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優しい天使の殺し方

作者: マグロ頭

 夕焼け色に染まる空に、紺と紅の鮮やかなグラデーションを有した雲が数個浮かんでいる。ある雲は大きく分厚く、少し灰色がかりながら空に浮かび、またある雲は今にも消えてしまいそうなほどに、端からほどけ、空へと溶け始めていた

 そんな雲を、僕はひとり廊下の窓から見上げている。聞こえてくる運動部の掛け声と、響く吹奏楽の音色。開いた窓からは時折強く風が吹き込んでくるというのに、見上げた雲はまるで時の流れに忘れられた彫刻のように、いつまでも変わらず、ずっしりとそこに漂っていた。

 一体、どれくらい雲を見つめていたのだろう。僕は急に屋上に行きたくなった。別に雲を見るのが目的なわけじゃない。際立って理由はないのだけれど、とにかく屋上に行かないといけない気がしたのだ。

 もしかしたらそれは淡く響くグラウンドからの掛け声や楽器の音色のせいなのかもしれない。または、ひっそりと、声は廊下にはこぼれてこないけれど確かにどこかの教室には存在しているのであろう人たちの存在感のせいなのかもしれない。あるいは、ひしひしと込み上げる哀愁が孤独を誘い、僕を急き立てているのかもしれない。

 原因はよく分からない。でも、とにかく僕は屋上に行きたくなった。行かねばならなかった。

 僕は側に置いておいたショルダーバックを肩に掛け、その場を後にする。足取りは次第に早くなりながら、僕は屋上を目指す。一階の廊下から四階分の階段を掛け上がり目指した扉を前にした時、僕の息は少し上がっていた。

 そのままの勢いでドアノブを掴む。同時に、なぜか心臓が強く脈打った。僕はそのまま、動きを止めてしまう。どうしたんだろう。何が起きたんだろう。左手を胸に当てながら、頭の中はぐるぐるし始める。

 僕はドアノブから手を離した。そしてひとつ深呼吸をする。微量ながらも夜の空気を含み始めていた空気は少しひんやりとしていて、熱を持った僕の気持ちを落ち着かせてくれたみたいだった。

 心の中で頷いて、僕は再びドアノブに手を掛ける。

 重いスチールの扉は、ぎいぎいと耳障りな音を立てながら開いた。冷たい空気が吹き込んで、僕の隣を通り抜けていく。僕は背の高いフェンスに囲まれた、茜色が降り注ぐコンクリートの地面へと踏み出した。

 屋上には何もなく、また誰もいなかった。フェンスの向こうには、少し疲れたような街並みが続いている。少し歩いて空を見上げた。雲は変わらずそこにある。僕はそれを確認する。空は少し深みを増したようだった。

 突然風が吹いた。身体を揺さぶるような、強烈な突風だ。僕は思わず目を閉じる。暗闇の中で、背後の扉が盛大な音を立てて閉まったのを聞いた。その音の大きさにかなり驚いてしまう。風は吹き始めと同じく、また唐突に治まり、僕はゆっくりと目を開けた。屋上に僕以外の人物が現れていた。

 彼女が立っているのはフェンスの向こう側。記憶では、そこは五十センチメートルあるかないかぐらいの、狭く、とても危険な場所だった。限りなく死に近い場所に彼女は立っていた。僕のことを見つめながら立っていた。

「ねえ、天使の殺し方って知ってる?」

 彼女は、そう穏やかな風になびく長い髪の毛を左手で押さえながら僕に尋ねてきた。およそ十メートル。彼女と僕は離れていて、その間には風のざわめきや響く地鳴りのような掛け声、校舎から溢れ出した音色が漂っていたのに、その声は僕の耳へと届いた。ぞっとするほど無垢な声色だった。

 彼女は誰だろう。その疑問は泡のように浮かび上がり、しかしすぐに霧のように消えてしまった。 僕の頭は、彼女が尋ねた言葉の意味を考え始めてしまったのだ。けれど、全くその意味するところが分からない。しつこく考えながら彼女と見つめあい、急に彼女の現状を思い出した。物凄く危ない。目の前の危機的状況を何とかしようと、僕は本能的に長い十メートルの道のりへ一歩踏み出した。

