お願い事は花束を添えて
生まれてから6年きっかりたったある日のこと。私は寒い寒い道の真ん中で、ぼろぼろと涙を零していた。
*
父が死んだ。それを聞いた母の意識は遥か彼方へ、葬式が終わると当の本人もどこかへ行ってしまって2日も帰って来ない。そんな最低最悪の状況の中、やってきた私の誕生日。まだ5歳だった私は、神様に誕生日を少しだけ遅らせてくれるようお祈りしたが、叶えてくれなかったのを今になっても覚えている。
私は父が死んだことを理解していた。それでも不思議と涙は出なくて、感情を無くした母の背をずっと撫でていた――それを見た周りが強い子ねって父の死を嘆きながらも褒めてくれたのは、幼いながらに誇らしかった。
私の誕生日には父がいっぱいのお花と笑顔を一緒に抱えて帰ってきて、母がそれを嬉しそうにアレンジして渡してくれる。父が死に、母が消え、誕生日があと少しで終わる頃になっても、幼馴染のサラが寝ている横でずっと、ずうっと、やってくる筈の父親を待っていた。
その習慣だけは絶対に叶えられるものだと、信じて疑わなかったのだ。だってそうじゃなきゃ
ともかく、幼馴染の家にいた私はふと、お花を探すのに時間がかかっている父を探しに行こうと思った。そしたら母も帰ってきてくれるって、心の底から信じてサラの家族を起こさないようにこっそり部屋を出た。深夜の街を走り、道に迷って、父も母もいなくて、1人の心細さに大泣きをしても。それは単に怖くて泣いているからであって、父が死んだことによる悲しみではなかった。
そこまでは、はっきりと覚えている。
気づいたら5日後、傷だらけの姿でベッドに寝ていた私は大泣きしている母親に抱きしめられていた。
なんということだろう。寝ている間に誕生日が終わってしまったいたのだ。当時の私はそれももう、焦った。
ごめんね、ごめんね、とそんな能天気な私に気づかず謝り続ける母。私よりもうんと年上の母親が泣いているのが変で、私は首を傾げた。かさぶたになりかけていた頬の肉が引きつって、ちょっと痛い。
なんで家から出たの?って母親に覗き込まれながら聞かれたから『お父さんを迎えに行こうと思って』と正直に言えば、横に立っていたサラが――
ベチン!
私の頭を思い切りたたいたのだ。一瞬、夜にしか見えないお星さまが頭の中で見えた気がした。「こら!」とか「サラ!」とかサラの父親と母親が止める声もなんのその、サラはもう一度私の頭を殴った。
バシン!
「痛い!やめて!」
流石に痛くて声を出してサラを見上げたら、大人っぽいサラが、ボタボタと涙を流しながら手をグーにして天井に向かって突き上げていた。もう一回ぶとうとしていると思って、私は頭を抱えて身を小さくした。母親も私を庇うようにギュッと抱きしめた。
何故か3発目はやって来ない――
そお、と隙間から見たサラは、サラの父親に押さえつけられていた。
お母さんの腕と自分の腕の間、本当に小さな隙間から見たのに、サラは私が見ていることに気付いたのか目をキッ!ときつくして私を睨んだ。怒られ慣れている私の肩は、条件反射のようにビクリと反応した。
「あんた馬鹿よ、あんたのお父さんはもう死んだの!」
「知ってるよ…でも、いっつもお誕生日にはお花をもって…」
「だから!死んだらもう来ないの!あんたの誕生日でも絶対に!」
「でも、サラのお母さんも皆も…遠くにいっちゃって帰ってこないだけって」
「大人はウソつきなの!あんたのお父さんはこの世にいないのよ!この間いっしょに死んだミケのお墓作ったでしょ?!あのミケが土から這い出てくるとでも思ってるの?そんなわけないでしょ馬鹿なの!?あんた私に『分かった』って言ったじゃない!」
「でも、私、誕生日…」
「関係ない!あんたは生きてる限りお父さんとは一生会えないの!」
一生、会えない?
お花も、もう、貰えないの?
サラの一言に雷を受けた衝撃を負った私は痛みなんて忘れて母の腕から抜け出し、サラの首元を掴んだ。
なんで酷いこと言うの!?
嘘だよ、だってお父さん
お父さんお花持ってきてくれるもん!
ぶんぶんとサラの服を掴んで、揺すった、癇癪持ちの子供のように駄々をこねても年も2つ上で頭のいい、当時から容赦のないサラが全て論破してしまった。
だって事実だもん
あんたの父さんは死んだ!
持ってこない!来たら怖い!
だらんと腕を下ろして地面を見つめた。サラの靴下が見える。
「お父さん――なんで死んじゃったの?」
「盗賊に殺されたら」
周りの大人がついぞ言わなかった父の死因を、サラは何の戸惑いもなく言った。サラだって子供で、父の死因は教えられていなかった。おそらく、サラはこっそりと大人の会話を聞いていたんだろう。
子供ってエグイ、端的に模範解答をしたサラに言い返せる人はその場にはいなかった。それが事実だからだ。
私はビービーとその場で泣きだした。お父さんはいない、帰って来ない、もう会えない、死んだ。父が死んだ。結局、私は死について頭が追い付いていなかった。大人のように甘くも、優しくもないサラの言葉は、夢すら見せてくれない。けれど、当時の私に現状を理解させるには、これ以上ないくらい適任だった。
大人が気まずそうに私とサラを見つめる中、サラは流石にいいすぎたと思ったのか苦い草を噛んだような表情をしたまま、しおしおになった花を一本――私に押し付けた。
ピタリと涙を止めた私は、その花をまじまじと見つめた。
見たことのない花だ。艶やかに咲き誇っていたであろうオレンジ色の花、水に活けていない花は、残念ながらくったりと体を曲げている。なんだかその花に見覚えがあるような気がした、見たことないのに、酷く矛盾しているけど。
「なにこれ?」
「あんたへの誕生日プレゼント、もちろんお父さんからじゃないけど」
「水がなくて、くたくたしてる」
「ごめん忘れてた。花は水にいけるものだったわね、あの人もそんなことを言ってたような…」
「あの人?」
「…なんでもない」
サラはその後、私と周りが何度問いただしても、差出人については一切教えてくれなかった。
それでも元気のない花は大事にしないといけないと思って、母が病気で死に、1人になった今も、元気のない花はその時の形のまま、分厚い本に挟まれている。
