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クレイは乾いた喉を動かして、唾を飲み込んだ。
どう思われただろうか。
只の戯言と笑われるかも知れない。
或いは侵略しようとした癖に、何を馬鹿なことを言っているのだと怒り出すだろうか。
これまでの侵略行為に兵士として加わったことはないが、妖魔の側からすればそんなことは関係ないだろう。
自分は人間で、これまで多くの人間が妖魔に対して敵対行動を取った。
敵と見做されても仕方がない。殺される可能性も否定できなかったが、ここで受け入れてもらえなかったら、この先の人生にあるのはきっと苦しみばかりだ。
いっそ一思いに楽にしてもらった方が、幸せというものかも知れなかった。
クレイがじっと少女の出方を窺っていると、少女は足早にクレイへと歩み寄ってきた。
クレイは思わず逃げようとしたが、動かしかけた足を敢えて止める。
ここで逃げたら何のためにここまで来たのかわからないし、この少女が本気で自分を殺すつもりなら、きっと逃げても無駄だろう。
人間の中にも不思議な力を使う者はいると言われているが、自分は本当に何の力もない只の人間で、とても逃げ切れるとは思えない。
わざわざ疲れる真似をすることもなかった。
クレイは次第に早く、大きくなっていく鼓動を感じながら、近付いてくる少女をただ見つめる。
程無くして少女がクレイの眼前で足を止めた時、クレイは思わず息を詰めた。
殺すなら、できれば痛いと感じる間もないようにして欲しい。
クレイが上げられた少女の両手を目で追っていると、少女はクレイの肩に両手を置くなり、骨が軋むような力で鷲掴みにしてくる。
「おい、クレイとか言ったな。今の言葉は本当か!?」
「あ、はい。そうです、けど……」
少女の剣幕に気圧されたクレイがしどろもどろに頷くと、少女はいきなりクレイに抱き付いてその背中を何度も荒っぽく叩いた。
先程肩を掴まれた時と同様、かなりの力だ。
背中が砕けそうに痛い。
「実にいいところに来てくれた! 歓迎するよ!」
「ど、どうも」
どうやら何かを期待されているらしいと察することはできたが、それが何なのかは皆目わからなかった。
見たところ、少女は悪人には見えないが、一応用心しようとクレイは密かに決意する。
相手が妖魔ではあまり意味はないだろうが。
「その、良かったら名前を教えてもらえますか?」
「ああ、そう言えばまだ名乗ってなかったな。私はリン。一族の長で、お前が言うところの責任者の一人だ。よろしくな」
リンはそう言って軽く頭を下げた。
どうやら挨拶らしいと察し、クレイも同じように頭を下げ返す。
「それじゃ行くか。村に案内するよ」
リンはそう言うなり、クレイを強く抱き締めた。
体と体が密着する程きつく抱き締められて、クレイの頬がかっと熱を帯びる。
小ぶりな胸の感触や細い体の柔らかさに、息苦しい程胸が高鳴ったが、クレイは努めて平静を装って尋ねた。
「え、えーと、これは一体何をしているんですか?」
「見ての通り、お前を抱き締めてる。今から飛ぶから。でないと、向こう側にお前を連れて戻れないし」
どうやらリンは、自分以外の体重を支えることはできても、自分しか飛ばすことができず、一緒に飛ぶならこうするしかないらしい。
梯子のような物を持って来てもらうことはできないのだろうかとクレイは思ったが、あれこれ注文を付けられる筋合いでもないので、ここは大人しくリンのやり方に従うことにした。
「もし落としてもちゃんと拾えるとは思うけど、危ないからお前もしがみ付いててくれ」
「はい……」
クレイは躊躇いがちに両腕をリンの背中に回した。
これだけ密着していたら、きっとリンにはこの早い鼓動に気付かれているに違いない。
相当に恥ずかしいし、気まずかった。
とにかく早く行って欲しいと思っていると、リンの体がふわりと浮き上がる。
わずかに遅れてクレイの足が地面を離れた。
翼を羽ばたかせている訳でもないのに、どうやって重力を振り切って浮かんでいるのだろう。
特に揺れるでもなかったが、足元に何もないというのはひどく心許ないもので、クレイは次第に地面が遠ざかっていくことに恐怖を覚えた。
極力下を見ないようにして恐怖をやり過ごすクレイを余所に、リンは慣れた様子で石の杭を乗り越えると、ふわりと反対側に降り立つ。
石の杭の向こう側もやはり森だった。
辺りは静かで、鳥の声や時折近くを飛ぶ虫の羽音以外は何も聞こえない。
リンが腕を解くと、クレイはすぐさまリンから体を離した。
なかなか静まらない鼓動を懸命に落ち着かせていると、見知らぬ少女が小走りに駆けて来る。
年はリンより一、二歳下くらいだろう。
どこか不安そうな面持ちだったが、笑えばひどく可愛らしいだろうと思わせる少女だった。
肩に届くくらいの長さで切り揃えたふわふわの薄紅色の髪を飾る、黄色や赤の飾り紐。
大きな赤い瞳は夕焼けの空よりも静かで、美しい。
リンと同じような服を身に着けていたが、穿いているのはズボンではなく、裾がひらひらしたスカートだった。
自分にしか見えない色は淡い黄緑色。
少女は駆け寄ってきたリンを見てほっとしたような面持ちになったが、その視線がクレイを捉えた途端、すぐに硬いそれに取って代わられる。
「……その人、誰?」
細くて可愛らしい声だった。
意味を拾えたのは、リンと精神を繋げているおかげだろう。
「クレイだ。私達の仲間になりたいんだって」
リンはクレイの紹介を簡単に終えると、今度は少女を手で示してクレイに言った。
