―20―
数日後の朝。
クレイはリンに送ってもらって、領土の境界の外側にある森にいた。
今日、ここを発つのだ。
本当はあの戦いの翌日に帰るつもりだったのだが、リンが別れの宴をしたいと言い出したので、今日まで出立が延びてしまった。
昨日の内に別れの挨拶は一通り済ませていたし、皆それぞれ忙しいだろうからと見送りは丁重に断らせてもらい、ここにいるのはリン一人だけだ。
「本当に行くのか?」
「うん。ここはいい所だけど、今の自分のままじゃいけない気がするから」
「何でだ? お前は今のままで十分いい奴だぞ? 私を助けてくれたじゃないか。お前がいてくれなかったら……戦ってくれなかったら、私は一族が滅びていくのをただ見ていることしかできなかった。そうしないで済んだのは、おまえのおかげだ。本当に感謝してるんだぞ。だからそんなこと言うな」
リンの言葉はこんな自分には勿体無いもので、クレイは胸がこそばゆいような、誇らしいような気持ちになった。
こんな気持ちになったのは生まれて初めてだ。
自分はとても弱い人間なので、ほんの些細なことでこの気持ちが淡雪のように消えてしまうであろうことを思うとひどく寂しくなったが、失ってしまうくらいなら初めから知らない方が良かったとは思わなかった。
リンに教えてもらったことは、どれもとても大切なことだ。
「あれはたまたま上手く行っただけのことだよ。それに最初に言ったけど、僕はいろんなことから逃げてここに来たんだ。それって、あんまりいいことじゃないでしょ?」
「まあ、そうかも知れない、けど……逃げるのはそんなに悪いことなのか? この村しか知らない私にはよくわからないけど、生まれた場所や家族がたまたま自分に合わなかったら、それを捨てたいと思っても仕方がないだろう。無理に我慢し続けることが必ずしもいいことだとは限らないんじゃないか?」
「僕もそう思うよ。でも、僕はずっとあきらめてたんだ。人に自分のことをわかってもらうこととか、人にわかってもらえない自分を好きになることとか、いろんなことをね。自分なりに頑張ったつもりでも、全然駄目で、それで嫌になって頑張ることをやめた。でも相手と心を通じさせる方法があるのに、敢えてその方法に頼らないでスイランと分かり合おうしてる君を見てたら、僕は全然頑張りが足りなかったなあって思ったんだよ。僕は相手に敬意を払うことなんて考えないで、ただ自分が楽になることばかり考えていたんだ。僕が相手のことを知ろうとしないのに、相手が僕のことを知ろうとしてくれる訳ないのにね」
クレイはそう言って自嘲気味に笑った。
リンが当たり前のように知っていることを、自分は全くわかっていなかった。
自分は何て薄っぺらくて、愚かな人間なのだろう。
そのことがひどく恥ずかしかった。
「ここは居心地がいいけど、やっぱり僕は行かないといけないんだよ。人間の中で傷付いたり傷付けたりしながら、ちゃんと人と心を通わせる方法を学ばないといけない。だって、僕は人間だからね」
今まで怠けてきた分、それはとても苦しくて、大変なことだろう。
だが逃げてばかりでは、いつまでも情けない自分のままだ。
まずは家に戻って、父親達ときちんと話し合ってみるつもりだった。
勝手に家を飛び出しておいて、今更何を言っても聞いてもらえないかも知れないが、とにかくずっと言えずにいたことを正直に話してみたい。
もしかしたらわかってくれるかも知れないし、駄目なら駄目でそれで良かった。
本当は一番自分をわかっていて欲しい人達だが、あきらめることも必要だろう。
ただ、努力らしい努力もせずに別れたきりになるのは嫌だった。
とにかくやるだけやってみたい。
「そうか……残念だけど、それがお前にとっては一番いいことなんだな」
「うん、今までありがとう。何かお世話になったお礼ができればいいんだけど」
「礼なんてとんでもないぞ! こっちの方が世話になったくらいなんだから。お前こそ、私に何かして欲しいことはないか? 何でも言ってくれ」
「じゃあ、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」
「ただ聞くだけでいいのか?」
きょとんとした顔で聞き返すリンに、クレイは小さく頷いた。
リンは腑に落ちない様子だったが、すぐに訝しげな表情を消して頷く。
「わかった。言ってくれ」
「ありがとう。でもごめん、ちょっと待ってくれるかな? いざとなるとちょっと緊張しちゃって……」
クレイは何度も深く息を吸うと、ありったけの勇気を振り絞って言った。
「好きです!」
たった一言、それだけ言うのが精一杯だった。
リンは驚いた様子もなく、ただ静かにクレイを見つめる。
はっきりした言葉にせずとも、ずっと精神の一部を繋げていたリンはとうに自分の気持ちに気付いていたに違いない。
