―3―
クレイがそう開き直った時、湖らしきものが見えてきた。
浸水林の向こうに百戸程の木造の建物――多分家だろう――が浮かんでいて、水上に突き出た木々のあちこちに縄で繋がれている。
漁をしたり、舟で移動している者達の姿も見えた。
思い思いに過ごす有威者達は皆リン達のように人間には見られない変わった髪と瞳の色をしていて、クレイはリン達が特別珍しい容姿をしている訳ではないのだと知る。
リンが先程話していた通り、赤子や幼い子供の姿は全くなかったが、反対に老人の姿も見受けられない。
大半が中年と思われる男女ばかりで、なかなか歪な人口構成だった。
リンは足を止めると、体ごとクレイを振り返って言う。
「あれが私達の村だよ」
「水の上の村なんて初めて見たよ。面白いね」
「ふーん、お前達は湖の上に村を作ったりしないのか。私達は長いことここに住んでるから、これが当たり前なんだけどな」
リンはそう言うと、その美しい面をナギに向けた。
「ちょっと待っててくれ。誰か見回りの代わりを寄越すから」
ナギは黙って頷いた。
元々口数が少ない性質なのかも知れないが、もしかしたらナギがあまり喋らないのは自分がいるせいなのかも知れないとクレイは思う。
何となくだが、嫌われていると言うより、怖がられているような気がした。
人間を圧倒する力を持つと言われる有威者が人間を恐れるというのも妙な話なので、只の勘違いかも知れないが。
一方のリンは警戒する素振りすら見せてはいないし。
「じゃあ、また後でな」
リンはナギにそう言うと、再びクレイに抱き付いた。
やはり先程と同じ方法で移動するらしい。
少しどころかかなり恥ずかしいので、できればすぐそこに繋がれている舟で移動してもらいたいのだが、多分これはナギが使うのだろうし、我慢するしかなかった。
クレイが控えめにリンの背中を抱き返すと、リンはクレイと共に浮き上がる。
木々の間を抜けて広い空に飛び出すと、視界に収まり切らない程巨大な湖が日の光を弾いてきらめいていた。
その雄大さに、クレイはただただ圧倒される。
言葉もなく湖に見入っていると、村人達が少しずつリンに気付き始めた。そしてリンと一緒にいるクレイを見て、一様にぎょっとした面持ちになる。
驚きはすぐに敵意に変わり、大抵の者が眼光鋭く睨み付けてきた。
予想はしていたが、やはり異種族の中で暮らすのは簡単なことではないのだろう。
リンがいなかったら、ここで逃げ帰っていたに違いない。
リンにしても純粋な好意で自分に良くしてくれている訳ではないようだが、悪い子ではなさそうだった。
もしかしたら、友達になれるかも知れない。
自分のことをわかってもらえるかも知れない。
だから、もう少しだけでもここにいてみたかった。
「ちょっと、何で無威者なんか連れてるの!?」
遂にリンに文句を付けてくる者が現れた。
リンと同い年くらいの少女が、宙に浮かぶリンの行く手にこれ以上はないというくらいに堂々と立ち塞がっている。
緩く波打つ、新緑のように鮮やかな緑色の髪。
同じ色の強い眼差しの瞳。
ややきつい印象の面差しには、美しいと言うより可愛らしいという言葉がよく似合った。
ナギも可愛らしい少女だったが、物静かで可憐な印象だったナギとは違い、この目の前の少女には勢いよく爆ぜる炎のような奔放さを感じる。
リン達と同じ民族衣装のスカート丈が、太腿が露わになる程短かったせいかも知れない。
自分にしか見えない色は明るい橙。
少女は怒りが収まらない様子で、苛々と続けた。
「何勝手なことしてくれてる訳!? この私に何の断りもなく! リンってばいつもそうじゃない! 何かやってから知らせてくれても遅いの! もっとちゃんと相談してよ! 私だって長なんだから!」
「ごめんごめん、今から話しに行こうと思ってたところだったんだよ」
リンは軽い口調でそう言うと、少女を手で示しながらクレイに教えてよこす。