それが私の6つの誕生日、から――5日たった後の話だ。
本当に何も覚えていなかった。酷い怪我をした私が幼馴染の家の前に倒れていたのをサラが見つけたらしい。街中を幽霊のようにふらふらとしていた母は、しばらくはそっとしてあげよう、から、娘の一大事になにしとんじゃわれ!と考えが一転した幼馴染の母親に引っ叩かれて正気に戻った、らしい。全て幼馴染から聞いた話で真実かどうかは分からない。ただ寝ている私が口癖のように「天使といた」と言っていたというのは、なんとなく本当なんだろうと思った。
*
商店が立ち並ぶマーケットの中央、街で一番の賑わいをみせるこの場所はいつも通り騒々しい。道路は人で溢れかえり、買い物客はすれ違うことも困難な道を早足に行き交う。ぐるりと大きな円になっているマーケットはそこら中から客寄せの声が響き、または匂いにつられるように客は足を止める。活気がいい、人が多いここは残念なことに盗みをする立場にとってはいい餌にしかならない。そうなると必然的にスリが多くなるため、巡回する騎士は常に目を光らせていた。
そんな時、巡回する1人の騎士の胸元に突然花束が表れた。
魔法のように現れた花束を、白服の貴公子は片手で受け取った。落ちそうになったために思わず手が出た、というのが正しいのかもしれない。
頬を真っ赤に染めた女はそんなことも気づかず。淑女らしくない大声を張り上げ、花束と共に勢いよく腰を90度に曲げた。
「好きです!!」
それを人はなんと呼ぶかと問いかければ、10人中9人がそれは恋だと答えるだろう。
びーびーと赤子のように泣いていた少女は、いつのまにか恋をするようになった。
つまりは、これはそういう話だ。
「ああエイミか。相変わらずいい匂いだね、色合いも僕好みだ」
花束を押し付けた人物が分かると白服の貴公子、もとい騎士であるレオンは胸いっぱいに花の匂いを吸い込み、そして言葉の通りに微笑んだ。
それを見たエイミは空いた手を祈るように組み、レオンを見上げた。
神様、こんな綺麗な人を生み出してくれてありがとう――と。エイミの頭は少しばかり、いや、ことレオンに関してはやんわり言ってもお馬鹿さんだった。自分が花屋でよかったと思うのはいつだってこの瞬間だ。
尊い、レオンのあまりの神々しさに目尻から一筋の涙を零すエイミ。最早エイミにとってレオンは宗教に近かった。その様を見ていたレオンは顎に手を当て、くつくつとおかしそうに笑う。彼は寛大だった。その笑う姿を見ていた若い娘、あまつさえ男勝りのおばさんですら感嘆のため息をつく、響くのは肉屋の呼び声だけだ。エイミの背後からは肉と香辛料の混ざったなんとも食欲をそそる香りが漂ってくる。渡す場所を間違えていることは分かっていたが、一番レオンに会える可能性がある場所であるからしょうがない。
騎士であるレオンと同僚のオーヴァンが街の警備としてマーケットにやってくるのは週に一度、この人ごみの中で声をかけ、呼び止めるのは至難の業だ。しかし、騎士のオーヴァンは無類の肉好きらしく、必ずこの肉屋で立ち止まり、職務中にも関わらず1つか2つ、多ければ5つ程の肉を持ち帰りで購入する。それを待つレオンに花と一緒に告白するのが、エイミのお決まりだった。
お決まりの辺りで察して欲しい、この告白はまったく実っていない。でもめげない、エイミはポテンシャルだけは高い水準を維持していた。最初は軽々しくレオンに声をかけるエイミに、周りの街娘、はたまた令嬢からの非難や悪戯もあったが、3年たった辺りからはあまりに不毛で無様すぎると鼻で笑われるのみとなった。ああ無情――それがエイミには相応しい。
レオンはいつも通りエイミの手の掌に小銭を置いた。銀が一枚、花代より格段に多い値段だ。毎度のことながらエイミは眉を下げ、レオンを見上げた。
「お金なんていりません、欲しいのはあなたの愛です!好きなんです!」
「気持ちは嬉しいけれどごめん。でも花は気に入ったからいただくよ、いい仕事をしたら、それ相当の対価を貰うのは当たり前のこと、大人しく受け取りなさい」
「うう…はい」
掌に乗った小銭を握りしめると、いい子とばかりにレオン様は私の頭を優しく撫でた。
ああフェミニスト――もうどうにでもして!と叫びたくなる衝動を抑えるのにエイミは必死だ。
「それじゃあ巡回に戻るよ、エイミまたね」
「はい!お仕事頑張ってください!」
再び勢いよく頭を下げたエイミ、背中を向けたレオンはひらひらと答えるように手を振った。その仕草すら様になる貴公子ぶり、その上師団長、天は彼にいろいろなものを与えすぎている。
隣にいたオーヴァンは、エイミをその黒い瞳で一度だけチラリと見た後に背中を向けた。無表情で、何を考えているのかエイミには分からない。
「レオン様素敵、でも――」
ほう、とレオン様の余韻に浸って数秒。
じわじわと痛み始める胸。そう、残ったのは失恋の痛手だ――何十回とふられようがエイミはエイミなりに毎回真剣に告白している。胸をギュッと握りしめ後ろを振り返る、肉屋の看板娘、もとい幼馴染のサラはシラケた目で悟っていた。うわ、泣くわこの子――サラの嫌な予感はただの経験論だ。ぶわ、涙を溜めたエイミはタックルするようにサラに泣きついた。
「サラぁ!これ以上ないくらいふわっとフラれたわ!」
「見てた見てた、毎週毎週人の店の前でよくやるわねぇ――本当に邪魔なんだけど」
「そんなこと言わないで心友!」
「気持ち悪っ!さっさと離れて!」
べりべりと剥がされるように顔を外に抑えつけられる。肉屋の腕力に花屋が勝てる訳もなく、あうっと声を出すうちに地面に叩きつけられてしまった。押し切り一本!行事の声が高らかに響いたような気がした。滑り込むように口の中に入る砂がじゃりじゃりとエイミの口内を占拠している。眉をしかめてから上半身を腕で持ち上げ、サラを見上げた。
「酷いわ傷心した友達に!でもいいの、ところで既成事実についてサラはどう思う?」
寝こみでも襲えば可能性、もといワンチャンあるのではないかとエイミは考えていた。
ピキ
サラの周囲、もとい空気が凍ったのは流石にエイミも感じた、首を傾げたあたり理由は分かっていないが。
