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人は皆、生きているだけで人を傷付ける。
それならば、せめて心の底から押し上げてくる
燃えさかる炎にも似た 恋慕の情をもって、
そして 生きていくとしよう。
それが、慰めにもなるのだ。
その本の巻末には、そう書かれていました。その本の題は―失恋物語―
街のざわめき。アーケードにめんした たいして大きくない本屋で、一人の少女が本を読んでいた。黒く長い真っ直ぐな髪、背はそれほど高くなく、少し猫背な少女。彼女はもうすぐ、立ち読みを始めてから三時間になる。いくら休日とはいえ、少々長すぎる。彼女が、普段から本好きな少女であるといっても、こんなに長くいるのは異例のことだ。
店員が一人寄ってきた。中肉中背、髪を少し長めにしている男の店員だ。眼鏡を掛けているが、とりたてて知的なわけでもない、普通の青年。
「はいはいそこ、立ち読みは止めて下さいね~」
「・・・読み終わる頃まで止めない店員って、変なの」
そう言って、少女は青年の方を見やる。
青年は、苦笑いして答えた
「だってさ~,お前、何か沈痛な面持ちってやつ?だったし」
彼女は、その暗い表情を少し和らげ、本を戻しながら言った。
「だったら慰めよう!とか思わない?」
「はぁ~?俺が?綾香を?」
「元彼でしょー」
「だから手ぇ出せないんだろ?」
「裕也って、そうゆうやつだったっけ~?」
少女の名は、高原綾香。青年の名は樋口裕也。二人は、二年前まで彼女彼氏の関係だった。
「ん?・・ヤベッ 奥から店長の声が聞こえる」
「え?じゃ、早く戻らなきゃ・・・っていうか、ありがとね」
「はぁ?何が?」
「立ち読みっ」
そういうと、彼女は小走りで本屋を出て行った。
「・・・変な笑顔残して行っちまいやがった・・は~い!今行きますって!!」
綾香は、本屋から真っ直ぐ家へ帰った。夕陽が、世界に紅い雫を落とす。まぶしいぐらいだった光のすじは少しずつ柔らかく薄らいでいく。
「ふぅ・・・疲れちゃったな」
玄関を開ける。家の中は夕飯のにおいがした。靴を脱ぎ、そろえようと下を見ると、彼女の父の作業靴が置いてある。
「ただいま~」
そう言うと、気付いた彼女の母が、台所から出て来た。
「おかえり、今までどこ行ってたの?」
「うるっさいな~、関係ないじゃん。・・それよりお父さんは?」
「散歩。あの人もね、仕事行ったってお金なんてもらえもしないのに、毎日ちゃんと行って・・馬鹿みたい あんな工場さっさと辞めちゃえばいいのに」
「あっそ、いないならいいや」
彼女は、彼女の父のことがとても好きだった。しかし、彼女の母のことは嫌いだった。・・いつも、うるさく言ってくるし、時々、信じられないようなことをする。そして何より、妹をひいきしている気がする。
その母が、お父さんに悪口を言うのを聞くのは、はっきり行って不快だった。このところ毎日、母のお父さんに対する悪口を聞いている気がする。
「綾香!ちょっとあんた、今、うちがどうゆう状態か知ってるんでしょ!」
綾香は、露骨に嫌な顔をして言った。
「うるっさいな!二階行ってるよ!言っとくけど、絶対部屋まで来ないでね!!」
彼女は、語気を荒げてそう言うと、走って二階へあがって行った。
「ちょっと!話は終わってないわよ!綾香!勉強だってちゃんとしてるの?・・まったく。だいたい・・綾香!!ちゃんと聞いてるの!?綾香!!」
話を区切るように、綾香は勢いよくドアを閉めた。
「まったく、言うこと聞かない子になっちゃって・・・中学のときに佑也くんと付き合ってからかしらね・・最近も、また他の子と付き合ってるみたいだし・・」
「ただいま~!」
再び玄関のドアが開く、と、同時に元気な声を出したのは、綾香の妹の裕香だった。活発そうなショートカットで背は小さめ。肩にテニスのラケットを掛けている。
「あっ、裕香」
「お母さんただいま~」
「ねぇ裕香、綾香のことなんだけど・・・」
裕香は、またか、という顔をした。姉が新しい彼氏をつくったのが、なぜそんなに不満なのかがわからない。前の彼氏のときも、そうだった気がする。
「またお姉ちゃん?放っておきなよ、それよりおなか減った~」
「はいはい、ちょっと待っててね」
子供部屋にしては広く、八畳ある。しかし、日当たりはいいほうではなく、ちょうど、後ろの竹林に面した側にその部屋はある。部屋の中は、必要最低限、といった感じで、そこに、女の子らしい、ぬい ぐるみやかわいらしい小物が置いてある。ただし、二階の電話は この部屋にあった。
そんな自分の部屋で、机にふせたまま、綾香は何の気なしに自分の髪を、弄んでいた。
「はぁ~あ、携帯ほしいなぁ、いまどき、持ってないのって、きっと私だけだよねー」
そうやって一人ごちる。ため息にも似たその言葉に続くように、電話の音がなった。3コールぐらいで、下にいる母が取った様だった。
なんとなく耳を立ててしまう。