「クレイ、この子はスイランだ。私の幼馴染みで、さっき話した一緒に長をしてる友達だよ」
道理で、長であるリンに平気で食って掛かってくる訳だ。
クレイが腑に落ちたところで、リンは再びスイランに言った。
「あのさ、こいつクレイって言って、さっきそこで会ったんだけど、仲間にして欲しいんだって」
「はああああっ!? 頭おかしいんじゃないの!? でなかったら、絶対何か企んでるわよ!」
なかなか酷い言われようだが、正気を疑われても仕方がないような真似をしている自覚はあるので、クレイは別に腹も立たなかった。
少し、悲しくはあったが。
「あの、僕は本当にあなた方に対して悪意や敵意がある訳ではないんです。ただ、ここでなら楽しく暮らせるかなと思って……」
「ふざけないでよ! あー全くもう! 何で私が無威者なんかと精神繋げなきゃなんないの! 気持ち悪い!」
「そう嫌うなってば。前から無威者を一族に入れようって話はしてただろ?」
「そうね! 私はずっと反対してるけど! そいつ、一体どうするつもりなのよ!?」
「どうって、とりあえずはお客さんってことでいいだろ? 私の家に泊まってもらうよ」
「絶っ対に目を離さないでよね! 何かあったらあんたの責任よ! 忘れないで!」
「わかってるよ」
「じゃあね!」
スイランが空を飛んで行ってしまうと、クレイはリンに謝った。
「ごめん、僕のせいで君が怒られちゃって……」
「気にしないでくれ。お前が悪い訳じゃない。それよりスイランのこと、嫌な奴と思っただろうけど、できれば嫌わないでやってくれ。別に悪い奴じゃないんだ。ただお前のことをよく知らないから、いろいろ心配なんだと思う」
「うん、わかってるよ。仕方がないことだから。でも、僕がここにいることで君の立場が悪くなったりしない?」
「お前が何か問題を起こせば、そうなるだろうな。でも、私はいい機会だと思ってるよ。無威者と上手くやって行けるか、できれば試してみたいと思ってたんだ。私の他にもお前を仲間だと認めてくれる連中がもっと出て来てくれたら、私に反対している連中の考えも変わるかも知れないし」
リンはそう言うと、近くにいた男に声を掛けた。
自分の代わりにナギと一緒に見回りの続きをするように頼むと、男は二つ返事で引き受けて、乗っていた舟をナギがいる方に向ける。
「これで良しと。待たせたな、もうすぐそこだから」
リンが何事もなかったかのように再び空を移動し始めても、集まっていた敵意を孕んだ視線を置き去りにすることはできない。
ずっとこんな目で見られ続けるのだろうかと、クレイがそこはかとなく憂鬱になっていると、リンは近くの家に降り立った。
抱擁が解かれることに安堵しつつも、離れていくリンの細い腕をほんの少しだけ名残惜しく思いながら、クレイも両腕を下ろす。
眼前の家は、他のそれと比べて特に変わったところはなかった。
筏の上に木を組み合わせて建てられていて、見たところ釘は使われていないようだ。
それ程高度な文明を有しているようには見えないが、建築技術は高いらしい。
出入り口には大きな布が掛けられていたが、今はたくし上げて紐で留められていた。
天井はさして高くなく、辛うじて頭が付かない程度だろう。
中は意外と広いのかも知れないが、ほんの数人が暮らすのがやっとに見えた。
玄関先の手摺には舫い綱が括り付けられていて、その先には櫓で操る舟が浮かんでいる。
「ここ、君の家?」
「そうだよ。狭い所だけど、入ってくれ」
リンに続いてクレイが中に入ると、中は思った通りの狭さだった。
出入り口の反対側には窓があって、かなり風通しがいい。
その窓の上には出入り口と同じように、たくし上げられた布が束ねられていた。
部屋の真ん中には人が余裕で入れるくらいの四角い穴が開いていて、水面が見えている。
少し驚いたが、恐らくは入浴や用足しなどの時に使うのだろう。
物はあまりなく、部屋の隅にある竈に調理器具、釣り竿、長持と布団の他には機織り機しかない。
