―16―
「なかなか面白くなってきたではないか」
王は綺麗に切り分けられた果物を長い爪の先で摘んで、口に運びながらそう言った。
肉体を持つ者のように飲み食いすることは、自分にとってささやかな娯楽の一つだ。
味覚はなくとも、雰囲気を楽しむことはできる。
咀嚼した果物を飲み下す王を横目で軽く睨んで、妃は声を尖らせた。
「言葉に気を付けて」
「この場にいる其方以外の誰にも理解できない言語で話しているのだから、何を言ったところで構わぬだろう」
「そういう問題ではないよ。言葉に出るのは、そういう思いがあるからだろう。面白がるなと言っているのだよ。皆真剣に戦っているのだからね」
「不愉快な思いをしてまでわざわざ出てきたのだ。少しくらい楽しませてもらっても構わぬだろう」
「全くお前という奴は……」
妃は肉体があれば今にも溜め息を吐きそうな様子で続けた。
「珍しく少しやる気を出したかと思えば、団体戦にしようと言い出したり、部外者の参加まで許すし……一族の問題に無関係な人間を巻き込むべきではないよ」
「我が巻き込んだ訳ではないぞ。進んで巻き込まれに来たところを、望み通りに巻き込んでやっただけだ」
「そこで一言「駄目だ」と言えば済んだ話だろう。大人の中に一人だけ、子供が交じるようなものなのに」
「そう目くじらを立てることもないだろう。どうせなら少しでも楽しめた方がいいに決まっている。真っ向正面からぶつかることしか頭にない連中の戦いなど、退屈するなという方が無理だ」
物体の限界速度も超えられない、時間移動も空間操作もできない、大した力を有している訳でもない者達の戦いをただ見ていても、幼子の遊戯を見せられているようで、少しも面白くない。
だが頭数を増やして人間を一人入れてみれば、多少なりとも変化が生じるだろう。
人間は力こそ持たないが、一族の者達にはない知識がある。
結局のところ、最後はリンとスイランの一騎打ちになるのだろうが、もしかしたら思わぬ番狂わせもあるかも知れなかった。
できることなら、それを見てみたいと思う。
「とりあえずは見守ろうではないか」
「……まあ、何だかんだと言っても、もう始まってしまったしね。とにかく重傷者が出ないようにだけ、気を付けてあげてくれ」
「任せておけ」
王は再び爪の先で果物を摘みながらそう言った。
リンは盾に身を隠しながら、辺りを見回して言った。
「上手く行ってるみたいだな」
「今のところはね」
クレイは櫓を握る手を止めたまま、じっとスイラン達の様子を窺う。
あまり近付き過ぎると投石の間合いに入ってしまうため、漕ぎ手であるクレイには今のところすることがなかった。
弓の練習もすることはしたが、この短期間では到底実戦で使い物になる水準には到達しなかったのだ。
有威者達の身体能力の高さは本当に賞賛に値すると思う。
「あ」
リンが小さく声を上げた。
スイランが舟を捨てて体を浮き上がらせたのだ。
このままでは埒が開かないと判断したのだろう。
リンはクレイに盾を渡すと、すぐさま同じように体を浮き上がらせた。
スイランが出て来たら、抑えられるのはリンしかいない。
リンの陣営にもスイランの陣営にも、そこそこの力を持った者が数人いるという話だったが、やはり二人とは力の差が大きいのだという。
空を飛ぶことはできても、それだけで手一杯になってしまう程度の力が精々なのだそうだ。
他の者達はこのまま矢がある限りは射続けて、少しでもスイランの陣営の力を削ぐ手筈になっていたが、向こうは接近戦に持ち込むことにしたらしい。
スイランに次ぐ実力者だという男の号令の元、スイランの陣営の舟が一斉に距離を詰めてきた。
できれば後ろに下がって距離を取りたいところだが、舟の構造上下がるに下がれないのだから、このまま迎え撃つしかない。
「前に出ろ! 進め!」
リンの命令で、リンの陣営に属する舟が前進を始めた。
クレイもすぐさま舟を動かそうとしたが、リンの鋭い制止の声が降ってくる。
「やめろ! 危ないから、お前はそこを動くな!」
クレイは慌てて櫓を握る手を離した。
とうとう露骨に戦力外扱いされてしまったが、このまま舟を進めたところで満足に戦える訳でもないのだから、大人しく言う通りにするしかないだろう。
