―10―
クレイとリンは、スイランに借りた舟でリンの家に戻った。
リンが濡れた体を拭く間、クレイは舟の上で待つことにしたが、有威者達の刺すような視線に晒され続けるのはやはり苦痛だ。
面と向かって心ない言葉をぶつけられたり、暴力を振るわれたりしないだけマシと思うしかなかった。
きっと有威者に転化したところで、手の平を返されることはないのだろう。
そう思うと、やはりおいそれと転化する気にはなれなかった。
仲間になると言えば、きっとリンはとても喜んでくれるのだろうし、感謝もしてくれるだろうし、リンと結ばれる可能性すらも生じるのだろうが、流石にこの状況にずっと身を置き続けるのは辛い。
少なくともベルファースではここまであからさまな敵意を向けられることはあまりないことも手伝って、余計に踏み切れなかった。
いつまでも敵ではないが仲間でもないという、こんな中途半端な状態でいるのは良くないとは思うのだが。
クレイが一人で悶々としていると、ナギが舟を漕いで近付いて来た。
ナギはリンの家の前に舟を着けると、慣れた手付きで手摺に舫い綱を括り付けながら細い声で訊いてくる。
「……暇?」
「うん」
「じゃあ、昨日教えてくれたみたいなこと、もっと、教えてもらいたいんだけど……」
意外な申し出に、クレイは目を瞬かせて言った。
「いいよ。でも興味を持ってくれるなんて思わなかったな。君達は学問はしないって、リンから聞いてたし」
「『がくもん』っていうのが何かわからないけど、面白いと思ったから……駄目?」
舫い綱を結び終えたナギが、ようやくクレイに視線を向けた。
一瞬視線を合わせただけで、ナギはすぐに目を逸らしたが、多分ナギなりに距離を縮めようとしてくれているのだろう。
多分本当は人間が怖いのだろうに、優しい子だ。
「駄目じゃないよ」
クレイが淡く微笑んでそう言った時、体を拭き終えたらしいリンが、出入り口の布を押し上げて中から顔を出した。
「ついでに私にも教えてくれ。できれば、あんまり難しくないやつ」
「うん。じゃあ、中で話そうか」
「ああ」
布を紐で留めたリンが頭を引っ込めると、クレイも入り口をくぐって中に入った。
外の有威者達の視線から逃れることができたことにほっとしながら、水取り口の前に座るリンの向かいに敷かれた敷物の上に腰を下ろす。
リンの右斜め前の敷物にナギが腰を下ろしたところで、クレイは切り出した。
「あのさ、僕達が住んでるこの星の中心を通って反対側まで穴を掘って、そこに砲弾――大砲っていう大きな兵器に込める弾を落としたらどうなると思う?」
これは科学の有名な思考実験だ。
数学ではなく物理の領分だが、これまで全く学問に触れてこなかったリンとナギにとっては、数学に限らずどの学問に関する知識でも興味深いだろう。
幸い数学だけでなく、計算が必要になる物理や天文学などについてもそれなりの知識があるので、ネタにはそうそう困らなかった。
だが知識はあっても今まで人に物を教えた経験はない。
どうすれば退屈しないで聞いてもらえるかわからなかったが、とりあえず何もかもが目新しかった子供の頃に自分が何にわくわくしたかを思い出しながら教えてみることにした。
ただ知識を羅列するだけでは、二人共退屈な上に理解もできないだろう。
クレイはリン達なりの何らかの答えが返ってくることを期待したが、リンは答えを口にすることなく、困惑気味な面持ちで問い返してきた。
「よくわからないんだけど、地面を掘ったら反対側に出るものなのか?」
思いがけない問いかけにクレイは驚いたが、見ればナギも訝しげな様子だった。
自分にとってはあまりにも当たり前過ぎて、つい世界が丸いという前提で話をしてしまったが、よくよく考えればリン達がその事実を知っている可能性は限りなく低いだろう。
リン達に限らず、人に物を教える時には自分が知っていることを相手は知らないものと思って話すくらいで丁度いいのかも知れなかった。
「ええと、僕達が住んでるこの世界は一見平らに見えるけど、実は丸いんだよ。ごくたまに、月が丸く欠けて見えることがあるでしょ? あの現象を僕達は月食って呼んでるんだけど、月食は月が僕らの星の影に入って暗くなるから起こるんだ。月が丸く欠けるのは、僕らの星が丸いからなんだよ」
「へえ、ただ不思議だなあって思って見てたけど、月が欠けるのはそういう理由だったのか。おまけに世界が丸いだなんて、考えたこともなかったよ」
リンは素直に納得してそう言った。