ニッコリと笑うサラ、美人が笑うと場が華やかになる。エイミもハテナを浮かべながらもなんとなく笑い返した。賛同してくれたのかな、なんて甘い考えでサラの返答を待っていたエイミ、この後の発言で慌てたようにサラに再び抱き着いた。
「騎士様!戻ってきてください!ここに痴女がいます!」
「待って!まだ実行してないから!まだ無実だから!」
引きはがそうとぶんぶんと上体を捻るサラ、に縋り付くエイミ。
レオンならしょうがないなで許してくれるだろうが、オーヴァンは問答無用にエイミを牢獄に送るだろう、そんなの嫌!エイミはサラの細い腰に必死でしがみついた。
街の住人はまたやってるよと笑いながらサラとエイミを見ていた。若い娘はフン、とばかりに2人を見下す。それがエイミの日常、サラの日常。
サラはそんな視線が本気で不本意そうだった。後でごめんねって謝ると、そうじゃないって余計怒られるから、世の中は矛盾に満ちているとエイミはやっぱり首を捻った。
*
「これで何回目?」
「・・・・」
バンッ!手で机を叩いたサラの目はすわっている。
「な ん か い め ?」
「ひゃく、67回目ですぅ…」
語尾にいくにつれ小さくなるエイミ。
はあ、とため息をついたサラは頬杖をついてエイミを見つめた。
「もうやめたら?脈無しだって分かり切っているでしょ?ていうか諦めろ」
「でも名前は覚えてもらったし、凄い進歩じゃない?――改めると本当に凄いわよね。赤ちゃんの名前考えないと…」
「しみじみと言わないで。その前向きすぎるのをどうにかしなさいよ」
姓名判断の本を取ろうと立ち上がりかけたエイミを制し、サラは空になったカップに紅茶を注いだ。
「粘着質によくやるわね、なんでそんなにあの人のことが好きなの?」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりにエイミは結局立ち上がった。
胸に手を当て、目を閉じる。そう――全てはここ、胸の内から始まった。
「レオン様への溢れんばかりの愛は、口に出さずにはいられないのよ。あのお優しい心に触れ、顔が私の理想そのものだったから好きになったの。恋した私はまずレオン様の巡回のタイミングを完璧に把握したわ、色と匂いの好みもね。そしてレオン様がこのマーケットに来る前日はその日の天気、気候に合わせた特製の花束を徹夜で仕上げるの。彼が、私の作った花束を嗅ぐ瞬間の高揚感といったら――」
紅茶に売れ残った花を一枚だけ落とす。茶色い液体にレオン様の目と同じ、水色の花がプカプカと浮かんでいる。まるで、詠美の愛に溺れるレオンのようではないか。
自然に上がるエイミの口角とは逆に、サラは口元を引きつらせた。
「たまらない――はぁ、一晩の過ちでもいいから手を出してくれないかしら」
「私だったらあんたには絶対手を出さない。触るな危険、取扱い注意」
「猛獣扱いしないで。でもとても懸命な判断だと思うよ、私は一度でも抱かれたらここぞとばかりに本妻ぶるからね」
グッ、と拳を握る。捕まえた獲物を逃がすなど愚の骨頂だと死んだばっちゃんが言ってた気がする。エイミが生まれる前に祖母は鬼籍に入っていたが。
「…人の弱点を突くのは兵法としては正しいわ。エイミ、あなたのそういう所は嫌いじゃないし、むしろ好きよ」
「私も、現実主義のサラが好きよ」
お互いにニヤリと笑いあった、ちなみにここはサラの部屋だ。多少奇声を発しても、おっとりしたサラのお母さんにあらあらって笑われるだけで済む。お母さんどころか両親もいないエイミには大変ありがたい存在だ。
「まぁそれも今日が最後なんだけどねえ」
「…なぜ?」
不思議そうに首を傾げるサラにエイミもあれ?と首を傾げた。
「私引っ越すの、来週の今日に」
「聞いてない」
ワントーン低くなったサラの声が部屋に落ちる、心なしか空気が冷たい。これはかなり怒っている。
エイミは敵意も悪気もないことを示すように両手を上げた。
「あのね、王がお隠れになってから街の景気がよくないでしょう?」
「そうね」
「景気が悪くなると一番最初に削られるのが嗜好品、まさに花屋のことね。いくら綺麗でもお腹は膨れないからって皆買わなくなっちゃったの、最近は家賃を払うのすら厳しくて…どうにかしたいと思って伝手を探したら曾祖父のいた村で若い男の嫁を探してるっていうから、丁度いいかなぁって思ったんだ。手紙を書いたらすぐにでも来いって返事をもらったから、来週には移動するつもり」
「なんでそういうことを言わないの!」
「言ったと思ってたの…」
「嘘をつきなさい、正直に言えっ!」
「ごめんなさい!別に大事じゃないと思って…」
「あんっ!っ…」
サラは言いかけた言葉を無理やり押しとどめるように口を閉じた。
気持ちを静めるようにふー、と長く息を吐いてからエイミを見つめた。
「あの人のことは――いいの?」
その問いかけだけには、しっかりと頷いた。
「うん、現実は見れる方だから。サラの言うとおり、ここまで脈がないならしょうがないよ。成就しないのは悔しいけど、精一杯告白したから。後悔はあるし未練もあるけど――諦められる」
花で腹が膨れないように、愛ではお金は手に入らない。しょうがないことだ。
「もう少し頑張れない?お金なら少し出すし、家に来ればいいじゃない」
「いらない、サラとは仲のいい幼馴染のままでいたいの」
大事なら、お金の貸し借りだけはするなと、父と母に口を酸っぱくして教えられた。
金の切れ目は縁の切れ目。たとえ少額であっても、人によってはその日を生きれるかどうかの金額なんだと父が言っていた。
「そう――」
ならいいわ、脱力したように椅子に座ったサラ。黙ったまま、冷めた紅茶をすすっている。
「っ!全然よくないよ!!」
仮にも幼馴染がいなくなるって言うのに、随分と冷たい反応だ。私は寂しい!と泣きながらサラに抱き着いた。『ウザい!』くらいは言われるかとドキドキしながら待っていれば。紅茶を飲み続けるサラ、抵抗する様子は見せない。ためしに、もう少し力をこめてもそのままだった。そう、と肩に頭を預けたら、サラの頭が上から降りてきて、こつんと頭がぶつかった。