クレイは空中のリンを見上げて言った。
「気を付けて」
「お前もな!」
スイランに向かって真っ直ぐに飛んで行くリンと、次第に遠ざかっていく舟達を、クレイは一人で見送った。
程無くしてスイランの力の有効範囲に入ったらしく、湖に生まれた大きな波がリンの陣営の舟を次々にひっくり返し始める。
有威者の膂力ならば逆さまになった舟を元に戻すのはそう難しいことではないようで、すぐさま元通りになっていく舟も多いが、一度矢が水に浸かってしまうともう火を付けることはできないし、ひっくり返った時に矢や火打ち石はどこかへ行ってしまうだろう。
舟をひっくり返すというのは、火矢に対してかなり効果的な戦法だった。
だが前方はともかく、横は変わらずスイランの力が及ばない所があるし、火矢を封じられてもまだ接近戦がある。
両陣営の舟がある程度接近したところで、スイランの陣営の者達がリンの陣営の舟に飛び移り始めた。
また別の舟では、リンの陣営の者達がスイランの陣営の舟に飛び移っていく。
まだ舟一つ分どころではない距離があって、人間ではとても飛び越えられないが、有威者達は物ともしなかった。
相手を殺すことが目的ではないこともあって、接近戦においては皆素手で戦っている。
彼等は鉄等の金属を作る技術を持っていないので、武器は力を物質化させて創った物か木や石を使ったそれしかなく、力を物質化できる者はリンとスイランしかいない。
そのため武器の大半は木や石作りの物ということになるが、どちらも皆素手で叩き壊せるので、わざわざ武器を持つ意味があまりないのだという。
確かに武器より自分の拳の方が固いなら、素手で戦った方が身軽でいいに決まっていた。
流石の身体能力の高さで、リンの陣営の者達もスイランの陣営の者達も、目で追うのが大変な程機敏に動き回りながら拳や蹴りを繰り出していく。
有威者達は自らが使う強い力に負けないために肉体強度が高く、矢のように当たればそれなりの傷を負う訳でもないため、見る限り一度攻撃が当たった程度では戦線を離脱させられることはないようだ。
それでも少しずつ球体に取り込まれる者が出始めた。
血が出ていないので傍目には傷を負っているようには見えないものの、痛みを堪えるように腕や腹部を押さえているところからして、内蔵や骨に異常が出ているのだろう。
リンがスイランの相手で手一杯の状況になった時には、リンの陣営で二番目の実力者である男が指揮を執ることになっていたが、一旦白兵戦が始まってしまうと敵味方入り乱れてすっかり場が混乱してしまい、最早それどころではなさそうだった。
一応事前に集団で動くことの重要性を説明してはいたものの、そういう戦い方をして来なかった彼等にいきなりやれと言っても無理な話だろう。
今回戦う相手は外部の者ではなくスイラン達なので、こちらの手の内を知られないように、水上で集団戦を行うための訓練らしい訓練はあまりできなかったし。
一人後方に取り残される形になったクレイが所在なく舟の上に佇んでいると、不意に舟が揺れた。
クレイが驚いて辺りを見回すと、いつの間にか舟の背後に取り付いていたテンウが飛び上がるようにして舟に上がってくる。
テンウは全身から雫を滴らせながら、据わった目で何事か言ったが、その意味はクレイには理解できなかった。
リンが近くにいないせいだろう。
だが何を言われたのか、大体のところは見当が付いた。
その目的も。
大方リンの側に自分がいるのが気に入らず、一人になったところをぶちのめしに来たに違いない。
殺すつもりなのか、一発殴ることができればそれでいいと思っているのかはわからないが、どの道人間以上の膂力を持つテンウが怒りに任せて殴れば人間の体など簡単に破壊されてしまう。
助けを呼べばリンはすぐに駆け付けてくれるだろうが、この距離ではテンウが自分を殺す方が早いだろう。
クレイは冷や汗をかきながら、盾に身を隠して言った。
「あ、あの、一応僕達仲間同士の筈なので、こういうのはやめませんか?」
自分と会話する必要など感じていないであろうテンウに言葉が通じるとは思わなかったが、クレイは敢えてそう言った。
