―12―
ご注意下さい!
この回は女体化要素を含んでいます。
大丈夫という方のみどうぞ。
城らしからぬ外観ではあったが、中に入ってみるとそこは正しく城だった。
「うわあ……!」
リンに続いて城門をくぐったクレイは、思わず歓声を上げる。
中は途方もない広さだった。
首を大きく動かさなければ視界に入らない程ヴォールトが高く、壁もひどく遠い。
壁も床も天井も見事なまでに艶やかな漆黒で、急に夜の中に飲み込まれたようだった。
外観がとにかく歪だったので、中もさぞ奇抜な造りなのだろうと思っていたのだが、壁や床が傾いているようなこともなく、材質を除けば人間の建造物と大差ないのが少し意外だ。
だが有威者達の家とは建築技術が違い過ぎるし、この城は一体どうやって造られたのだろう。
窓や照明がないのに、不思議と適度に明るいところも気になる。
クレイがきょろきょろと辺りを見回していると、リンはクレイをゆっくりと床に下ろした。
辺りは門番の他には誰もおらず、靴が床に触れた音が静まり返ったホールにやけに大きく響く。
限られた者しか立ち入ることができないだけあって、この城にはほんの僅かな有威者しかいないのだろう。
視線が気にならないのはいいが、こうも広いと少し心細くなってくる。
そんなクレイを余所に、リンはすっかり慣れた様子で、城の奥へ向かって歩き始めた。
クレイも慌てて小走りで後を追う。
「ねえ、この城って凄く変わってるけど、誰がどうやって建てたのかな?」
「王だよ。建てたって言うか、これ全部――もっと言うと、城があるこの空間そのものがあの御方の一部なんだけど」
「え?」
一部というのはどういう意味だろう。
「それ、何かの冗談? それとも比喩か何か?」
「違う違う。言葉そのままの意味だ。あの御方は無限に近しい存在だからな」
「無限……」
リンの言葉を反芻したクレイの脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
「神様みたいなものなのかな?」
我ながら馬鹿馬鹿しいことを口にしたものだと思ったが、リンの話が本当ならこれ以上に相応しい言葉は他にない気がした。
有限の存在とは違う、大いなる存在。
「あの御方は自分のことをそんな風におっしゃったことはないけど、もしかしたらお前が言うように神だったり、それに近い存在だったりするのかも知れないな。よく知らないけど」
「よく知らないって、君達は正体のよくわからない人に仕えてる訳?」
「そんなことは大して重要なことじゃないよ。正体云々以前に、あの御方と王妃様はそもそも厳密に言えば同族じゃないんだし」
「ええっ!?」
クレイは思わず声を高くした。
同族の者でない者が王になることなど有り得るのだろうか。
人の世で言うなら外国人が王になるようなもので、誰も納得しないような気がするのだが。
「本当に同族じゃないの?」
「ああ。同族にしたって異端だよ。私達は半分だけとはいえ肉体を持ってるけど、王達は肉体を持たない力のみの存在なんだから、私達とは明らかに違うじゃないか」
「そう言われれば、確かにそうだね」
クレイは得心が行ったが、同時に何とも不思議な気持ちになった。
リンがこう言うからには、他の皆も王達が異端であることを知っているのだろうが、どうして現王は王足り得、妃は妃足り得ているのだろう。
「その、気に障ったら悪いんだけど、王位継承問題が起きたことはないのかな?」
「ないよ。少なくとも私の知る限りは。そもそも王は老いることがないから、代替わりをしないんだ」
リンは一度言葉を切ってから続けた。
「王達は、他の種族に比べれば私達に近しい存在ってだけで、私達とは全然違う何かなんだと思う。だからあの方達をあまりよく思ってない奴もいるけど、王達が私達より遥かに強いのは間違いないし、一族を守る役目を放棄したこともない。それどころか、あの御方は私達が戦わなくて済むように、一人で戦って下さってるんだ。王達が――特にあの御方がいらっしゃらなければ、今頃無威者に数で劣る私達は駆逐されていただろう。だから、あの御方が何者であろうとも構わないんだ。私達にはあの御方が必要だから」
