―19―
リンとスイランは大体の王の居場所を妃に訊くと、後は感じる力を頼りに王の元に辿り着いた。
王はクレイ達に気付いているのかいないのか、背を向けたまま、石の杭の上に静かに佇んでいる。
領土内に死体はなかったが、血の匂いが風に運ばれて辺りに漂っていた。
喉元まで嘔吐感が込み上げてきて、やはり来なければ良かったかも知れないとクレイは少し後悔したが、当の王はきっとあの思考や感情の窺い知れない面持ちで平然としているに違いない。
「王、王妃様のご命令でお迎えに参りました。お怪我はございませんか?」
リンが声を掛けると、王はゆるりと振り返った。
王はやはり見事なまでの無表情だったが、唯一意外だったのは煙管を咥えていたことだ。
煙管は雁首と吸い口が銀色で、羅宇の漆黒によく映える。
煙管から唇を離した王は、長く煙を吐いてから答えた。
「愚問だな。全く、わざわざ迎えなど寄越さずとも帰ってやると言うのに」
「それが……王がなかなかお戻りにならないのではと。駄々をこねても気にしないでお連れするようにと、仰せ付かっております」
「あれがまた余計な真似をしたものだ。我には一仕事終えた後に休息を取る権利もないのか」
リンはスイランと顔を見合わせてから、いくらか疑念を帯びた眼差しをに向けた。
「本当に、それが済んだらお戻り頂けますか?」
「我は仮にも王と呼ばれる立場だった筈だが、余程信用がないらしいな」
「いえ! 決してそのようなことは……」
リンはほとほと困り果てた様子でスイランを見たが、スイランもどうしたものか悩んでいる様子だった。
いくら妃の命令とはいえ、まだ帰る気のない王を強引に連れ帰るというのは気が引けるだろう。
「あーもう!」
リンは遂に考えるのが面倒になったようで、がりがりと髪を掻き毟ると半ば自棄気味に言った。
「わかりました! もう少しだけお待ちします! その代わり、絶っ対にお逃げにならないで下さいね!!」
「安心しろ。逃げる気があるなら、とうに逃げている」
確かに王がその気になれば、先程のように一瞬でここから消えることもできるだろう。
王は石の杭から自分の領土の森に下りると、煙管を手に歩き出した。
慌てて後を追おうとしたリン達を、王がすかさず制する。
「いちいち付いて来るな。そう遠くまで行く訳ではない」
どうやら少し一人になりたいということらしい。
再び困り顔を見合わせたリン達を見て、クレイは言った。
「僕が様子を見てくるよ」
「じゃあ、悪いけど頼んだぞ」
「うん」
クレイはリンとスイランをその場に残すと、小走りで王の後を追った。
王への苦手意識がすっかり消え去った訳ではなかったが、思った程怖い人ではないとわかったし、リン達が動き辛い今、ここは自分が行くべきだろう。
客人として遇されている自分なら、それ程邪険には扱われない筈だ。
多分。
クレイが王に追い付くと、王は煙管を片手に振り返るでもなく言った。
「ここは今人間である其方にとっては大変おぞましい場所である筈だが、其方は何故ここへ来たのだ? 誰に命じられた訳でもないだろう」
話し掛けてきたからには、ここにいても構わないということだろう。
予想通りの対応に内心安堵しながら、クレイは答えを口にする。
「ええ、寧ろ止められました。でも、あなたの御力がどれ程のものなのか、見てみたかったので。まあ、実際には見られませんでしたが、実際目の当たりしていたら悪夢にうなされることになったでしょうし、これで十分です」
クレイはそう言うと、王が煙を吐き出すのを待って問いかける。
「いくら敵でも、殺すことは恐ろしくはないのですか?」
「そのように思ったことは只の一度もないな。我にとって人間を殺すことは、石を砕くことと大差ない。だからこそあれに代わって、あれが望むように一族の者を守っているのだ」
「本当に愛してらっしゃるのですね。あの方を」
「よくそう言われるが、我とあれとの間に恋愛感情などというものは存在しないぞ」
王はそう言ったが、クレイはどうにも腑に落ちなかった。
何とも思っていない相手のために、わざわざ自分の手を汚したりするものだろうか。
何らかの利害関係にあるのだとしても、先程の妃は本気で王を心配しているように見えたし、恋愛感情でないにしても何らかの絆はあるように思えた。