「来ちゃダメ」

 近づこうとする僕を、彼女は子供をあやすように停止させる。たった一言なのだけれど、僕はその言葉の続きを考えて彼女の言葉に従わざるを得なくなる。仕方なく、踏み出した右足を僕は元に戻す。僕の行動がおかしいかったのか、彼女はクスクスと愉しそうに笑った。

「ねえ、危ないからさ、こっち来なよ」

 僕は彼女を説得してみることにした。近づいて彼女を捕まえることが出来ない以上、それしか僕には打つ手がない。僕と彼女はしばしの間黙っていた。その間、僕は自らの行動を省みて、その無計画さに腹が立ちそうになった。仮に近づいたとしても、僕と彼女の間にはフェンスがたちはだかっているのだ。全く、どうやって彼女を捕まえようと思っていたのだろう。自分で自分に嫌になる。ただ近づくだけじゃ、何の意味もないじゃないか。

 僕の中でめきめきと後悔と自己嫌悪、焦りと怒りにも似た感情が膨らみ始めた。彼女はまたクスクス笑っている。

「どうしてそんな場所にいるのさ。落っこちちゃうかもしれないじゃないか。危ないよ」

 そう、僕はもう一度話しかけた。どうしてなんて、そんなこと聞くまでもないのだろうけれど、僕は何となく聞いてしまっていた。彼女が綺麗だからなのかもしれない。フェンスの向こうで笑顔を湛える彼女は、隣り合わせのはずの暗い死とはまるで結びつかない、穏やかな天使のようだと僕は思った。

 馬鹿馬鹿しい。ため息が出てしまう。僕は目を閉じ、俯いて、目頭を押さえた。自殺しそうな子を見て綺麗だなんて、いよいよ僕はおかしくなってしまったのかもしれない。加えて彼女は危ないのにへらへら笑っている変な奴じゃないか。膨らむ感情はぐるぐる回る。

「ねえ、どうして私を心配してくれるのかしら?」

 俯いた僕に、彼女はそう話しかけてきた。僕は目を開け、彼女の方を向き、思いのままに言葉を発した。

「そんなの当たり前じゃないか。誰かが死んでしまうかもしれない。それも目の前で。止めようと思うのが自然だろ。僕は君に死んでほしくない。誰だって関係ない。仮に君がそんな気を持っていないんだとしても、そこにいたら同じなんだよ。頼むよ。僕のためにこっちに来てくれ」

 彼女は叫ぶように語り掛けた僕に少し驚いたようだった。そして少し間を取ってから穏やかに微笑んで一言呟いた。

「随分勝手なのね」

「君の命が救われるのなら」

 僕は反射的に言葉を返していた。そうして屋上には再び沈黙が訪れる。

 彼女は右手でフェンスを掴みながら俯いている。僕との距離はまだ十メートル。グラウンドから聞こえてくる掛け声は、いつの間にか変わっていた。バラバラだった校舎からの音色も、ひとつの音楽としてまとまっている。遠く彼女の奥に広がる空に、一番星が輝いていた。

 僕は意を決して一歩踏み出す。彼女は何も言わない。二歩目。まだ大丈夫。三歩、四歩、五歩。彼女は俯いたままだ。少し勢いをつけて六歩目を踏み出そうとした時、彼女が顔を上げた。その何も見えていないような虚無の表情に、次の一歩は竦んでしまった。

「ねえ、あなたは生きることがいいことだと思う?」

 感情を表さない能面。そんなものがあるかどうかは知らないけれど、僕は目の前に現れた能面に、そしてその口が発した問い掛けに少なからずの恐怖を覚えた。どうしてなのどろう。よく、分からない。僕には分からないことがたくさんある。でも分からないからこそ、恐怖を感じるからこそ、僕はその問い掛けにについて考える。あと五メートル。もう少しだったのに。そう片隅で後悔しながら。

 僕は考える。同時に感じながら、形を表し始めた僕の思いから、ようやく少しを切り取って言葉にする。

「僕はそう思う。生きていることが全てだ。死んでしまったら何も出来ないから」

 本当は、もっと大きな答えなのだと思う。でも、悔しいけれど、今の僕にはその全てを口に出して伝えることは出来ない。いろいろなことが決定的に足りないのだ。のっぺりとした表情のまま考え込む彼女を、下唇を噛みながら見つめるしなかない。拙い言葉の数々が、急に歯がゆく感じた。彼女は寝言のような不安定さで、また口を開いた。