「・・・樋口さん・・・どちらの樋口さんでしょう?・・・あぁ、裕也君。久しぶり。綾香だったらいないわよ」
「っ!またあ~やって!」
綾香の母は、昔もよくこうやって二人の邪魔をしていた。電話が来ても、勝手に切り、しかも、電話が来たことを言いもしないのだ。昔、二人が付き合っていた頃、初めてこれをやられたときは、二人し て誤解しあって、ケンカの原因になった事もある。しかし、普通、別れた後まで続ける親がいるだろうか。最低だ。と、綾香は思う。
綾香は、そぉ~っと、受話器をとった。その時、かすかに電話中の回線に違和感が起きる。声が他のところにもれているような、声が遠くなるようなそんな感じ。
その感覚には、覚えがあった。
「あっ……」
「なぁに?」
「い、いえ、わかりました。それじゃ、失礼します。」
「はいはい、ごめんねぇ」
ガチャ、という電話をぞんざいに切る音が聞こえる。それでも電話は切れなかった。
しばしの沈黙。
「……裕也?」
「うん……大…丈夫かな?」
『はぁっ…』
二人とも、押し殺していた息を出す。
「よく気付いたね~?」
「まぁ、慣れですよ。…しっかし、高原加奈子さん、未だにあ~いうことするかね、フツー」
高原加奈子とは、綾香・裕香の母のことである。
「まぁ…ねぇ…お母さんにはTシャツとかががばがばになってたのとか、バレてたしねぇ…」
「マジで!?…そりゃ~怒るかなー、やっぱ」
「…で、何か…用、だったの?」
「ん?…あ~っと…別に」
「今日…ありがとね」
「何が?」
「電話とか、あと本屋で話しかけてくれたり」
「べっつに、本屋じゃ、ただ追い出しただけじゃん」
「フラれて、あんな本読んで…そのまま帰ったりしたら、最悪だよ?だから…」
「…フラれたんだ」
「うん…昔の君と同じだね」
「うわっ、ふった本人がそーいうこと言うか!?フツー」
「……ごめん」
「あやまるなって、オレ、変になってたし、あの頃…しょーがねーよ、いや、強がりとかじゃなくて」
「私、あの時の裕也の気持ち分かっちゃった」
「…惚れたんだね…本気で」
「うん…段々と…ね」
「大丈夫?」
「優しいね、こんな時ばっかり」
「……いつでもっ…」
「なあに?」
「いや…」
「そう?」
「あぁ。それより、そろそろヤバくないか?」
「あっ。うん、そうだね」
「それじゃ綾香。…また…かな」
「うん」
電話をそっと置く。と同時に一筋の涙が綾香の瞳から落ちた。表情も変わらないまま。ただ一筋す・・・っと。
「…あれっ…あれ…涙?…何…っでっ…今頃でちゃっ…」
綾香は、そのまま、崩れるように座った。すると、何の前触れもなく、妹が部屋に入ってきた。
「お姉ちゃん、ごは…ごめんっ」
裕香は、姉の姿を見て、急いでドアを閉めると、一階に駆け下りていった。そして、わざと二階に聞こえるように大きな声で言った。
お姉ちゃん、今、勉強始めちゃったから、ご飯、後でいいってー
朝。昨日の夕焼けを反映したか、白い輝きを持って、少し冷たい清い空気の中を、少しずつ南に向かっていく。
今日の鳥達はいつもより優しく鳴いている気がする・・・と、綾香は思った。
そろそろ7時だ。
「綾香ー裕香ー起きなー!」
一階から、いつもと同じ母の声が聞こえる。
「は~い」
隣の部屋から、無理に大きな声を出したような裕香の声が聞こえた。
答えるのもおっくうだった。しかし答えないと起こしに来られる。それはもっとおっくうだった。
「…は~い」
しかし、答えてはみたものの、綾香は、全く起きる気が無かった。
(・・・枕びっしょり・・・別に夢とか見てないケドな・・・目とか痛いし、何か頭も痛いし・・・)
「う~カガミ…」
綾香が蒲団から少し起き上がり、鏡をとろうとする。
トントンッ。
「お姉ちゃん?入るよ?」
「え!?だめ!今!」
綾香は、あわてて蒲団にもぐった。…泣き顔なんか見られて、気持ちのいいものではない
「お姉ちゃん・・・夜中、泣いてたね。夕方からずっと?・・・大丈夫?今日は、学校休んだ方がいいよ・・・フラれた・・・かな?」
「あはは・・・わかっちゃう・・・かな?」
「うん・・・何となく・・・おねえちゃん、そのまま寝てなよ。お母さんには、私から言っとく」
それだけ言うと、裕香は部屋を出て行った。まもなく、母が部屋までやってきた。
「ちょっと綾香、入るわよ。綾香、あんた風邪ひいたって?」
「・・・゛うん」
綾香は、わざとガラガラ声をしていった。
「あら、ノドやられたの?熱は?って、ちょっとあんた、目ぇ真っ赤じゃないの」
「夜中、ムセちゃった…」
「とにかく、顔あらってきな」
そういうと、手近にあった引き出しからタオルを取り出した。
「そうだ、とりあえず・・・うん、熱はないね。朝ごはんは?食べられる?」
「・・・いい・・・」
「少しくらいは食べなさいね。おかゆ作っていくから」
そう言ってあわただしく、母は部屋を出て行った。
(仮病・・・上手くなっちゃった・・・こういうのも、昔とったキネヅカって云うのかなあ・・・)
母の出したタオルを持って、立ち上がる。
「顔・・・洗お・・・」