どうやら自分は顔に出やすい性質のようであるし。
クレイが黙ってリンの返事を待っていると、リンは少し困ったような顔になって言った。
「……ごめん。お前は恩人だし、いい奴だけど、お前を友達以上には思えない」
「そうだと思った。良かったよ」
「良かった?」
聞き返すリンに、クレイは苦笑しつつ答える。
「告白しておいて何だけど、実はここでうっかりいい返事なんてもらっちゃったら、どうしようかと思ってたんだよね。もう決めたことだけど、好きな女の子に想いが通じたとなったら、流石に決意も鈍るし」
「じゃあ、お前はわざわざ振られるために想いを伝えたのか?」
「まあね。変かも知れないけど、気持ちに区切りを付けたかったから。それに、告白ってものをしてみたかったんだ。今まではとてもそんなことする勇気なんてなかったけど、ちゃんと言えたら少しは自信になりそうだったし」
結果は残念なものだったが、それでも言わなければ良かったとは思わなかった。
今までできなかったことが、一つできたのだから。
この先どんなことでもできそうな気がするとまでは言わないが、振られたとは思えない程晴れやかな気分だった。
こんな気持ちになったのはいつ以来だろうとクレイが過去に思いを馳せていると、リンが懐を探りながら言う。
「そうそう、お前に渡すように頼まれていた物があるんだ。手を出してくれ」
クレイが言われた通りに手を出すと、リンが手の平に小さな輝きを零してくる。
小指の爪程の大きさもなかったが、日の光を弾いて光るそれはとても美しかった。
「えっと……これってもしかして……」
「宝石だって。ダイヤモンドと言うんだそうだ」
予想はしていたが、それでもやはり驚いて、クレイは危うくダイヤモンドを落としそうになった。
「どうして僕なんかにこれを? 一体どこで手に入れたの?」
「王から預かったんだ。面白い物を見せてくれた礼だって。人間は何をするにも金というものが必要なんだろう? 役立ててくれとおっしゃっていたよ」
「でも、こんな高価な物は受け取れないよ」
「あ、それなら気にしなくていいって。元手は全然掛かってないんだそうだ。人間がまだいない時に自分で獲ってきた物だから、何も不正はしてないし、安心して使ってくれって」
そう言えば、以前お茶に呼ばれた際に王が料理の材料を買ってきたという話をしていたが、あの時使った金も恐らく宝石を換金して調達していたのだろう。
人間を容赦なく殺すところを見ると、平気で人間の所有物を強奪してもおかしくなさそうだったが、意外と人間の法を尊重する穏やかな一面も持ちあわせているらしかった。
有威者達が近隣の町や村を襲って人々の財産を収奪するような真似をしたという話を聞いたことがないのは、王のそうした一面によるものなのだろう。
「本当に、もらっちゃっていいのかな……?」
「いいんじゃないか? せっかくくれるっておっしゃってるんだし、突き返すのも悪いだろう」
「そう、だね」
クレイはダイヤモンドをそっとポケットにしまった。
失くしたら死ぬ程後悔しそうだが、その時には運が悪かったと思って潔くあきらめよう。
苦労して手に入れた物ではないのだから、あきらめるのはそれ程難しいことではない筈だ。
「それじゃあ、もう行くよ。みんなによろしく」
「ああ、気を付けてな」
「君も元気でね」
クレイはリンに背を向けかけたが、ふと思い直して足を止めた。
「ねえ、さっきはあんなこと言ったけど、僕は強い人間じゃないから、時々挫けそうになることもあると思うんだ。その時は、また君に会いに来てもいいかな? 君は、僕の初めての友達だから」
忘れそうになったら、ここに来て思い出そう。
自分には人間の友達はできなかったが、ここへ来て人間でない友達を得た。
人間でない少女と友達になれたのだから、人間とだってきっと友達になれるに違いない。
きっとそうだ。
「いつでも来てくれ。歓迎するよ」
「ありがとう」
クレイは淡く微笑むと、振り返らずに歩き出した。
閲覧ありがとうございました!
参考文献
バリー・パーカー(2016)『戦争の物理学』(藤原多伽夫訳)白揚社.
アン・ルーニー(2015)『物理学は歴史をどう変えてきたか』(立木勝訳)東京書籍.
飯高茂(2010)「大学生にきちんと虚数を教えようーーコーシーの定理を教える前にーー」<mathsoc.jp/publication/tushin/1501/1501iitaka.pdf>.
北村紗衣編(2012)「共感覚の地平――共感覚は共有できるか?:表象文化論学会第4回大会パネル記録集」<repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/51545/1/Kitamura_panel.pdf>.