「この子はナギ。友達だ」
ナギと呼ばれた少女はどこか怯えたような目で、黙ったまま小さく頭を下げた。
どうも警戒されているようだが、無理もないだろうとクレイは思う。
いきなり余所者が、それも人間がやって来たら、妖魔なら誰でもこういう態度を取るのが当たり前で、リンのように歓迎してくれる者は少数派に違いない。
リンはリンで、何か狙いがあるのだろうが。
「さあ、行こう」
リンは石の杭に背を向けて歩き出した。
ナギが慌ててその後に続き、その更に後からクレイも付いて行く。
思いの外すんなりと話が進んだが、流石に話が上手過ぎる気がして、クレイは少し不安になった。
リンは一体何を考えているのだろう。
クレイは先を歩くリンの背中に向かって、怖々問いを投げかける。
「あの……信用してくれるのは嬉しいんですけど、そんなに簡単に村まで連れて行ってもらっていいんですか?」
「いいよ。お前、悪い奴じゃないみたいだし」
「余計なお世話でしょうけど、あまり人を外見で判断しない方がいいと思いますよ」
「大丈夫だよ。お前とは精神を繋げて話してるって言っただろ? 余計なことまで読み取らないようにはしてるけど、お前の心に触れればお前がどんな奴かくらい、すぐわかる」
どうやらリンは外見ではなく、心で自分をいい人間だと判断してくれたらしい。
心の全てを読み取られてしまうかも知れないことにはやはり不安を感じるが、いい人間だと思われたことは素直に嬉しかった。
自分という人間にもほんの少しは価値があると言われたような、そんな気がする。
「ありがとうございます」
「別に礼を言われることじゃないと思うんだけど、面白い奴だな。ところでお前、いつもそんな畏まった感じの話し方なのか?」
「え、違いますけど」
「だったら普通に話していいよ。私は一族の中じゃ偉いことになってるけど、無威者――ああ、お前が言うところの人間のことなんだけど――お前には関係ないしさ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
クレイは一度言葉を切ると、恐る恐る尋ねてみた。
「その、気を悪くしないで欲しいんだけど、長って本当?」
「そうだけど、おかしいか?」
「おかしいって言うか、意外だなって。僕の生まれ育った国だと、そういう立場の人は大抵それなりに年の行った男の人だから」
「ふーん? でも私達の一族――有威者と私達は呼んでるんだけど、私達は力ある者しか支配者と認めないし、力さえあればそれがどれ程年若い奴でもみんなの上に立てるんだ。性別は強さに関係ないしな」
「ああ、なるほど」
クレイは半信半疑ながらも、とりあえず納得した。
有威者の一族は、人間とは全く異なる価値観を持っているらしい。
きっと有威者にとっては年齢や性別だけでなく、血筋も何の意味も持たないのだろう。
人間ではないのだからそれも道理というものだが、髪や瞳の色を除けば人間とそう変わらないように見えるのに、中身は全く違うのが何だか不思議だった。
「強い人が一番偉いなら、長をしてる君は有威者の中で一番強い訳だね」
「正確には三番目かな。一番強いのは王と、王と同等の力をお持ちのお妃様だ。でもあの御二方は別格だし、王はご自身で統治はなさらないから、今は私と私と同じくらいの力を持ってる友達が一緒に一族を治めてる」
「へえ?」
自ら統治をしていないということは、王は傀儡ということだろうか。
実力主義の割に、最も力のある者が統治していないというのは矛盾している気もしたが、有威者達にもいろいろと事情があるのだろう。
「他に何か訊きたいことはあるか?」
「じゃあ、さっき君は僕を歓迎するって言ってくれたけど、どうしてなのかな? 僕は君達の言う無威者なのに」
「無威者だからだよ」
「え?」
クレイが聞き返すと、リンはクレイを振り返って言った。
「私達の一族はもう種として老いてしまっているみたいで、ここしばらく子供は生まれていないんだ。もしかしたら、この先一人も生まれることはないのかも知れない。だから一族に新しい仲間を入れて、子孫を残したいと思ってるんだよ。まだちゃんと決まった訳じゃないし、事が事だから反対している奴も多いけど」
「それで人間を?」
「そういうことだ」
有威者の状況は理解できたが、無威者を一族に取り込むという手段は果たして有効なのだろうか。
クレイはそう疑問に思わずにはいられなかった。
確かに外見は似ているが、無威者と有威者との間には猫とライオンに匹敵する程の差異がある気がする。
「僕達と君達の間に子供ってできるのかな? 前例はなさそうだけど」
「確かに前例はないな。でも王はとても凄い力を持った方だから、無威者を一族の者に転化させることはできるんだって。相当体に負担が掛かる筈だから、耐え切れないと死ぬこともあるかも知れないっておっしゃってたけど」
「そ、そうなんだ……」
最悪命を捨てる覚悟でここまで来たが、流石に人間でない存在になるというのは想定していなかった。
人間でなくなるのは、自分が自分でなくなってしまうようで怖い。
だが、今の自分にそれ程固執する必要があるだろうか。
とてもそうは思えなかった。
人間でなくなったからと言って、内面に大きな変化が生じるとは限らないが、人間でない存在になることは今の自分からの解放を意味するのかも知れない。
だとしたら、人間をやめるのも悪くなかった。
もしかしたら、人間でなくなる前に死んで楽になれるのかも知れないのだし。