ばかな子――そう言われている気がした。
じわじわと、少しどころじゃない涙が出てきた。ああ、もうここにはいられないんだって改めて感じてしまう。仕方のない事は諦めるしかない。それがエイミの人生論だった、サラもそれをよく分かってて、頭のいい子だからエイミを止めない。それでいいかと問いただし、ただただ別れを惜しんでくれた。
さよなら心友、さよならレオン様――
べそべそと泣く私の頭の上で、呪詛のようにぶつぶつと何かを呟くサラが酷く気にかかった。
*
送別会だー!と酒を片手に叫ぶサラのお父さんと肩を組み、ご夕飯までペロリと頂いた私は人気のなくなった表通りを歩いてた。どうせならうちの娘になればいいだろうと詰め寄るお父さんを断るのが大変だった、サラの家だって決して楽な訳じゃない。その上、サラは来年には本当にお姉ちゃんになる。エイミには気持ちだけで十分だった。
マーケットと夜の店が立ち並ぶ区間は違う地区にあるため、商店通りの夜は寂しい。
とはいっても治安はいい方だ。そのせいでここ近辺の家賃はすこぶる高いが、女である私でも安心してこの道を通れる。こんな時間にここを通るのは仕事帰りの人か、夜遊びに繰り出す人か、はたまた国から派遣される巡回のための騎士のみ、そう――
「やぁエイミ、肉屋の娘さんの家にでも寄ってきたのかい?」
まさにレオンだ。
「レオン様、こんばんは!」
慌てて頭を下げるエイミ。はいこんばんは、と優しい声が上から聞こえて顔を上げる。
いつものやり取りだ、オーヴァンは相変わらず隣で何も話さないし、そもそもエイミを見てもいない。
「いくら治安がいいといっても、こんな夜更けに1人は感心しないな」
「ごめんなさい、サラのお父さんが送ってくれるっていうのを断ったんです。ちょっと1人でしんみりしたくて」
おや、とレオンが眉を寄せた。
「しんみり?君には似合わない言葉な気がするけど。あ、ごめんね」
「私もそう思ったんですよ!わぁ奇遇ですね付きあ「わないかなぁ」
「…ですよねー」
ガクンと肩を落とした。しかし似合わないの言葉にはエイミも同意だった。しんみりしようと思って街を一周してみようと思ったが想像より夜風が寒くて、想像より自分が怖がりだったため、真っ直ぐ家に帰る決意をしていた頃にレオンに出会ったのだ。
「俺の業務もこれで終わりだし、家まで送っていくよ」
「え!?そんなごめいわっ・・・お願いします!」
こんなチャンスを潰すなど馬鹿のすることだと死んだばっちゃんが叫んだ気がした。最後にこんないい事があっても、神様も文句は言わないだろう。
「素直が一番だね。オーヴァン、君は先に帰ってくれ」
「…」
「オーヴァン?」
「問題は、その…」
「大丈夫だ、間違いなく彼女は家に送る」
眉をよせたオーヴァンに、レオンは力強く頷いた。
目を細くしてしばらくレオンを見つめた後、オーヴァンは半歩後ろに足をずらした。
「わかった――では、失礼しよう。君、ここは治安はいいとはいえど確実に安心という訳ではないので十分に気を付けるように。なにかあったら大声で叫びなさい」
「は、い…」
エイミが来た道をじっと見ていたオーヴァンは、レオンの声に弾かれたように視線をこちらに向け、エイミに少しだけ忠告すると踵を返していった。カツカツと靴が石に当たる音すら洗練されている。
エイミは見えなくなるまでオーヴァンの背中を追い。姿が小さくなる頃、ポツリと呟いた。
「…初めてオーヴァン様の声、聞きました」
「彼は照れ屋なんだ、好きな子がいるとまともに喋れないくらいでね。真面目でいい奴なんだけれど、よく誤解されるんだ」
「そうなんですか。サラがオーヴァン様は無愛想で苦手って言ってたので、今度訂正しておきます」
「それは是非お願いしたいな。あいつも喜ぶよ」
「あっ、こんなにオーヴァン様の話してますけど私の好きな人はレオン様なので!」
「うん、それは分かってるよ」
「じゃあ結婚っ!」
「しないなぁ」
「いけず過ぎますぅ!」
エイミの悲鳴に似た叫びにレオンは声を上げて笑った。笑うと細くなる目尻にエイミは釘づけになった。よだれが出そうになって慌てて口元を拭う。危ない危ない、涙はまだいいが流石に涎はよくないとエイミなりに線引きをしている。
「それじゃあ、いこっか」
「はい!」
エイミの住む家はレオン様と出会った場所からは比較的近く、歩いて10分程で着いてしまう。名残惜しくて遅めに歩を進めても、何も言わずにレオンは合わせた。見上げれば優しく微笑んでくれる。もう本当に好き!
「今日もサラとお茶会をしていたのかい?」
「はい!あと送別会を開いてもらいました!」
「お客でも来てたの?」
「いえ、私とサラの家族だけです」
少しだけレオンは顔をしかめた、理解しかねる。そう表情が語っている。
普段から貴公子の顔を外さないレオンにしては珍しいとエイミは目を見開いた。
よもや出会ってから3年たっても知らぬ表情があったとはと。
「それじゃあ誰の送別会なの?」
「私です」
「ん?」
「私の、送別会です」
「――何故?」
エイミは首を横に傾けた。何故、と聞かれても――そこまで考えて先程と同じ状況だと思った、サラに普段から注意されていたことだ。大事なことではないと勝手に決めつけて、重要なことを言わないのはエイミの悪い癖だと。
だとしたらこれは、きちんと言わなければならない事のようだ。
「私が、この街を離れるからです」
「な、ぜ?」
「結婚するんです」
何気ない一言に顔を白くさせるレオン。エイミはレオンの驚いた顔が不謹慎ながら嬉しくて、胸にポッと火がともるような感覚を覚えた。この美しい人の中に少しでも自分という存在がいたということが幸せで、胸に満足感が満ちる。
「きみが…かい?」
「はい!」
「だれと?」
「分からないです、しいて言えば――祖父が生前住んでいた村にいる若者の誰か、ですね。」
「それすら知らないのかい?そんな、ありえなっ」
「レオン様」
諭すようなエイミの声にレオンは肩を震わせた。