「なるほどね」
クレイはようやく理解できた。
人間の基準に当て嵌めて考えるからおかしかったのだ。
王はリン達にとって外敵から自分達を守ってくれる守護者であり、王はその働きの結果としてリン達の忠誠を得ているのだろう。
リン達は平穏な暮らしを、王は自分の居場所を得られるのだから、お互いにとって利がある。
リン達が何よりも力を重んじるようになったのは、もしかしたら異端の者を仲間と認めるためなのかも知れなかった。
人間の脅威から一族を守るために戦いは避けられなかっただったろうから、力ある者が権力を持つようになるのは自然な流れだったにせよ、少なくとも一因にはなっているに違いない。
クレイがそう結論付けた時、リンが一枚の黒い扉の前でその足を止めた。
どうやら着いたらしい。
決して小柄ではないクレイの身長の倍はある黒く大きな扉に向かって、リンは語り掛けた。
「王、リンです。お話した客人を連れて参りました」
返事はなかったが、分厚い漆黒の扉が独りでに音もなく開いた。
驚いた風もなく歩き出したリンに続いて、クレイが中に足を踏み入れると、そこもひどく広い。
リンの家が十は置けそうだったが、しかし置かれている物と言えば、純白のテーブルクロスに覆われた黒い水晶のテーブルと椅子くらいしかないのだった。
先程リンが「王は無限の存在」だと言っていたので、広い部屋の中には誰の姿もないのかと思っていたが、クレイの予想に反して二人の男女の姿がある。
並んで腰掛けていた二人は優雅に席を立ち、クレイを出迎えた。
男をその場に残し、女がゆっくりと歩み寄ってくる。
化粧はしていなかったが、それでも一瞬息をすることさえ忘れる程美しい女だ。
外見年齢は人間で言うと二十代半ば程だろう。
この世のものとも思えないその美しさには恐怖すら感じそうだったが、柔和な顔立ちと表情のおかげで、クレイは寧ろ慕わしく思った。
雪よりも白い肌。
優しい眼差しの奥にある目は虹彩も瞳孔も混じり気のない白で、床に引き摺る程長く伸びた髪は絹糸さながらだった。
身に纏う空気は近付くことを躊躇う程に清浄で、ひどく神々しい。
豊かな胸や細くまろやかな腰の線に沿って、床の上まで長く流れる純白のドレスはリン達の民族衣装とは随分意匠が異なり、薄紅色の石と長い飾り布で飾られていた。
背中には鳥に似た純白の翼。
異形ではあるが、しかし醜いどころかひどく美しかった。
この女が妃だろう。
自分にしか見えない色は白みがかった金で、その珍しさにクレイは少なからず驚いた。
これまでの経験から言って、金色に見える者は善人だ。
心の美しい人で良かったと安堵しながらも、そのあまりの美しさにたじろいでいると、妃がクレイの眼前で足を止めた。
妃は背が高く、並ぶとクレイより少し目線が高い。ベルファースでは平均的な身長のクレイが驚いていると、そのほっそりした両手が優しくクレイのそれを包み込んだ。
左手の銀の指輪に何とはなしに目が行く間に、そのまま軽く口付けられる。
故郷では馴染みの挨拶だが、手袋をしていない女性にはしないし、ましてここでこれ程高貴な身分の、しかもこれ程美しい女性にされるとは思わなかった。
只の挨拶だとわかっているのに、ひどく胸が高鳴る。
クレイが挨拶をし返すことも忘れて妃を凝視したまま固まっていると、妃の美しい唇が動いて言葉を紡ぎ出した。
「よく来てくれたね。私は王の妃だ。名前はないから、好きに呼んでくれて構わないよ」
妃が優しく、美しい声で口にしたのは、ベルファース語だった。
しかもとても流暢だ。
妃の口から母国語が聞けるとは思っていなかったクレイは呆気に取られたが、すぐに我に返って少し上擦った声で言った。