ナギも感心した様子で、小さく頷きながら聞いている。
どうやらわかってもらえたらしいことに安堵しつつ、クレイは言った。
「じゃあ、話を戻そうか。この星の中心を通って反対側まで穴を掘って、そこに砲弾を落としたらどうなると思う?」
クレイが先程と同じ質問を繰り返すと、リンは少し考えてから答えた。
「……反対側に突き抜ける」
「じゃあ、突き抜けた砲弾はその後どうなると思う?」
「うーん……そのまま遠くまで飛んでいく、とか? 本当のところはどうなんだ?」
「星の反対側まで穴を空けるなんてことは僕達にはできないから、あくまで想像の話になるけど、砲弾が反対側の地面から飛び出して、こっちから落とした時と同じ高さまで上がる筈だっていう考えはあるよ。重力――星が物を引っ張る力に引かれて砲弾が星の中に落ちて、落ちる間にどんどん加速して反対側の出口に働いてる重力を振り切るくらいの力を持って、最初に砲弾を落とした高さまで上がったら、その力を使い切ってまた落ちる。後は同じ要領で行ったり来たりを繰り返すんだって。この考え方で、振り子の揺れの説明もできるんだよ」
「『ふりこ』?」
小さく首を傾げたリンに、クレイが言う。
「糸か何かに吊るされてて、重力の作用で揺れを繰り返す物のことだよ」
説明を聞いたリンがすっと手を上げると、その指先にどこからともなく生まれた糸が絡まった。
リンが自分の力で創り出したのだろう。
糸の先には青く丸い石が下がっていて、石は押されることもなく独りでに横に動き、規則正しく揺れ始めた。
「こういう感じか?」
「うん。振り子は一番低い所に向かって引っ張られて、与えられた力でそのまま横向きに押し出されるけど、また力を使い果たして引き戻されるんだ。その力をエネルギーと僕達は呼んでるんだけど、これが面白くて、振り子が上にある時でも下にある時でもエネルギーの量は変わらない。振り子が一番高い位置にある時は位置エネルギーが一番大きくて運動エネルギーがない状態で、だんだん下に来るにつれて位置エネルギーが運動エネルギーに変わって、一番下に来た時には位置エネルギーが全部運動エネルギーになるから、位置エネルギーはなくなるんだ。で、その運動エネルギーで振り子はまた反対側に動いていくんだって」
「ふーん、物が動くのにもちゃんと理由があるんだな」
興味深そうに振り子を見つめるリンの隣で、ナギもまたじっと振り子を見つめていた。
口数は相変わらず少ないが、楽しんでくれているのだろうか。
クレイが少し不安になっていると、リンが言った。
「お前は教えるのが上手いな。いろいろ勉強になるよ」
「そう、かな? 今まで人に教えたことはないんだけどね」
勉強は好きで、密かに数学者には憧れていたけれども、結局真剣に努力することもなく、ここへ逃げて来てしまった。
そして今はリン達の敵でも味方でもない、宙ぶらりんな立場にいる。
振り子は空気抵抗等がなければ、理論上永遠に同じ動きを繰り返すと言うが、自分も何か外から力が加わらない限り、ずっと中途半端な人間なままなのかも知れなかった。
夕方になって、スイランがリンの家にやって来た。
夜の間も見回りは続けられると言うが、夜は有威者達の中で比較的力の強い者達が交代で行うのだという。
リン達は人間のように毎日睡眠を取る必要はないので、人間が夜の勤めをする時程の負担はなくとも、身分の高い者がする仕事ではないのだろう。
スイランは断りもなく空いていた敷物の上に腰を下ろすと、眼光鋭くクレイを睨み付けて凄んだ。
「私がいなかったからって、妙な真似してないでしょうね?」
先程少しだけ仲良くなれた気がしたのは、錯覚だったのだろうか。
クレイは力一杯怯えながら答えた。
「し、してないよ」
「何びくびくしてるのよ。怪しいわね」
クレイを睨む眼差しに一層力が篭ると、リンが呆れたように言う。
「お前があんまり睨むからだろ。怖がってるだけだよ」
正にその通りだが、自分で自分が情けなくなって、クレイは少し泣きそうになった。
だがこのまま黙り込んでしまっては余計に自分が惨めな気がしたし、何よりスイランに伝えておきたいことがあったので、クレイは勇気を出して喉から言葉を絞り出す。
「……さっきのこと、リンに話してみたよ。ちゃんとわかってくれた」
「そう。ありがと」
スイランは素っ気ないながらも、きちんと礼を口にした。
思い当たる節があるリンは「ああ、あのことか」という顔をしたが、何の話かわからないナギは首を傾げてスイランに問いかける。