警戒心の強い生き物のように、エイミの次の行動をじっと伺っている。いつものように軽口を言える様子ではなかった、レオンの様子を見たくなくて頭を下げる。自分は臆病者なのだ、言いたいことはあるのに相手の反応が怖くて、つい地面を見つめてしまう。だからエイミはお辞儀が好きだった。
「今まで迷惑だけかけてすみませんでした。お花を受け取ってくれて、告白を受けてくれてありがとうございます。お恥ずかしい話ですけどお金が無くて、レオン様から頂いた銀貨がなければもっと早くここからいなくなってたと思います。だから本当は――レオン様は馬鹿だなぁ、って思ってました、自分で面倒なのをこの場所に引き留め続けていたんですから」
レオンから返事はない。あと少しだ、エイミは地面すら見たくないと目を瞑った。
「本当はお別れの言葉なんて言うことはないだろうと思ってました。たかだか街娘1人がこの街から消えるだけです。騎士様にとっては巡回を邪魔されることもなく、心穏やかに過ごせる日常が戻ってくるだけで、大したことはないだろうと――」
「そんなことある訳ないだろう!私は、君が花を持って私のところに来ることを心待ちにしていたんだ!くそっ!」
その言葉が聞けただけで、今までの私にも意味があったと思えた。
出尽くしたと思っていた涙がぱたり、と地面を湿らせる。
今後会うことがないなら何を言っても、どんな顔でもいいだろうと俯いていた顔を上げた。涙を止めることは出来ないけど笑うことくらいは出来る。穏やかに泣くエイミを見て、はっ、と衝動的にレオンは息を吸いこんだ。
「ほんとうに、本当に好きだったんです。あなたを好きでいられた私は、本当に幸せものでした」
「エイミ…」
家からはあと少しだ、ピタリと歩を止めたエイミ。
レオンも足を止めてエイミを見つめる。
「もうここで大丈夫です。では、おやすみなさい!」
「エイミ!?」
今迄の空気はなんのその、言い逃げがわりに叫んで走りだしたエイミは後ろを一切振り向かず家を目指す。
『あんたは空気をブチ壊すのが病的に上手い』かの幼馴染、サラが言った一言だ。
余談だがエイミは足が速い、それこそ成人男性と競争をしても余裕で勝つほどに。
生まれた時代が時代ならきっと、彼女はオリンピックにだって出られただろう。
レオンの後ろから引き留める声すら聞こえないとばかりに走り抜け、ついにはその声が聞こえなくなる頃には家の扉を景気よく閉めていた。
よたよたと荷造りのされた荷物を避けながらベットまで歩き、毛布に向かって飛び込む。
母が選び、父が買ってくれた毛布は擦り切れ薄くなってしまっている。それでもエイミには大事な物だ。足りないぬくもりをかき集め、縋るように毛布に抱き着いた。
「う゛、ひっく」
逃げたっていいじゃないか、エイミはレオンだけにはさよならとは言われたくなかったのだ。幸せに――なんてレオン様に言われた暁には、きっと心臓が止まってしまう。
3日後、レオンがサラにプロポーズをしたと噂が流れた。オーヴァンを連れず、1人でサラの家まで行ったのを目撃されたらしい。
エイミを嘲笑うように報告する令嬢を無視し、サラ本人に確認すると物凄く嫌そうな顔で「私にだって選ぶ権利はある」と言われた。
どうやら噂は嘘だったらしい。確認しても意味のないことだと分かっていても、気にせずにはいられなかった。
*
生まれて16年きっかりたったある日のことだ、旅立ちの日、エイミはのんきに笑っていた。
引っ越す当日は天気に恵まれ、移動には苦労しなさそうだとエイミは太陽を見ながらほっ、と息をついた。
荷物運びもかねて、別れの挨拶に来てくれたサラと、サラの両親には本当に最後まで頭が上がらない。
せめてものお礼にと3人に合った花束を渡すと、サラの両親は喜んでくれて、サラ本人は悪くないわね、と言いつつも大事に花束を花瓶に挿していた。10年してようやく花は活けるものだと理解したらしい。
「忘れ物は?」
「大丈夫です!おじさんおばさんお世話になりました、お肉の燻製もありがとう!」
「いいってことよ、こんなもんしか用意できなくて悪いなあ」
「全然、私おじさんのお肉好きですよ」
「嬉しいこと言うじゃねーか!」
親分気質のサラの父親が髪の毛を嬉しさのあまり掻き乱せば、子供に戻った気分になって思わずエイミは笑ってしまった。こら、とたしなめる声がしたと思えば、今度は細い手がもみくちゃになった髪を丁寧に直してくれる。
「ありがとうおばさん」
「いえいえ、向こうについたら連絡頂戴ね」
「もちろん!」
優しく微笑む顔に思わず顔が緩む。似ている顔なのに全然感じが違うと無意識にサラを見たらキッ!と睨まれた。意図に気付かれたと慌てて視線をそむけて口笛を吹くと、遠くでため息が聞こえて、ようやく少し離れた所にいたサラがやってきた。
「それでやっていけるのエイミ?本当に心配だわ」
「心配なら一緒に来たらいいよ!一緒に農業やろうよ!」
「無理でしょ、そもそも私野菜より肉が好きだし…まぁ、落ち着いたら顔くらいは見にいくわ」
今度はサラによって再びぐしゃぐしゃにされる髪、本物のお姉ちゃんみたいだ。へらりと笑えば、気にくわなかったらしい眉を寄せたサラに頬を抓られた。やっぱり訂正、暴力的な姉は遠慮したいところだ。
ぱっと手を離したサラはマーケットの方を見つめる。
会ってから今までもチラチラとそちらを見ていたとエイミは思った。
「仕事、やっぱり大変だった?休ませてごめんね…」
「は?え、ああ、仕事のこと…。大丈夫よ一日休むくらい、そんな事じゃなくて人を待っているの」
「人?」
「人」
頷いたサラ、これ以上は言う気はないようだ。
エイミも引き下がって荷物を見つめるサラの母親の隣に立った。
「エイミちゃん、この荷物は村までどう運ぶの?」
「村の若者連中が野菜を売りに来てるらしい、そいつ等の荷馬車に荷物を載せて一緒に帰るんだと。売上次第だが、あと数刻で来るんじゃないか?」
「どうかしらね…それにしても母さん、まさか知らないで来たの?」
「うふふ、頼りになる旦那様と娘がいて、私は幸せだわあ」
のほほん、と笑うサラの母親を父親は愛おしそうに見つめ、サラは呆れたようにため息をついたが、そこにはまさしく愛があった。
かつて、エイミの家にもあったものだ。
(いいなぁ、私も、こういう風になれるかな?)