「へ、陛下に置かれましてはご機嫌麗しく存じます。クレイ=ハディストと申します。本日はお招きに与り、光栄です」
「長から話は聞いているよ。細かいことを言うようで気を悪くしたら申し訳ないのだけれど、私達の一族の中で『陛下』と呼ばれるべきは王だけだから、今後私のことは別の呼び方をしてもらえると嬉しいな」
「あ、それは知らぬこととはいえ失礼しました」
クレイはそう言って頭を下げた。
王と妃は同等の力を持っていると聞いていたので、てっきり同格とばかり思っていたのだが、違ったらしい。
「さあ、おいで」
クレイが妃に促されるままにテーブルへ進むと、そこには漆黒の男がいた。
この男が王だろう。
北方の人間を思わせる白い肌の、冷たい美貌の男だった。
外見年齢は妃と同じくらいだろう。
美しい男と言うと女性的なものを感じさせそうなものだが、その美貌は女性らしさとはかけ離れていて、実に雄々しく力強い。
目にした女全てが跪いて愛を請いそうな程の美貌に加えて、男でもぞくりとする程蠱惑的だった。
王らしい威厳と、いるだけで場が華やぐような気品に満ちていて、クレイはかなり気後れする。
どんな光も飲み込む常闇のような深い黒の目は、瞳孔が爬虫類のように細く、虹彩まで同じ色。
腰よりも長く伸びた艶やかな髪も瞳と同じ色だった。
すらりとした長身を覆うゆったりとした黒衣は床の上まで長く広がり、床に届く長い袖が作る襞すら優美だ。
胸元は朝焼けよりも鮮やかな紫水晶と、同じ色の長い飾り布で飾られていて、その背には蝙蝠めいた黒く大きな羽を負っている。
クレイにしか見えない色は、黒みがかった金だった。
目の色、髪の色、服の色、印象に至るまで見事に正反対ではあるが、互いにこの相手しか考えられない程似合いの二人だとクレイは思う。
王は長い裾を捌きながら歩み寄って来ると、黒く長い爪と銀の指輪が光る手で先程の妃と同じ挨拶をしてきた。
同性でもこれ程美しい男にされると、少し落ち着かないような気分になったが、今度はきちんと挨拶を返してからクレイは言う。
「お初にお目に掛かります、陛下。クレイとお呼び下さい」
「歓迎しよう、人間の客人。我にも名乗るべき名はないが、人間には魔王などと呼ばれている。其方も呼びたければそう呼ぶがいい」
王はよく通る低い美声で、お手本のように綺麗なベルファース語を操った。
妃といい、王といい、一体どこでベルファース語や向こうの挨拶を覚えたのだろう。
気にはなったが、有難いことだった。
同じ言語で会話できるからには、リン達のように精神を繋げる必要はないに違いない。
こんな格の違い過ぎる相手と、一部とはいえ精神を共有したいとは思えなかった。
クレイが王に勧められるまま椅子に腰掛けると、その隣の椅子にリンも腰を下ろす。
王達は北の食文化のことまで知っているようで、テーブルの上には三人分のティーセットとロールケーキが並んでいた。
有り難いが、しかしやはり緊張する。
クレイがすっかり固まっていると、妃はくすりと上品な笑みを漏らした。
「そう緊張することはないよ。私達はほとんど名ばかりの王と王妃だからね」
「そんな……」
「事実だ」
ポットを傾けていた王が、クレイの前に優雅な手付きでカップを置きながらそう言った。
中身は赤みがかった液体で、ひっきりなしに湯気を立てている。
恐らく紅茶だろう。
ケーキの材料といい、この紅茶といい、どうやって手に入れたのだろうか。
外部と交易している訳でもないというのに。
王が優雅な手付きでロールケーキを切り分け始めると、リンは興味深そうにケーキを覗き込んだ。
「あの、これは何ですか? 見たところ、食べ物のようですが」
「異国の菓子だ」
簡潔過ぎる王の説明を妃が補足する。
「ケーキと言うのだよ。妙な物は入っていないから大丈夫。ちなみに私達の手作りだから」
えええええ!?
