人魚の檻 3
ロディス大学のある研究員の話
人魚についての聞き取り調査
3 人魚の足について
私が彼を人魚だと思った理由は幾つかありますが、その一つは彼の足です。彼には私達と同じように足がありました。私が発見した時、彼は靴も靴下も履いていませんでした。普段尾びれで泳ぐ人魚が靴を持っているわけがありませんから。
私は彼を研究室に案内することにしました。いつまでも私の部屋に置いておくわけにもいきません。目の届くところにいてほしかったのです。決して監禁していたつもりはありませんし、研究中は声をかけることもしていません。お互い無関心でした。
部屋から研究室への移動で、私は彼が足を引きずっているのに気づきました。彼を伝説の人魚ではないかと思ったのもこのためです。人魚は陸へ上がると、乾かした尾びれが足になるものの、うまく歩くことができないと聞きました。傷を治した時、私は持てる限りの力を注いだつもりです。脚を怪我していたようには見えませんでした。ですから、彼の歩き方が不自然なのは、人魚から人間に姿を変えたせいなのだと思ってしまったのです。
研究室にいる時間は、彼も手持ち無沙汰なようでした。昔の研究員が残した本が書棚にたくさんありましたが、言葉が分からない彼には読む術がありません。ずっと窓の外を眺めていました。北を向いている研究室の窓からは海が見えます。海流が荒いためあまり船は通りませんが、晴れて風のない日には海の向こうの大陸が見えるのです。何もない島ですがこの景色だけは絶景と言っていいでしょう。私も気に入っていました。残念ながら彼はこの島の場所を理解していません。向こうに見えるのがグランディア王国だと、地図でもあれば教えられたのでしょうけれど。
4 人魚の歌について
人魚の歌を聞いたのは、彼を拾って二日が経った頃です。
外は大雨になり、遺跡が壊れていないか心配でしたが調査はできません。彼を残して出かけることもできず、私は書庫の整理をすることにしました。研究所の書庫は、時々整理しないとすぐにいっぱいになってしまいます。彼にも手伝ってもらい、古い本や使わない本をまとめて紐で縛りました。そして、梯子で書庫から屋根裏に上がり、本を収納します。彼に梯子を上らせるのは難しいと思い、私は自分で本を運びます。埃っぽい屋根裏にいつまでもいたくはありません。早く終えてしまおうと気が焦っていたのだと思います。床にあった何かを蹴飛ばして転んでしまいました。
それはオルゴールでした。蹴飛ばされた衝撃でゼンマイが動き出し、知らない曲が流れました。下からガタガタと音がしたので梯子を見れば、彼が屋根裏へ上ろうとしていました。私を心配して見に来てくれたのだと、その時は思ったものです。今思えば、彼は心配などしていなくて、大きな音を立てたので気になっただけだったのでしょうね。
突然、彼が歌を歌いだしました。オルゴールの音楽とよく似ています。一度聞いただけでよく覚えたものだと思いました。人魚は歌で船を誘い遭難させると聞いたことがあります。音楽が好きな種族なのでしょう。人魚に惑わされた船員が語ったように、私も彼の歌に酔いしれました。声ですか?高くもなく低くもなく、不思議に心地よい声としか覚えていません。
暇を持て余すより、オルゴールでも聴いていたほうが彼の気も紛れるだろうと、私は屋根裏からそれを持って書庫へ下り、埃を払って手渡しました。彼はオルゴールを抱きしめると心から嬉しそうな顔をしました。天使の微笑みとはこのことを言うのだと思いました。邪気のない美しさとでも言いましょうか。その日から毎日、私は研究室でオルゴールを聴かされることになりました。――彼がいなくなる日まで。
5 人魚が人間に慣れるかについて
結論から言いますと、人魚が人に慣れて生活を共にするには、一般的に少し時間がかかるものだと考えます。彼らは警戒心が強い種族なのですね。
人魚の歌を聞いた翌日、ロディスの町の本屋から、私に手紙が届きました。値が張る専門書を一度に十冊以上購入する私は、本屋にとって上客なのか、町に住んでいる魔導士に手紙を風魔法に乗せてもらったようです。頼んでいた本が八冊入ったとの知らせです。本を一度に持ち帰るのは大変なので、魔方陣で転送してもらえないかと返事を出しました。すぐに研究室の床が光を放ち、魔方陣と共に本が現れます。人魚の彼は魔方陣を見たことがなかったのでしょう。魔法で物が送られてくるのを見て驚いていました。
対応が早くて助かります。本が届いたらすぐに調べたいことがありましたので、重なった中から目的の本を取ろうとすると、本が九冊あるではありませんか。題名を一つずつ確認します。頼んでいない辞典が混ざっていました。グランディア語の辞典です。私が読み上げますと、窓辺に座っていた彼が立ち上がり、不器用に歩いて私から本を取り上げました。何か気になることでもあったのでしょうか。彼が辞書を放さないので、私は九冊分の代金を魔方陣で本屋に送りました。
彼は辞書を開き、伝えたいことを指差して私に見せます。人魚はグランディア語が分かるのでしょうか。服、空、それから白。何処という意味の単語を示した時、彼は深海色の瞳からぽろぽろと涙を流しました。単語からは泣いている理由が掴めず、私にはどうすることもできません。髪を撫でて慰めようとしましたが、彼は私の手を払いました。
強い拒絶でした。彼が気を失っていた時以外は、私は彼に触れていません。意識がある状態で私に触れられることに嫌悪を感じたのだと思います。怯えなくてもいいよと表情と身振りで伝えようとしましたが、彼はさらに部屋の隅へ逃げていってしまいました。まるで拾った野良猫のようです。食事の時だけは近くにいても、食べ終わればすぐに私から離れようとします。自分で自分の身体を抱きしめて、こちらを見て震えているのです。私を警戒していても、他に行くところがないと分かっているので、大人しく研究室にいました。他に島民がいないこの地では鍵をかける必要はありませんから、私は研究室の出入口に鍵はかけません。彼は逃げようとすればいつでも逃げられたはずです。
可能な限り手厚くもてなしたつもりでしたが、人魚は私を憎んでいたかもしれません。波に打ち上げられていたとはいえ、彼を海の傍から連れ去ってしまったのですから。あの脚では、研究所から急な坂道を下って海辺へ出るのは難しいでしょう。彼が海を恋しく思い、毎日外を眺めていたのも当然だったと思います。