「何のこと?」
「ん、ちょっとね。別に大したことじゃないわよ」
ナギは腑に落ちない様子だったが、それ以上追求することなく口を閉じると、リンがスイランに言った。
「今日はありがとな。今度果物でもご馳走するよ」
「忘れないでよね。ちゃんと甘くて美味しい奴じゃないと怒るわよ」
「わかってるよ。相変わらず甘いの好きだよな。私も嫌いじゃないけど」
リンとスイランの気の置けないやり取りを聞いて、クレイは瞳を和ませた。
「本当に、仲がいいんだね」
クレイの言葉に、リンが小さく笑う。
「まあな。物心付いた頃からずっと一緒だし。同じくらいの年の子供って、私達三人しかいなかったから、いつも三人で遊んでたんだ。サイカはちょっと年が離れてるから、一緒に遊ぶようになったのは遅かったし」
「そうなんだ。君達の中で誰が一番年上なの?」
「ナギだよ」
「え!?」
ナギが一番年下だとばかり思っていたクレイが思わずナギを凝視すると、ナギは少し傷ついたような顔で俯いた。
「私、子供っぽいから……」
どうやらナギは、リン達より少し幼く見えることを気にしているようだ。
まずい。
ここは何とか上手く取り繕わなくては。
クレイは素早く頭を回転させながら言った。
「あ、ええと、そうじゃなくて、リン達に比べると少し小柄だからてっきり……でも言われてみれば君が一番落ち着いてて、年上に見えるよ」
「……ありがとう」
ナギはとても喜んでいるようには思えない口調でそう言った。
ここは「年上に見える」と言うより、敢えてその件には触れずに強引に話題を逸らすべきだったのだろうか。
相手を不愉快にさせないように会話するには、本当にどうすればいいのだろう。
クレイはとりあえず話題を変えてみることにした。
「うーんと、君達って何して遊んでたのかな?」
些か強引な話題転換に怪訝な顔をするでもなく、リンが教えてよこす。
「舟で競争とか、水遊びとか……後は追いかけっことかかな。ナギは飛べないから、飛ぶの禁止で」
只の子供の遊びでも、人間と大差ないように見えてやはり違うのだなあとクレイが感心していると、ナギが昔を思い出したのか、くすりと笑った。
「リン、足が速いから、逃げる方になっちゃうと、全然捕まらなかったよね。反対に、スイランが追い掛ける方になると、私達になかなか追い付けなかったし」
「しょうがないでしょ! あれでも全速力だったの! あんた達が速過ぎるのよ!」
スイランが声に怒気を込めると、リンが揶揄の響きで言った。
「私達が速いんじゃなくて、スイランが遅過ぎるんだよ。本気出して走っても、何だかふわふわした感じの走り方だしさ。もしかしたらクレイより遅いんじゃないか?」
「そうかも」
リンとナギのやり取りを聞きながら、クレイは何とも複雑な気持ちになった。
この中で一番身体能力が低いのは人間である自分に違いないが、自分より年下に見える少女と足の速さがいい勝負かも知れないというのは流石に男としての沽券に関わる。
存在そのものの根幹が異なるのだから、張り合ったところでどうしようもないのだが。
「いくら私だって、流石にそいつには負けないわよ。無威者って身体能力低いんでしょ」
「そこまで言うなら、今度競争してみれば?」
リンの提案に、スイランは言葉を詰まらせた。
身体能力の平均値が人間よりかなり高い有威者であっても、スイランはその中ですば抜けて身体能力が低いようであるし、もしかしたら本当に負けるかも知れない。
気位の高いスイランのことなので、敵視している人間ごときに負けたとあっては立ち直れなくなりそうだ。
果たして受けて立つのだろうか。
クレイがスイランの出方を窺っていると、スイランはすぐに気を取り直して、あくまで強気に言い放つ。
「この私がそんな無威者なんかと一緒に走る訳ないでしょ!」
「今だってすぐ側に座ってるんだし、一緒に走ることの何が駄目なんだよ?」
リンの鋭い指摘にスイランは一瞬怯んだが、結局は勢いで押し切ることにしたらしい。更に語気を強めて言った。
「とにかく走らないの!」
「はいはい。負けるのが嫌なら嫌って、素直にそう言えばいいのに」
「ちっがーう! この年になって、そんな子供っぽい競争なんてやりたくないだけよ! この話は終わり!!」
スイランは凄まじい剣幕で床を叩くと、家が大きく揺れた。
これ以上スイランを興奮させると、家が壊されそうだ。
リンも同じ危惧を抱いたのか、それ以上この話題に触れることはなかった。




