危害を加えようとする奴がいてもおかしくないし、私が側にいられない時にクレイの側に付いててくれるのは助かるよ」
リンはナギに視線を流すと、今度はナギに尋ねた。
「ナギは何で?」
「私も、リンをその人と二人にしておけないと思ったから……家の前でスイランに会ったから、私までお邪魔したら狭くなるし、帰ろうかと思ったんだけど……」
ナギの言葉を引き継いで、スイランが言った。
「私が一緒に行こうって言ったのよ。別に遠慮するような仲じゃないもの」
三人共仲がいいんだなあとクレイが目を細めていると、リンが教えてくる。
「私達、みんな幼馴染みなんだ。女同士だし、年も近かったから、自然と仲良くなってな」
「へえ、そういう長い付き合いの友達がいるっていいね」
そう言いはしたが、正直なところあまりに性格が違い過ぎて、この三人が仲がいいというのはクレイにはひどく意外に思えた。
大人しい性格のせいか、ナギだけ一歩引いているような印象を受けるので、尚更そう思う。友情というものは思った以上に難しいもののようだった。
「まあ、とにかく二人共座ってくれ。布団はその辺に置いて。サイカもいないことだし、好きなだけいてくれていいから」
リンが水取り口を挟んで向かい合って座るクレイの斜め両隣に追加の敷物を敷きながらそう言うと、スイランとナギは持ってきた布団を壁際に置いて、スイランがクレイの右手に、ナギが左手に腰を下ろした。
リンが少し眠そうに目を擦ると、ナギが小さく首を傾げて問いかける。
「眠いの?」
「うん、ちょっと」
リンがとろんとした目でそう答えた。
ちょっとどころか、かなり眠そうだ。
まだそれ程遅い時間ではないと思うのだが、時計を持っていないので、正確な時間はクレイにはわからなかった。
リンはいよいよ落ちてきた瞼をこじ開けながら言う。
「今日はいろいろあって、ちょっと力を使ったからな。もう一日くらいは起きていられるつもりだったんだけど」
先程クレイがリンに聞いたところでは、有威者は数日に一度程度しか睡眠を必要としないらしい。
食事の頻度が数日に一度であることと同じく、肉体を半分しか持っていないことによる恩恵なのだろう。
それでも力を使って疲れれば、眠らずにはいられないようだった。
スイランがリンを一瞥して言う。
「休んでいいわよ。私はまだ眠くないから」
「私も大丈夫」
ナギがそう言うと、リンはゆるりと立ち上がった。
「じゃあ、悪いけど、私は休ませてもらうよ」
「あ、僕も」
クレイは立ち上がると、先程リンから与えられた布団を広げて寝支度を始めた。
だが、実のところあまり眠くはない。
いろいろあって疲れてはいても、初めての場所で、今日会ったばかりの人達に囲まれていては、緊張して眠れそうになかった。
それでも寝ると言ったのは、リンがいない状況で自分のことを良く思っていないスイラン達と顔を突き合わせていたくなかったからだ。
ここにいればいずれはそういう時が来るのだろうが、とりあえず今日のところは遠慮したい。
クレイが敷き布団の上に横になってみると、辛うじて足ははみ出さずに済んだ。
薄い布団を通して床の固さを感じる。
朝起きたら体が痛くなっていそうだが、我儘を言える立場ではなかった。
クレイは薄手の掛け布団を被ると、目を閉じる。
「おやすみ」
「ん、おやすみ」
挨拶を返してくれたのは、リンだけだった。
少し落ち込んだが、全員に無視された訳ではないのだからとクレイが自分を慰めていると、リンの声が聞こえた。
「悪いな。せっかく来てくれたのに、碌に相手できなくて」
リンの言葉はスイラン達に向けられたもののようだった。
「いいわよ、別に。多分しばらくは一緒に暮らすんだし」
「そうだよ。ゆっくり休んで」
スイランとナギが口々に言うと、リンが横になる音がした。
「じゃあ、おやすみ」
スイラン達は少ししてから小声で会話を始めたが、その内容はすぐにクレイには理解できなくなった。
リンが眠ったのだろう。リンから伝わる概念で言葉を理解していたのだから、リンが眠ってしまえば言葉がわからなくなるのは仕方がない。
クレイはしばらくスイラン達の声に耳を傾けていたが、思った以上に疲れていたようで、いつの間にか眠りに落ちていた。