その狭い小屋の中で、十歳くらいの少女が機織りをしていた。
高く結い上げた髪はリンと同じ青い銀髪。
瞳は紫水晶で、リンをもう少し幼くして生意気さを足したような、文句なしの美少女だった。
自分にしか見えない色は白に近い黄色。
きっとリンの妹だろう。
「妹のサイカだよ」
リンの言葉にクレイがやっぱりなと思っていると、リンはサイカに向かって言った。
「ただいま」
「お帰り」
手を止めたサイカは警戒心を露わにクレイを見た。
やはり歓迎はしてもらえないらしい。
クレイが少し残念に思っていると、サイカはリンに向かって言った。
「さっきスイランと話してるのが聞こえたんだけど、その人家に泊めるって本当?」
「目を離すなって言われたんだから、他の奴に任せる訳には行かないだろ? まさか野宿させる訳にも行かないし」
「いっそ野宿させてよ! 知らない男の人と一つ屋根の下で暮らすなんて、絶対に嫌!」
「じゃあ、悪いけど、お前どこか余所にしばらく泊めてもらってくれ」
「ちょっと! 何でそうなるの!?」
「だって、身内より客人の方が大事だろう? それに私は長だぞ。私の決めたことには従ってもらう」
サイカはぐっと言葉を詰まらせると、機織りを放り出して立ち上がった。
「もういい! わかった!」
サイカは長持を開けて手早く荷物を纏めると、さして大きくもない包みを両手で抱えて、叩き付けるようにリンに言う。
「じゃあね!」
リンは足音荒く出て行くサイカを見送るでもなく、二枚の敷物を敷いて促した。
「とりあえず座ってくれ」
クレイは水取り口を挟んでリンの正面に敷かれた敷物の上に腰を下ろすと、おずおずと問いを口にする。
「……その、君はあの子と二人でここに住んでるのかな?」
「ああ。両親はもういないしな」
リンは軽い口調でそう答えた。
サイカがいないとなると、二人きりで一つ屋根の下に寝起きすることになってしまうのだが。
まさかそのことに気付いていない訳でもないだろうに、どういうつもりなのだろう。
同い年くらいに見えても、中身はまだ子供ということなのだろうか。
仮にそうだったとして、それが異種族だからなのか、リン個人の気質の問題なのかはわからなかった。
「泊めてもらえるのはとても有り難いんだけど、あの子に悪いよ。それに僕は男だし、君は女の子だから……二人きりって言うのはちょっとまずいかなって思うんだけど」
「間違いが起こるかもって?」
どうやらリンは男女の営みについて全く知らない訳でもないらしかった。
だとすると余計に恋人でもない男と二人暮らしをしようという発想が理解できない。
貞操観念が希薄なのだろうかとクレイが考えていると、リンはあくまでのほほんと言った。
「大丈夫だと思うけどなあ」
「いくら僕が貧弱そうに見えるからって、そこまで安心感持たれても……」
これから世話になる相手に何かしようとは思わないが、自分も男だ。
あまり信用され過ぎるのもどうかと思う。
リンは少し考える素振りを見せてから立ち上がると、水取り口をぐるりと回ってクレイの隣に座ってきた。
決して不快ではないものの、少しでも動けば触れられる距離に女の子がいると思うと、どうにも落ち着かない。
クレイはそっと距離を置こうとしたが、その前にリンが体を寄せてきた。
「ちょっと試してみようか。本当に危ないことになるかどうか」
「え!?」
肩に触れられたと思った途端、クレイはリンに少女とは思えない強い力で押し倒された。
先程肩を掴まれたり、背中を叩かれた時にも思ったが、リンは見た目よりかなり力が強い。
強かに打ち付けた頭と背中に痛みが走った。
起き上がろうと動かした両手は、簡単に捕らえられて顔の横で押さえ付けられる。
振り払おうにもびくともせず、枷でも嵌められているようだった。
覆い被さってきたリンの背中から流れ落ちた髪が柔らかく頬をくすぐる。