「ねえ、それは本当?」

「少なくとも間違いではないと思う」

 僕は正直に思ったことを答えた。彼女はまた俯いて、何やら考え始めてしまったようだった。

 弱い風が吹く。

首筋をじっくりと撫でていく。身震いがした。思った以上に冷え込んできたようだった。見上げれば、もう随分夜が深くなってきている。このままでは二人とも風邪を引いてしまうかもしれない。僕はもう一度彼女に話しかけてみようと、言葉を探し始めた。彼女をこちら側に戻す一番いい言葉は何だろう。考え始めた時だった。彼女の唇から笑い声が漏れ出した。

「どうしたの」

 尋ねてみる。一体何がおかしいのか。

 彼女は顔を上げた。初めて目にした時と同じ、その場所に立っている人物としては歪な、ねっとりと絡みつく笑みを浮かべていた。その唇がそっと動き出す。

「私ね、優しい人は嫌いじゃないの。どちらかと言うと好きだと思う。私のことを考えて、説得してくれるあなたはとっても優しい。いい人だと思う。私はそんなあなたが結構好きなのかもしれない」

 そこで彼女は呼吸を整えるかのように言葉を区切った。

「でもね、私は嘘を吐く人が大嫌いなの。間違ったことを聞くと虫唾走るの。あなたはさっき生きることはいいことだと言った。死んでしまっては何も出来なくなるから、生きていることが全てだと。でも、それは本当? そう私は聞いたわよね。そしたらあなたは間違いではないと思うと答えた。確かにそうかもしれない。でも、正解でもないでしょう」

 僕の中で得体の知れない不安が膨れ上がり始めていた。これはいけない。もうどうしようも出来ない。賽は投げられてしまったのだ。そう、どこかで警報が鳴り響いている。渇いて粘つく口を開いて、僕は何とかして反論を試みた。

「君の言っていることは詭弁だ。重箱の隅を突くようなことだよ。言葉の不安定さをまるで無視してしまってるじゃないか」

「それはあなたと私で言葉に対する不安定さの取り方が違うからよ。そしてそれはどうしようもないことなの。理解し合うことは並大抵のことではないわ。だって私たちは言葉でしかお互いに理解し合えないんだから」

 そう言って彼女はずっとフェンスを掴んでいた右手を解いた。そして狭い足場で方向転換し、半歩前へと踏み出した。

「待って!」

 僕は声を張り上げ、一気にフェンスに掴みかかる。

(死なせちゃいけない……!)

「早まるな! 君に何があったのかは知らない。確かに言葉でしか僕たちは理解し合えない。それは事実だろう。いったん現れた表現を、みんながみんな正確に共有し合うことは不可能だと思う。でも、だから伝え合うんじゃないか。だから話し合って、言葉を並べて――」

「それでも伝わらないこともある」

 そうはっきりと言って彼女は振り返った。初めて目にする、彼女の本当の表情だと思った。痛みを堪えるように歪んだ眉に、困ったような瞳。それでも彼女は綺麗に笑っていた。

「伝えることが出来るのは決まった期間だけ。それを逃したら、もう二度と言葉は意味を持たないんだよ」 僕は何も言えなくなってしまった。彼女の底に横たわる暗闇が、想像以上に深くて、もうあとには戻ることが出来ないものだと分かってしまったのだ。

 でも、僕の中には大きな渦が巻いていた。例えどれほど遅くなったとしても、時期を逃してしまったとしても、叫んででも伝えたい気持ちはあるはずだからだ。だから、例えどんなことがあっても、どんな理由があっても言葉で伝えなくちゃならない。傷を残し、生んでいくのは悲しすぎることなのだ。だから、絶対、絶対に――

「死んじゃ――」

「バイバイ」

 風が吹く。僕しかいない屋上。頭上に広がる、満天の星空。

お読みいただきありがとうございました。作中に現れる彼女ですが、多分人じゃないです。亡霊だと思っていただければいいかなと思います。収集がつきませんでした……

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― 新着の感想 ―
[一言] 短編映画のような雰囲気に好感が持てました。 文章の表現も巧く、僕では思いつかない単語なんかを使っていたりして、すごいなあ、とも(笑 特に屋上の扉を開けるシーンは素敵でした。映像がはっきりと想…
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