知らない相手、知らない土地、それでもやっていけるよう――顔も知らぬ旦那様を愛する、努力をしようと思った。
レオンに向けた一直線な思いは今後無くても、思い合えば、きっと相手と一緒に生きていける。滲んだ景色は――見ないフリをした。
*
「最後だから、2人にさせてくれない?」
愛娘の滅多にしないお願い事を、両親は叶えた。
サラの両親は最後にエイミをギュッと抱きしめた後、仕事に戻って行く。
姿が見えなくなるまで手を振り、やり切ったとエイミが振り返れば、サラは縄で結ばれた荷物の1つに腰掛けて私に手をちょいちょいと振っている、流れるように隣に座った。
2人で青い空を見つめる。近所に子供が少なかったエイミとサラは、自然にずっと一緒だった。そんな日常が最後だというのが、信じられない。
「あと少しね」
「うん」
「寂しくなるわ」
「そうだね」
「いまだから言うけど、10年間にあなたの母親を殴ったのは私の親じゃなくて…私なの」
「だろうね」
「知ってたの?」
「ううん、知らないけど。一番手が早そうなのってサラだから」
言い訳すらできず口を閉じたサラにふふふ、と勝ち誇ったようにエイミは笑った。
「それじゃあ――そうね、これを食べ終わるくらいかしら。その間だけ、くだらない、作り話をしてあげる」
ポカン、と口を開けた私に、サラは燻製の肉を投げ入れた。
噛めば噛むほどお肉本来の味が、ジワリと染みておいしい。
「おいしい…」
こわばっていた口元が思わず緩む、無理に上げていた頬骨の筋肉が、不自然なく動いた気がした。それを見めていたサラは当然でしょ?と言わんばかりにふっ、と笑った。
相変わらず綺麗に笑う子だとエイミはしみじみと感心した、2つ上の幼馴染。女でも見惚れる笑顔は残念ながら、家族と私にしか見せてくれないもので、小さな優越感を持っていた。
サラは気にせず、女にしては低い声で話し始めた。
「あるところに1人の男の子がいたの。年は12、侯爵家の妾の子として生まれたわ。眉目秀麗、品性方向、妾の子供ということを除けば、これ以上ないくらい将来有望の男だったわ」
「凄いね、完璧」
「そう、非常に優秀で、非の打ち所が無かった。ただ、人を思いやるって感情が無い子供だったの。娼婦だった母親は少年が6つの頃に死に、引き取ったのはいいものの、父親は自分に似た子供に無関心、義母は浮気相手の子供だと憎んでた、側仕え達は義母の命令で子供をいないものとして扱っていたわ。そんな環境で…思いやりなんて芽生える訳ないわよね。近くに同世代の男の子が1人いたけど、地位も実力も上の彼に何かをいうことが出来なかったの。口下手だというのもあるんだけど…まぁ、そんな典型的な金はあるけど愛がない彼は、衝動的なものを抱えて街に飛び出したの。街でなら、自分を見てくれる人がいるんじゃないかって一筋の望みをかけて」
「可哀想だね、その子」
「そうね、同じことを思った当時6つの街の子供が、彼に同情したわ。きっと、小さい小さい脳みその子供は、話を聞いても母親が死んだことしか理解していなかったんでしょうね。可哀想だね、元気だしてって、誰も触らなかった彼の頭を撫でで、彼の隣で手を握った。ここからは推測でしかないけど、彼は随分びっくりしたでしょうね。泣きすぎて目も、鼻も、頬っぺたも赤くした迷子の女の子が、自分を優先してくれたことに」
「やだ、恋物語が始まりそうな予感」
頬を挟み、キャーと小さく悲鳴を上げたエイミに一方のサラは、冷めた眼をして首をふった。
「そんないいものじゃない。彼はその後、また衝動的に女の子を自分の部屋に連れ去ったのよ。無意識に――純粋なこの子をそのまま、大事にしたいと思ったそうよ。剥製みたいに大事に、埃ひとつ付けない様に」
サラの表情が険しくなった。エイミはひんやりした空気を感じ、頬にあった手をそろりと降ろして膝の上に大人しくさせた
「あらら、だね?」
「本当にあららよ。綺麗な顔立ちだったから、女の子は男の子を天使だと勘違いしてたのよ。だから家においでよって言われて、ホイホイ付いてった。女の子は誰もやってこない綺麗な部屋で、美味しいお菓子を食べながらその男といたの。いろいろな話をしたそうよ、お父さんのこと、お母さんのこと、今日が誕生日だってこと、幼馴染のこと、お花が好きな事、女の子は口癖のように「お父さんが待ってるの」って言ってたみたいだけど、「そうなんだ」って言われて「そうなの」で会話が終了してるぐらい頭の悪い会話だったそうよ」
作り話なのに、他の人から聞いた話をしている言い方がエイミには少し引っかかった。
それでも一番気になる部分は別である。
「その子の家族は?心配しなかったの?」
「母親は失踪、父親はもう死んでた」
「…女の子も可哀想だね」
まるで自分みたい、ズンと鉛をかついだように落ちた気分で視線を下に向ける前に、がっ!とサラに顎を掴まれた。口から出そうになる肉をなんとか舌で押しとどめるた。
サラが先ほどより機嫌が悪いのは明らかだ。黒い瞳にじいっ見つめられると居心地が悪く、もぞもぞと体を逃げるように動かした。しばし見つめ合うこと数秒、先に根を上げたのはサラだった。はぁ~と長い溜息を吐くとエイミから手を離して、手首を振った。サラが感情を落ち着かせようとするときに出る癖だ。
「察しないんだ…ていうかその女はただの馬鹿よ、幼馴染が必死に探している間、ずっとお菓子食べながら過ごしてた馬鹿。ほんと馬鹿!」
「なんで急に怒るの?つくり話でしょ?」
「なんで分からないの!?ああ、馬鹿だから…いいわ、話を続ける」
「どうぞどうぞ」
落としどころが見つかったなら余計な火種が来ないことになる、サラにとっては幸いだった。じろりと睨まれた目にはひやっとしたが。
「同世代の男の子は、誘拐犯の部屋に女の子のいることを、次の日には見つけていたわ。ただ、初めて友好的に話してくれた誘拐犯に嬉しくなって、黙っていることにしたの…どいつもこいつも本当に使えない。でもね、そんな生活はすぐに続かなくなった。使用人の1人が義母に密告したせいでね」
「使用人の人も普通に驚くよね。知らない女の子が部屋にいたら」
「それを聞いた本妻である義母の感じ方は違ったのよ。彼女にとって女の子は、誘拐犯にさらわれた被害者ではなく、昔に旦那の心も体も虜にした――男の子の母親である娼婦に思えたの」
