九份の歴史
その昔、九份は台湾の一寒村に過ぎなかったが、19世紀末に金の採掘が開始されたことに伴い徐々に町が発展し、日本統治時代に藤田組によりその最盛期を迎えた。九份の街並みは日本統治時代の面影を色濃くとどめており、当時の酒家(料理店)などの建物が多数残されている。しかし第二次世界大戦後に金の採掘量が減り、1971年に金鉱が閉山されてから町は急速に衰退し、一時人々から忘れ去られた存在となっていた。
1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画「悲情城市(A City of Sadness)」(侯孝賢監督)のロケ地となったことで九份は再び脚光を浴びるようになる。映画を通じノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多数の人々が九份を訪れ、また他のメディアにも取り上げられるなど、台湾では90年代初頭に一時九份ブームが起こった。
宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』のモデルになったという噂もあり、日本の観光客への知名度が高まったが、ジブリ・宮崎により公式に否定されている。
(ウィキペディア)
山肌に沿って細い路地や階段が続き、道沿いにはお茶や食事の店、お土産物屋さんなどが並ぶ人気観光地、九份。時間が止まったような、郷愁を誘うムードが漂い、台湾映画の舞台にもなりました。日本でもすっかりおなじみの必見スポットですが、その発展の歴史は、意外に知られていないかもしれません。
一説によると、清朝初期の頃、九份に住んでいる人は9世帯しかなく、物を買うときにいつも「9つ分」と言っていた、というのが地名の由来とか。そんな静かな田舎町が、お店や労働者で賑わうようになった契機は、19世紀末、金鉱の採掘がはじまったこと。特に、日本統治時代には町が大きく発展し、当時の姿で現在まで残っている建物も少なくありません。今回は、そんな九份の歴史をたどるのにおすすめの場所をご紹介します。
かつてはたくさんあった金鉱の入り口の1つ。1927年に完成し、九份で5番目の金鉱入口なので「五番坑」と呼ばれました。アクセスは、豎崎路から軽便路を西に向かい、10分ほどまっすぐ進むと公園の中にひっそりと残る五番坑の入り口が見えてきます。舊道口バス停からすぐです。
ゴールドラッシュの時代、このあたりには、いくつもの金採掘のための坑道がありましたが、現存するのは「五番坑」だけ。かつては黄金を運びだしていたという入り口には柵があり、中へ入ることはできませんが、内部の様子をうかがうことはできます。
五番坑公園は、九份の街よりも山をさらに上へ登った高台に位置するため、ここからは山の斜面に沿って発展した九份の街全体がよく見えます。晴れた日には、山の緑の先に東シナ海も見渡すことができます。九份の賑やかな市街地からは、登り坂を歩くことになりますが、町の雑踏からしばし離れ、深呼吸できる絶景ポイントとしておすすめです。
九份からさらに山の奥へ、車で10分ほど進んだところが金瓜石鉱山で、現在はその跡地に「金鉱博物館」があります。入場は無料ですが、人気の2つの体験型アトラクションのみ、それぞれ有料となります。館長の曾水池さんは日本語が堪能で、実は親子3代にわたり、金鉱の発掘作業に従事なさった方。その間にコレクションしたという珍しい形の石や、金銀銅、水晶などを含んだ石も見ることができます。
ここを訪れる人々に一番人気なのは、砂金採り体験(100NTドル)。お皿一杯の泥を受け取ったら、これを静かに水で洗いながら、小石などを取り除き、最後はキラキラとした砂金が混じった泥だけを残すというもの。自分で洗った砂金は、小瓶に入れて持ち帰ることができます。「黄金館」の3階で挑戦できます。
また、本山五坑では、かつての坑道の一部が展示スペースになっており、実際に内部を歩いて見学が可能(50NTドル)。ヘルメットを被って、暗い坑道の中へ入ると、夏でもひんやり涼しい空気に驚きます。足元に視線を落とすと、かつて金塊を運んだトロッコの線路が残っています。金鉱掘りの作業風景や、出口で金を隠し持っていないか、ボディチェックする場面なども、リアルな人形を使って再現。岩や鉱石を粉砕するときに使用した発破の音なども聞こえて、当時の雰囲気がよくわかります。
博物館の敷地内には、ほかにも様々な建物や展示があります。従業員の宿舎や日本庭園などが大切に保存されていて、我々日本人にとっては特に興味深いです。台湾でこんな風に生活していた同胞がいたのだなあ、と感慨に浸ったり、日本と台湾の関係について考えてみたり。今まで知らなかった台湾の歴史に出会うきっかけになるでしょう。
(ガイドブック)