こんなに細い体で、柔らかい手で、どうしてこれ程の力が出せるのだろう。
まさかこんな体勢で女の子を見上げることになるとは思わなかった。
これからどうなるのだろう。
不安と期待が綯い交ぜになって、鼓動が知らず早まった。
「なあ、本気で抵抗してみてくれよ」
唇が触れ合いそうな距離にリンの面差し。
一目見た時から美しい少女だと思っていたが、リンは間近で見るとまた一段と美しかった。
思わず触れてみたくなるような、肌理の細かい肌。
瞳の青はどこまでも澄んでいて、髪と同じ青銀の睫毛はとても長い。
通った鼻筋。
ほんの少し開いた形のいい唇が何とも言えず艶っぽくて、つい口付けを誘われそうになる。
先程までの少年のような言動が嘘のようだった。
目のやり場に困ったクレイは視線を逸らして言う。
「……これでも十分本気出してるんだけど」
体重は自分の方が上だろうに、突き退けられないのが本当に不思議だった。
「どうして君はこんなに力が強いのかな? 君達は凄い力を持ってるって聞いたことあるけど、そのおかげ?」
「半分くらいは合ってるかな。私達は力と肉体、半分ずつでできててさ、半分物質の束縛から抜け出てるんだ。だから意志一つで見た目以上の力が出せるんだよ。こんな風にな」
リンが両手に更なる力を込めると、腕が握り潰されそうに痛んだ。
クレイが堪らず小さく悲鳴を上げると、リンは手を離しこそしなかったものの、両手の力を弱めて言う。
「結構可愛い声出すんだな。もっといろんな声を上げさせてやろうか?」
「か、からかうのはやめてよ。確かに手は動かせないけど、足は自由だし、君を蹴り飛ばすくらいのことはできるんだから」
「じゃあ、やってみれば? 別にいいぞ。蹴っても」
「それはちょっと……いくら君が良くても、流石に女の子を蹴るのは抵抗あるよ。自分の命が危険だったら、それくらいのことはやると思うけど、今はそうじゃないし」
クレイの言葉に、リンはきょとんとした面持ちになった。
「男は女を蹴ったらいけないのか?」
そう問い返されて、今度はクレイがきょとんとする。
「だって、男の方が女より力が強いでしょ? 僕は自分より弱い者に暴力を振るうのは良くないって教えられてきたんだけど、君達はそういう教育はしないのかな?」
「自分より弱い奴に暴力を振るうのが良くないっていう考え方は私達にもあるけど、男だから女だからどうしろなんて言われたことはないな。さっきも言ったけど、私達の強さに性別は関係ないから」
「なるほどね」
クレイはやっと得心が行った。
文化の、と言うより種族の違いなのだろう。
性差が力の強弱と結び付かないなら、確かに「男が女に手を上げるのは悪」などという発想は生まれようがないに違いない。
「まあ、とにかく妙な真似をしたら手加減抜きでぶちのめすから、そのつもりでいてくれ。私がその気になったら、お前の首をへし折るくらい簡単にできるんだからな」
リンの口調に凄みは少しもなかったが、クレイは思わず息を詰めた。
脅しでなく、リンなら本当にやってのけるだろう。
不可思議な力を使わずとも、この膂力があれば造作もないに違いない。
クレイが瞬きもできずにリンを見つめていると、リンがくすっと笑った。
「安心しろ。お前を殺すつもりはないよ。ただ、本当に妙な気は起こさない方がいいぞ。お前が一族の者になって、私と子供を作りたいと思ってくれるなら、その時は私を好きにしてもいいけどさ」
何気なく言われたその言葉に、クレイはどきりとした。
「君が僕のことを好きじゃなくても、僕と寝るつもり?」
「ああ、今子供は貴重だからな」
もしかして、リンは子供を作るために好きでもない男と寝ていたりするのだろうか。
クレイはふとそんなことを思ったが、とても訊くことはできなかった。
詮索していいようなことではない。
「その、できればそろそろ退いてもらえると助かるんだけど……」
「あ、そうだな」
リンはそう言って、クレイの上から退いた。