「なんで?」
「義母は愛されない苦痛から精神をおかしくしていたそうよ、旦那と妾の子の区別がつかないくらい。愛おしいあの人の元に、殺し損ねたあの女が帰ってきた、そう考えて義母は血相を変えて男の子の部屋に飛び込んだの」
「うわあ」
「酷かったらしいわ、部屋はぐちゃぐちゃ。女の子は引っ掻き傷に殴られた痣だらけ、誘拐犯も、異変に気づいて駆け込んだ男の子も警備がくるまで必死に義母を引き留めて、全部が終わったのが明け方。女の子が殴られて、記憶がなくなったのは不幸中の幸いだったわ、侯爵家の恥を知ればきっと、生きては帰ってこれなかったから」
「よかったね!その女の子運があるよ!」
「運がよければそもそもそんな事態にならないでしょ…でもね、この事件で誘拐犯も学んだそうよ、実力や権力がないと、守りたいものなんて何一つ守れないって」
「――そう、だね」
お金が全てじゃないことはエイミもよく知っている。
しかし、父が花を摘みにいくとき、用心棒を雇えるお金があれば死ななかったのも事実だ。
ギュッ、とスカートの裾を掴んだエイミには気付かず、外に視線をやったサラが「あ」と口に出したと思えば、すぐさま手を叩いた。
パアン!と小気味の良い音が空気に溶ける。
「こうして女の子は何故か幼馴染の家の子と勘違いされ、傷だらけのまま幼馴染の家の前に置いてかれてから2日間、目を覚ましませんでした。めでたしめでたし」
幸せな終わり方ではない。
それよりもエイミには気になる部分があった。
「…家の前?幼馴染の?」
「はい終わり」
「え?待って、まって、ねぇ」
立ち上がったサラの襟を掴み、持てる力の限りぐわんぐわんと揺らしてもサラの焦点は合わない、心なしか、もうどううにでもなーれ☆ってやけく感すら漂っている。
「エピローグも欲しいの?――それから流れること数年、まさか女の子が誘拐犯に一目惚れして、何百回と告白することになるとは誰が予測したでしょうか」
「待って!え、ウソでしょ!?」
「ほんとだよ」
聞き馴染のある声がした、エイミの求めてやまなかった声だ。
呼応するよう、ばくん、ばくんと高鳴る心臓。嘘だ、だって――
「私行く日なんて知らせてな――」
「私から情報漏れたみたい」
「オーヴァンに伝えてもらったよ」
「なんで!なんで今になって重要なことを言うの!?」
「ああ、別に必要じゃないと思って」
ニヒルに口元を上げたサラ。してやられた、エイミは羞恥心とちょっとの怒りで顔を赤く染めた。常日頃エイミ本人が言っていただけに、反対にされるとなんと腹立たしいことか!
酷い、酷過ぎる!うーうーと唸っていれば背後からレオンの薄く笑う声が聞こえてくる、エイミの胸はキュンと高鳴った。今でも好き!
「エイミ、こっちを向いて」
エイミは首をふった、無理に決まっている。声すら聞いていられないくらい、頭が容量いっぱいだった。現在唯一の心のよりどころにして、諸悪の根源たる幼馴染の首元に思わず抱き着いた。エイミより背の高いサラは小柄な体に腕を回し、ぎゅっと安心させるように胸に抱き込んだ。まるで仲のいい恋人そのものだ。肉の匂いではない、胸元から香るサラ本来の甘い香りに満たされる。
「この一週間は大変だったらしいわよー、義母を病気養成の名目で遠くへやったり、父親の不正を暴いて国の牢獄に入れて家督を継いだり、使えない使用人を首にしたり。あんたの出発日を聞くためにわざわざ人の家に押しかけたり」
「ほとんど準備は出来ていたから仕上げだけ。いやぁ突然ごめんね、でもまさか、嘘を言われるとは思わなかったよ。念の為オーヴァンに調べてもらっておいてよかった」
「逆に、なんでされないと思ったんですかねー。この子の告白断ったんですよね?167回も」
「正確には169回だ、心の中では言われる度に『まだ』と呟いていたよ」
「口に出さないで伝わると思わないことですね」
ブリザードだ。エイミは陽気な気候の中、寒さで鳥肌を立てた。
どうやら2人の馬は合わないらしい。
「そろそろ村の迎えが来る筈なのに何故来ないのかしら、レオン様は心当たりあります?」
「そうだね、どこぞの貴族がここぞとばかりに金を使って無理やり帰らせた、とかかな?」
「最低」
「秘密を守れない子供に、何かを言う資格はないよ」
「あら、私何か破りましたっけ?」
「今していた話だ。オーヴァンに絶対に言わないと誓ったのに、教えたものをあっさりばらすとは…」
「だから何の話です?私はただの作り話をしただけで、約束事は破ってませんが?」
レオンの舌打ちがエイミの耳に届いた。
心臓が違う意味で高鳴った、舌打ちするレオン様も素敵…どうやらエイミのお花畑は一生治らないようだ。
「私は君が嫌いだ」
「あら奇遇。それでも頑張った人には、褒美を与えないといけませんね」
「へっ?」
サラが腕を外してエイミの肩を掴むと、クルリと体を反転させた。
そこには美しさは変わらないものの、目元に酷いクマがあるレオンが後ろで手を組み立っていた。もう一度背中を向けようと思っても、サラに肩を掴まれて動けない。
「全て片づけてきたなら、あなたに協力しようと思っていました」
「本音は?」
「どこぞの知らない男より、大事にしてくれる誘拐犯の方がましだ」
「ついでにここ近辺なら会いに来やすいものね。君の利己的な部分は嫌いじゃないよ」
「利用しがいがありますものね」
「お互いにね」
2人が笑ったのが分かる。
同時に掴んでいる肩の力が強くなった。いたいいたい。
「じゃ、私も仕事に戻るからなにかあったら来なさい。落ち着いたらお茶がてら、顔も見にいってあげるわよ」
肩から手を離したサラに行かないでと伸ばして手はひらりと避けられ、サラは足早にマーケットに消えていった。
あー、と名残惜しく手を伸ばす中、レオンの低い声で呼ばれた。
「エイミ」
「あ、う…」
緊張でガチガチになった体が後ろを向くのを拒否していた。
「振り向くのが嫌ならこのままでいい。頼むから、この間みたいに逃げるのだけはやめてくれ」
「は、い。この間は、すみません」
「いいや、…いいや。謝るのは私の方だ、長い間君を傷つけて――本当にすまなかった」
風が動いた気配がして、恐る恐る振り返るとレオンが頭を下げていた。