よくわからない人だなあと思っていると、王が軽く振り返って瞳の端でクレイを捉える。
「我があれと婚姻関係にあるのは事実だが、所謂政略結婚のようなものだ。恋だの愛だのは関係ない」
「お言葉を返すようですが、力の釣り合いも取れていらっしゃいますし、これ以上はないお相手なのでは?」
「何もあれが我に相応しくないと言っている訳ではない。ただ恋愛感情というものは、其方等のような命を次代に繋ぐ者達の間でしか起こりえないものなのだ。肉体を持たない精神体である我等の間には、そういった感情は生まれることはないし、それでいいと思っている」
「どうしてですか?」
「我等はそういう存在だからな。加えて言うなら、身を滅ぼしかねない程の激しい感情は、決して長続きする類のものではないだろう。互いが一人だけを愛するとは限らぬし、どちらか片方がいなくなれば他の相手を見付ければいい。そういった容易く替えが利く関係を有難がる程、我は矜持が低くないのでな」
うわあ、いろいろ凄いなあ。
クレイは心底感心した。
端的に言うと「愛してるじゃ足りないくらい愛してる」ということなのだろうが、こういう台詞を臆面もなく言えるところがまず凄い。
そして矜持の高さがまた凄い。
一体何をどうしたら自尊心をそこまで高く持てるのだろう。
創造主ではないにしろ、人間に『神』とも呼ばれる存在なのだから、これくらいで丁度いいのかも知れないが。
「そこまで想う方と一緒にいられるなんて幸せですね。羨ましいです。僕なんて、まだ告白もしたことがありません」
「一応既婚者ではあるが、それは我も同じだぞ。まあ、言葉でなく心そのもので語る我等のような精神体と違って、人間はなかなかそういう訳にも行かぬのだろうが。言葉を口にすることは、決意することだからな」
「決意、ですか?」
内気な自分にとって、言葉を口にすることは確かにそれなりの勇気が要ることだったが、王の口からそんな言葉が出るとはひどく意外だった。
クレイが王の答えを待っていると、王は煙を吐いてから言う。
「一度口から出た言葉は消すことができない。訂正することはできるがな。なればこそ、言葉というものは本来それなりの決意と共に発せられるべきものなのだ。まして今の関係を変えたいのなら、尚更それなりの言葉が必要になる。言葉に限らず、物を贈ったり、熱心に見つめたりといった意思表示も有効ではあるだろうが――ああ、これは今し方女のために体を張った其方にわざわざ言うことでもなかったか」
クレイはぎょっとした。
精神を繋げているリン本人はともかく、王にまでリンへの恋心を知られているとは思わなかった。
「……僕、そんなにわかり易いですか?」
「何度も言うが、我は精神体なのでな、特に読み取るつもりがなくても、人間のように無防備な心からは自然と感情を感じ取ることができるのだ。だがその能力がなかったとしても、恐らく気付いたと思うぞ」
ただただ恥ずかしい。
ほんのわずか言葉を交わしただけの王が気付いたということは、ほぼ毎日顔を合わせる人々にも当然知られているだろう。
一体どんな顔をして戻ればいいと言うのか。
クレイがすっかり熱くなった顔を俯けて苦悩していると、王が煙管を宙に溶かしながら言った。
「さて、あまり気は進まないが、そろそろ戻るとするか」
まさか「嫌です」とも言えず、クレイは踵を返した王の後を黙って付いて行く。
先程の場所に戻ると、王を見たリン達が目に見えてほっとした顔になった。
クレイは反対に逃げ出したくなったが、ぐっと耐える。ここで逃げても何にもならない。
「それでは行くか」
「はい。私達は舟で来ましたので、どうぞお先にお戻り下さい」
スイランはそう言ったが、本当はひどく疲れている筈で、クレイは少し心配になった。
見る限り、王はまだ余力がありそうであるし、王に連れ帰ってもらうことはできないのだろうかと思っていると、王が言う。
「急いで戻る必要もないのだから、我も其方等に合わせて戻るとしよう」
どうやら戻る時間を引き延ばしたいらしい。
よっぽど戻りたくないんだなあと少し呆れていると、王が訊いてきた。
「不服か?」
「いえそんなことは……どうぞお好きな方法でお戻りになって下さい」