クレイは驚きのあまり思わず声を上げそうになったが、辛うじて堪えた。
この二人が料理をしているところが全く思い浮かばない。
一体どんな顔をして厨房に立つのだろうと思っていると、王が妃にケーキの乗った皿を手渡しながら皮肉げに言った。
「作ったのはほとんど我だろう。其方は何もしていないも同然の筈だが?」
「う……果物を並べるくらいのことはしたよ!」
「その程度の働きで合作だと主張するのは、図々しいというものだ」
どうも妃は料理が苦手で、王は得意らしい。
本当に料理をするのだなあとクレイが感心しながら二人を見ていると、王が再び妃に言った。
「見ろ。客人も其方の厚顔ぶりに呆れているぞ」
「いえ、決してそんなことは……ただその、僕の生まれ育った国では身分の高い方は料理などしないので、ちょっと意外で……」
「只の年寄りの暇潰しだ。おかげで、こうして客人に手ずからもてなしもできる。こちらにいると故郷の味が恋しくなるだろうと、これが言い出してな」
『これ』のところで、王は妃に眼差しを投げかけた。
「それでわざわざ……ありがとうございます」
「礼を言われるような出来になっているといいのだけれどね。私達に味覚はないから、味については保証できないのだよ。まあ、本に書いてある通りに作ってある筈だから、そう不味くはないと思うのだけれど」
「そ、そうですか……」
見た目はとても美味しそうに見えるのだが、その実壮絶に不味かったりするのだろうか。
クレイが若干の不安を覚えた丁度その時、神を除く全員に紅茶とケーキが行き渡ったが、王は妃の分を用意することなく席に着いた。
もしかしなくても、これは王の妃に対する嫌がらせなのだろうか。
しかし、妃に気分を害した様子はないし、リンも特に気にしてはいないようだ。
クレイは困惑しながら妃に問いかけた。
「あの、召し上がらないのですか?」
「私のことは気にしないで。私は糧を得る必要がないから、何も殺さなくても生きて行けるものでね、命を口にするのは抵抗があるのだよ」
それは王も同じなのではないかとクレイは思ったが、王は命を食することに対して抵抗がないということなのだろう。
そうでなければ、多くの敵を殺すことなどできないに違いない。
「さあ、召し上がれ」
妃が椅子に腰を下ろしてそう言ったが、クレイは味への不安を差し引いても緊張であまり食欲がなかった。
だが全く手を付けないのも失礼というものだろう。
クレイはフォークを手に取った。
久し振りのフォークは懐かしかったが、やはりあの国に帰りたいとは思えない。
クレイが切り分けたケーキをゆっくりと口に運ぶと、クリームと果物の程好い甘味が口の中に広がる。
スポンジも雲を食べているように柔らかく、とても上手く焼けていた。
「美味しいです」
妃が満足気に微笑むと、クレイは再びケーキにフォークを入れた。
その手元を見ながらリンが感心したように言う。
「へえ、これはそうやって使うものなんだな」
「そうか、君は見たことないよね。これはフォークって言って、食べ物を切ったり刺したりして使うんだ。僕の国だと、ごく一般的な食器なんだよ」
「ふーん、何だか使い辛いなあ」
慣れないフォークを上手く扱えず、なかなかケーキを口に運ぶことができないリンを余所に、王は慣れた様子でフォークを扱い、ケーキを食べていた。
しかも一つ一つの動きがとても美しい。
リンが再び手を止めて言った。
「王は随分お上手ですね。クレイの国に行かれたことがあるのでしょうか? 先程からクレイと同じ言葉を話されていますし」
「ああ、幾度か一人でな」
「お一人で、ですか?」
クレイの問いかけに、妃が答える。
「仕事という程のものでもないのだけれど、私は皆の話を聞いたりしているから、自然と時間が潰れることが多くてね。王と違って、あまり外を出歩くことはないのだよ。その方が目的もなくただ遊んでいるより、有意義に過ごせていいし」
「労働意欲が低いのは認めるが、今日は料理の材料を手に入れるという目的があっただろうが」
王がカップを手に取りながら口にした言葉に、クレイはぎょっとした。
「こんな短時間で、あちらとこちらを行き来されたのですか!?」