もし自分と精神を繋げていてくれたら、冷静さを取り戻してくれるかも知れない。
テンウはリンの陣営の一人としてこの戦いに参加していて、ここで自分を倒しても全く意味がないばかりか、リンの足を引っ張るだけなのだから。
だが、テンウはクレイが身動き一つできない速さで間合いを詰めてきた。
テンウが舟を蹴った拍子に舟が大きく揺れて、まともに立っていられなくなったクレイの頬をテンウの拳が掠める。
クレイの頬に小さく痛みが走った。
少し切れたらしい。
テンウがすかさず蹴りを入れようとしてくるが、その脚がクレイに触れようとしたその時、テンウの体が球体に包まれた。
恐らく同じ陣営の者に対して敵対行動を取ったことで、七つ目の規定――全ての者は長に参加を表明した陣営に戦闘終了まで属するものとし、途中で陣営を変えることはできない――に抵触したと王が判断したのだろう。
おかげで助かった。
球体の中でがなり続けるテンウがそのまま空へ上って行くと、クレイは乱れた呼吸と鼓動を静めながら、視線を戦場に戻す。
今のところは両陣営、ほぼ互角と言ったところだろうか。
元々どちらの陣営も頭数が大して変わらない上に、そこそこ力を持った者の数もほぼ同等ということで、どちらが優勢かはわかり難かった。
先程の火矢で多少スイランの陣営の数を減らすことができたが、圧倒的にリンの陣営が有利という程の状況でもない。
スイランに舟をひっくり返されて湖に投げ出されても、リンの陣営の者が溺れることはなかったが、泳ぐので手一杯になっているところに投石を受けて戦線を離脱させられた者もいた。
大して力のない者は次々に球体に閉じ込められ、もう残りは数十人程度だ。
リンは大丈夫だろうか。
クレイはリンの姿を探して空に視線を彷徨わせた。
リンは空を駆け、スイランが操る水から逃げ回っていた。
スイランの意に従い、湖の水が矢となって次々に襲い掛かってくる。
おかげでなかなかスイランに近付けなかったが、これも作戦の内だ。
弓矢を創るために結構力を使ってしまったので、スイランにも自分と同等かそれ以上に消耗してもらわなければ勝負にならない。
下でも戦いが続いていたが、舟に乗っている者達は皆目の前の相手を倒すのに精一杯で、飛んでいる自分達のことまで気が回らないようだ。
下から攻撃を受けることはほとんどなかった。
警戒を怠ることはできないが、おかげで随分戦い易い。
リンはわざと小馬鹿にしたような口調でスイランに言った。
「ほらほら、どうした? さっきから全然当たってないぞ!」
「あんたがちょろちょろ動くからでしょ! こっちだって当てたいのよ!」
「だったら当ててみろ!」
リンは更に高度を上げて、ほぼ垂直に飛んだ。
だがスイランは付いて来ない。
あまり湖から離れてしまうと、水を操ることができなくなってしまうからだ。
やはりこんな安い挑発には乗ってきてはくれないらしい。
リンは十分な高さまで上がると、今度はスイランの頭上から真っ逆さまにスイランの元へ下り始めた。
できれば湖からスイランを引き離したかったが、駄目ならとにかく間合いを詰めるしかない。
拳の届く間合いに入らなくては、只の一撃も入れることができないのだから。
もう少しでスイランが間合いに入る所まで近付いたその時。
スイランの力がさっと空中に広がり、同時に体のあちこちに鋭い痛みが走った。
「っ!?」
リンは声にならない声を上げると同時に、自分の体が切り裂かれたことを知る。
だが切り裂いたのは水ではない。
空気だ。
空気を操り、刃にして攻撃してきたのだ。
スイランは攻撃の時にいつも水を使っていたので、水しか使わないものだと思い込んでいたが、力さえ這わせることができればそれが空気でも操ることはできるだろう。
明確な形がないものを操るのだから、水を操るのと要領は変わらない筈だ。
魚や獣は傷を負えば血を流すが、半ば物質の束縛から逃れているこの体から流れるのは血ではなく、力だった。
失われていく力は命に関わる程ではなく、すぐに傷を塞いだが、それでも王にはこれ以上の戦闘継続は困難だと判断されたようで、球体の中に閉じ込められる。
負けた。
ここ一番の勝負で、自分はスイランに負けてしまったのだ。
リンは球体に爪を立てた。