クレイは慌ててそう言った。
どうやら思った以上に考えが顔に出ているらしい。
気を付けたいが、どうすればいいのだろうと悩んでいる間に、王はリン達を引き連れて歩き出した。
湖まで来ると、クレイ達が舟に乗り込むのを待って、王はその体をふわりと浮き上がらせる。
てっきり背中の羽で飛ぶのかと思っていたのだが、予想に反して二枚の羽は畳まれたままだ。
形こそ羽ではあるが、只の飾りに近いのかも知れなかった。
それでも自らが異端であることを示すために、敢えてその背に二枚の羽を負うというのはかなり自虐的だと思う。
人付き合いが好きな手合いではないようであるし、単に自分から一線を引いて、皆を遠ざけておきたいだけなのかも知れないが。
舟の前をゆっくりと飛ぶ王の先には、妃がいた。
少しくらい距離があっても妃は目立つので、すぐにわかる。
先程別れた時には座っていたが、今は王の帰りが待ち切れないのか、立ち上がって王の方を見ていた。
その表情はひどく悲しげで苦しそうで、何か言いたいことがあるのにそれをぐっと飲み込んでいるように見える。
実際言いたいことはいろいろとあるのだろう。
皆を守るためとはいえ、自分の伴侶が人殺しをして帰ってきたら、きっと言いたいことがいろいろとあるに違いない。
リン達が妃が乗る筏の辺りに戻って来ると、王は妃の元へと静かに舞い降りた。
妃は王を抱き締めると、クレイが今まで聞いた中で一番優しい声で一言だけ言う。
「お帰り」
「ああ、今帰ったぞ」
王はわずかに相好を崩すと、妃の背を軽く抱き返す。
例え愛でないとしても、互いへの深い想いを感じさせる優しい抱擁だった。
そして美しい。
クレイが思わず見惚れていると、王と妃はおもむろに体を離して、そっと手を取り合う。
妃の唇がゆっくりと開き、澄んだ美しい声が強く空気を震わせた。
この細い体のどこにそんな力があるのかと思う程の、実に見事な発声だ。
天へ祈りを捧げるような厳かな声が、歌を紡いでいく。
リンも知らない言語のようで、クレイに意味を拾うことはできなかったが、そのせいかその歌声はとても神秘的に耳に響いた。
しかし、何故急に歌い出したのだろう。
「ねえ」
クレイがリンに尋ねようと声を掛けると、リンは唇の前に人差し指を立てた。
「しっ、静かに。今、力を同調させていらっしゃるところだから」
クレイは慌てて口を閉じた。
力の同調とやらについてはよくわからなかったが、楽器で言うなら調律をするようなものなのだろうと何となく理解する。
恐らく一瞬でできるようなものではなく、少しずつ音を合わせていくようなやり方をする必要があるものなのだ。
妃は先程「王に同調してもらって力を抑えてもらえば、王と同じように適切に力を使える」と言っていたし、早速王の力を借りて傷を負った者達を治癒するつもりに違いない。
程無くして王も歌い出した。
妃に劣らぬ凄まじい声量だ。
いつもより少し高い声が更に音階を高くし始める。
伸びやかな歌声は掠れることも途切れることもなく続き、気が付けばもう女声の音域だ。
だがその声は上がり始めた妃の音階を追って、更に高みを目指していく。
絡まる声と声。
最早どちらがどちらの声かよくわからない。
やがて二人の声が完全に音を合わせた時、一際大きな歌声が響き渡った。
同時に何か温かいものが辺りを満たした気がして、クレイは目を瞬かせる。
「今、何か起こった?」
「うん、王妃様の癒しの力が発動したんだ」
クレイは試しに頬に触れてみたが、傷があった筈の場所に触れてももう痛みは感じなかった。
乾いた血が頬に張り付く感覚だけがしつこくまだ残っている。
力らしいものを感じたのはほんの一瞬だったのに。
「凄い……」
「だろ?」
リンはまるで自分のことのように得意気にそう言って笑った。
皆も笑っている。
妃もほっとしたような笑顔で、それを見た王も心なしか少し表情が和らいでいるようだ。
この王と妃がいる限り、リン達はこれからも幸せに暮らして行けるだろう。
クレイはそのことに深く安堵した。
「言葉にすることは決意すること」というような文章は以前言語学関係の何かの本に書かれていたのですが、十年以上前に読んだ本なのでタイトルを思い出せず、出典を明らかにできません。
申し訳ありません。