「驚く程のことでもない。こういう姿をしてはいるが、我等は精神体なのでな、其方のように肉体に縛られた者と違って、いろいろと融通が利くのだ。一切の物理法則を無視できるおかげで、望む場所にはどこでも瞬く間に行くことができるし、大抵の知識も必要な時に望むだけ持つことができる。今現在この言語を母国語としている者達の会話や文語を世界から拾い上げて文法を整理し、会話するくらいのことは造作もないことだ。尤も、言語によっては少々発音が上手く行かないこともあるがな」
クレイは王を見る眼差しに困惑の色を足した。
今の話は果たして本当なのだろうか。
リンも先程「王は無限の存在」だと言っていたが、なかなかすんなりとは信じられなかった。
この辺りでもケーキの材料や紅茶は手に入るし、ベルファース語を話す人間でも攫って来れば言語や文化を学ぶこともできる筈だ。
とはいえ、自分を騙して王達に得があるとも思えなかった。
もう少し話を聞いてみたくなって、クレイは思い切って尋ねてみる。
「あの、先程お二人は精神体だとおっしゃっていましたが、そうした姿をしていらっしゃるのには何か理由がお有りなのですか? 元々姿形をお持ちでないのであれば、特に形を定めなくても不都合はないような気もするのですが」
問いかけに答えたのは妃だった。
「肉体を持つ者と円滑に意思の疎通を図るためだよ。音声言語を操るためには、皆と似たような姿をしていた方が都合がいいから。まあ、言葉に頼らなくても概念をやり取りすることで会話はできるのだけれど、私達のような精神体にとって、相手の精神に直接触れることは唇や肌を触れ合わせるようなものだから、なかなか誰とでも……という訳には行かなくてね」
どうやら妃達にとっては、只の会話が会話以上の意味合いになってしまうらしい。
妃達のような精神体でないとはいえ、今正にリンと精神の一部を共有しているクレイが思わずどぎまぎしていると、妃が言葉を足した。
「それに姿がないと、それだけで無闇に怯えられてしまったりするから。今の姿は皆に近く、けれど明らかに異質であるように作ってあるのだよ」
異質という言葉を聞いて、クレイはと王と妃の背中にある羽と翼に視線を移した。
王はクレイの視線を追うこともなく、その先にある物に気付いて言う。
「決して同じにはなれない我等が、其方等と変わらぬ姿をしていると、あらぬ誤解や混乱を生むだろう。ならば最初から異形の姿をしていた方がいいというものだ」
何の前触れもなく、王の姿が一瞬ぶれた。
クレイが見間違いかと思った時には再びくっきりとした姿に戻っていたが、身長が一回り小さくなって、頬の線も細くなっている。
女の姿になったのだ。
体を覆っていた黒衣が黒いドレスに変わり、白く細い肩や豊かな胸の谷間が露わになっている。
しかも男の時の印象そのままに、ただ見つめるだけで男を篭絡できそうな妖艶な美女だ。
クレイが目のやり場に困って王から目を逸らすと、王が姿によく似合う、艶のある女の声で続けた。
「性別はこの通りどちらにでもなれるのだが、我に関しては妃が男の姿の方がいいと言うのでな、普段は男の姿で通している」
こういう人智を超えた存在でも、伴侶に良く思われたいと思ったりするものらしい。
クレイが少し微笑ましく思っていると、それが顔に出ていたらしく、王が問いかけてくる。
「何か可笑しいか?」
「いえ、何でもありません」
クレイは何とか誤魔化そうと、慌てて言った。
「あ、あの、肉体がないということはお二人の今のお姿は幻同然の筈ですよね。先程から物に触れているのは何故ですか?」
問いかけに答えたのは妃だった。
「確かに私達は本来実体を持たない者ではあるけれど、何かに触れようという意志さえあれば容易く実体を持つこともできるし、またその逆もできる者だから」
妃がそう言うと、その姿が薄くなり、背後にある黒い壁が見えた。
確かにそこにある筈なのに、存在していない。
まるで数の概念と同じだった。
「こういう言い方が適切かはわかりませんが、あなた方は虚数のような存在ということなのでしょうか?」
王達が数学に関心があるかはわからなかったが、クレイは敢えて数学用語を口にした。
ベルファース語を短時間でここまで理解して操れるなら、たとえ『虚数』を知らなかったとしても理解できるだろうと踏んでのことだったが、少なくとも王には通じたようで、カップを唇から離して言った。