一介の花売りであるエイミに、貴族のレオンがだ。この時のエイミの心境は想像に難くない。エイミはレオンに駆け寄り、無理やり上半身を持ち上げて顔を上げさせた。
「やめて下さい!レオン様に頭――を」
レオンは体に触れているエイミの腕を掴み、頬に引き寄せると小さい掌にひとつ、キスを零した。
ジュッ、と可愛らしくない音を立てるレオンの唇と、自分の手に、エイミの限界は超えた。ボン!と湯沸かし器のように蒸気を上げて固まった。
「ふふ、可愛い。本当はね、君のことをずっと見ていたんだ。それこそ君が私に花を渡してくれる前からずっとね、屈託のない笑顔がどうしようもないくらい好きで。若い時の僕は、その笑顔だけを頼りに訓練も勉強も頑張ったよ」
サラがこの場にいないのが惜しい。いれば『変質者の自分語り程気持ち悪いものはない、死ね』くらいは軽いジョブで言ってくれただろう。残念ながらいるのは脳内お花畑のみ。熱烈な愛の言葉にもう限界とばかりに後ろに倒れそうになり、レオンに片手で支えられた。
「どうしようもないくらい好きなんだ。170回目はどうか俺から言わせて欲しい『私と結婚してください』」
隠し持っていたオレンジの花束を、胸に押し付けられた。
10年前、6歳の誕生日の際に唯一もらったオレンジの花が胸で咲き誇っていた。しおしおでも、へたれてもいない花は元気に太陽の光を浴びている。
「この花…」
花から顔を上げたエイミに、レオンは照れ臭そうに笑った。
「母の故郷の花なんだ。唯一、私が幼少期に我儘を言って庭に植えさせた。君のように明るくて、太陽に似ている花で大好きなんだ。本当は君にずっと、あげたかった」
その笑顔に既視感があった。
遠い、遠い、昔の記憶だ。
*
父が死んだ。本当は知っていた、迎えにきてくれないことも、もう会えないことも。結局のところ、私は認めたくなかったのだ。
大声で泣く私に、天使様は大事にしていたオレンジの花をくれた。
『君の誕生日にはお父さんの代わりに僕が花を上げる』
『ずっと?』
『うん、ずっと』
『ありがと。でもね、エイミは花屋さんだから、エイミがふだんはお花を上げるね』
『そっか、楽しみにしてる』
『うん、約束』
泣いてたのにすぐに機嫌を直し、えへへーと笑った私に、天使様は嬉しそうに笑った。
*
大事な、記憶だった。
花束にひとつ、涙が落ちた。
それを隠すように花に顔を埋めれば、優しくて元気になれる香りがする。
貰う側から渡す側になった花を、くれる人がまだいたことが嬉しくてしょうがない。自然と口元が緩み、エイミは泣きながら笑った。
「わ、私も…貰いたかったんです。ずっと、お花――ありがとうございます」
レオンもふわりと、花が綻ぶように笑った
「うん。」
ああ、なんて幸せなんだろう!
その後、レオンの屋敷の応接室にはこの時のエイミをもとにした肖像画が置かれ、それを見たサラが本気で引いたことを付け加えておこう。
少しだけレオン視点です
*****
「私、こう見えて嫉妬深いですよ?」
「君が嫌がることをする気はないよ」
「女の人と遊んだら、嫌ですからね」
「あはは、邪魔者は排除したからもうしないよ」
「本当ですか?ああ、あとサラとは週1で会いたいです」
「…」
「レオン様?」
「2週間に一度…」
「嫌です、週1です」
「…」
「…ダメですか?」
「んん!いいよ、君の喜ぶ顔のためなら我慢しよう」
ざまぁ!と指をさしてくる愛しい人の幼馴染の顔を浮かんで、レオンは即座に打ち消した。エイミの幼馴染で、オーヴァンの思い人でなければ間違いなく、一番最初に排除していただろう。
それでも――嬉しそうに笑うエイミにつられるように口元が緩んだ。可愛い、本当に可愛い、なんだこの生き物、神様の使いなのかと何度思っただろう。それはそれで天上に帰ってしまったら困る。やはりエイミは可愛い女の子でいてほしい。
ようやく自分のものになったエイミを穴が空くほど見つめていると、ふいにモジモジとし始めた。
「あ、あの…」
「なんだい?」
「さっきの、返事ですけど」
レオンは少しだけ首を横に動かして。はて、なんのことだろう。
「さっきの?」
「プロポーズのです!」
「え、もう承認してくれただろう?」
目をパチクリとしたエイミが花とレオンを交互に見て、首を傾げた。
「…しましたっけ?」
「この花の名前はローティス、母の生まれた地域では結婚の申し込みに使う花なんだ。花言葉は『結婚してください』受け取ってもらえれば婚姻成立って花なん…知らなかった?」
「はじめて…聞きました」
勉強不足ですみませんー!!と顔を真っ青にしてその場に伏せようとするエイミを止めるため、膝と背中を支えるように持ち上げた。
「いや、こちらこそすまなかったね。花に詳しいものだから、てっきり知っているとばかり」
考えてみたらレオンの母親である女が奴隷としてこの地に来る前は、遥か遠い寒い土地で住んでいたことを思い出した。だからこそ温帯地にあるこの地であの花を育てるのにどれだけ苦労したことか。流石のエイミでも知らないだろう、考えなしだった自分をレオンは殴ってやりたい。
見上げるエイミは新鮮だった、長い髪がレオンの髪にかかり。まるでエイミに浸食されているようだと思えば、存外悪くなかった。
エイミを怖がらせてはいけないと笑顔を作り、下から見上げた。
「これから先、何度でも言うよ。君が言ってくれた言葉より多く、数えきれないくらいね。『君が好きだよ、僕の側にいてくれませんか?』…だめかな?」
白い顔がたちまち真っ赤にそまり、小さな頭がこくん、と頷いた。可愛い、駆け引きできないところも最高に可愛い。本人は目をつむり、俯いてかくしている様だけど、持ち上げているレオンにしてみればさぁ見て下さいと言っているようなものだ。
ぷっ、と思わず吹き出せばエイミはカッと目を見開いてレオンを見た。
レオンの仕草を余すことなく見たいと以前言っていたのを思い出す、それはレオンにとっても同じだ。
笑った顔も、怒った顔も、自分に恋している顔も全て見たい。これから先、いつでも見れる立場にある自分によくやったと褒めてやりたい
レオンは自分の幸福を少しでも知ってもらおうと、エイミの唇に近づいた。
最後までお読みいただきありがとうございました!