「数学に関心があるなら、そのように解釈した方が理解し易いだろう。我等は確かに存在してはいるが、概念的な存在だからな。我々が虚数存在――ここが虚数領域だとするなら、差し詰め其方等は実数存在であり、其方等が住まう領域は実数領域と言ったところか」
リンはフォークを使うことをあきらめて、素手でケーキを食べながら魔王の言葉を聞いていたが、ケーキを飲み下すとクレイに面を向けた。
「なあ、さっきから言ってる『きょすう』って何だ?」
クレイはどう言えばリンが理解できるか考えながら、言葉を選んで説明する。
「虚数って言うのは、二乗しても負になる不思議な数なんだ。大雑把に言うと日常で君がよく使う数として現れることはない数で、長いこと存在を疑問視されていたりもしたんだよ。でも今では僕達が住む世界に存在しない領域――この城があるこの場所を思い浮かべてもらうとわかり易いと思うんだけど、そういう領域にある数を計算をする時になくてはならないものになってる。虚数の反対の数は実数と呼ばれていて、虚数領域と実数領域の二つが一つの数の世界を作ってるんだ。丁度僕達が今生きてるこの世界が、この概念的な領域と実体からなる領域の二つでできてるみたいにね」
「うーんと、つまり『きょすう』って言うのは、感じられるけど触れない領域にあるもので、だからお二人に似てるってことなんだな?」
「やっぱり、君は理解が早いね。数学のこと何も知らないのに」
「『すうがく』……お前の好きなやつだな」
「うん」
クレイが頷くと、王が再び唇を動かした。
「学問に興味があるのなら、其方がいるべき場所はここではないのではないか? ここでは知識を深めることはできないぞ。そもそもここには、未来などないかも知れぬのだからな」
クレイは軽く目を伏せた。
これは「出て行け」と言われているのだろうか。
王の口調は決して厳しいものではなく、淡々としていたが、クレイはそんな風に思わずにはいられなかった。
余所者――それも人間なのだから、邪魔に思われても仕方がない。
そんなクレイの思いを察したらしく、妃は瞳を優しく笑ませて言った。
「勘違いしないで欲しい。別に出て行けと言っている訳ではないよ。私達は決して人間を敵視している訳ではないし、ここに留まってくれるならそれはとても喜ばしいことだと思う。ただ、やりたいことがあるなら、ここを離れて生きることも考えた方がいい。人の身でここに来たからにはそれなりの理由があるのだろうけれど、良かったら聞かせてもらえないだろうか?」
あまり愉快な話ではないので、できればあまり話したくなかったが、リンには既に話しているのだから、リンから二人の耳に入る可能性はあるだろう。
それなら自分で話してしまった方がいい。
クレイは急に重くなった唇をゆっくりと動かして、これまでの経緯を簡単に説明した。
「事情はわかったが、今其方が抱えている問題は居場所を変えさえすれば解決するとは限らぬのではないか? 現状の原因の一端が其方自身にある場合、どこにいても同じことの繰り返しになりかねないと思うのだが」
王の指摘に、クレイは言い訳もできずに膝の上で手を握り締めた。
口惜しいが、王の言葉は事実だ。
言われなくてもわかっている。自分だって変わりたい。
だがそのための勇気が、なかなか持てないのだ。
すっかり黙り込んでしまったクレイを見かねて、妃が言う。
「この子のことをよく知りもしないのに、そんな言い方をしてはいけないよ」
「そうですよ。それに、私はクレイの友人です。クレイは同じことを繰り返している訳ではありません」
女性陣の擁護は大変有難かったが、クレイは尚更自分が情けなくなった。
二人共優しいから庇ってくれているだけで、内心ひどく呆れられている気がする。
少し泣きたい。先程からリンにひどく心配そうな顔を向けられているし。
「単に可能性を指摘しただけで、何故我が悪者のように扱われるのか理解できないのだが」
「全くもう……」
妃は軽く王を睨んでから、申し訳なさそうにクレイに言った。
「すまなかったね。王はいつもこんな調子で、決して悪気がある訳ではないから、許してあげて欲しいのだけれど」
「許すだなんてそんな……僕の方こそすみません。場の空気を悪くしてしまって……」
「謝ることではないよ。立ち入ったことを訊いてしまってすまなかったね。この話はこれでおしまいにしよう」
クレイが少し安堵すると、リンも目に見えてほっとした顔になった。
二人の顔を見て、妃が笑う。