第92話 種族の違い
「セレナ」
セレナの口から次の言葉が出る前に、僕は強めの口調で言った。
「僕に〝そういう感情〟を抱くのはやめるんだ」
「……え?」
何を言っているのか分からない、というセレナの顔。
これでも人の気持ちには鋭敏な方だ。セレナの僕に対する心境の変化には薄々気が付いていた。だからと言って突然難聴を患ったり、突発性の睡眠に襲われるような方法で逃げるつもりはない。僕はセレナの気持ちに正面から向き合った上で、それを否定する義務がある。
「僕には誰にも言えない秘密がある。僕に好意を抱いていたら必ず後悔する」
僕は覇王だ。人間の女の子とそのような関係になるわけにはいかない。セレナを不幸にすることはあっても、幸せにすることはない。
「僕はもうすぐここを去る。だから僕のことは忘れてほしい。きっとセレナには僕なんかよりも良い人が見つかる」
セレナの指が僕の袖から離れる。しばらく沈黙が流れた。
「……どうして……そんなこと言うの……?」
セレナの方に顔を向ける。その目からは大粒の涙が零れて落ちていた。
「こんなに……こんなにアタシの心を掻き乱しておいて……そんなの卑怯よ……」
「……っ」
こうなることは覚悟していた。だけどいざ直面すると、胸が締め付けられるように苦しくなった。
「アタシの気持ち……返してっ……」
セレナは顔を両手で押さえながら、僕のもとから走り去っていった。
「セレナ!!」
僕はセレナを追いかけようとしたが、無意識に足が止まってしまった。
「……これで、よかったんだ。これで……」
拳を強く握りしめながら、僕は自分に言い聞かせるように言った。
屋上を出た僕は、一歩一歩、階段を下りていく。一体あれからどれくらい屋上で立ち尽くしていただろうか。
後悔はしていない。けれでも胸にはポッカリの大きな穴が空いたような感覚だった。
「……やっぱり、もう帰るか」
これ以上アジトにいるのは気まずい。僕は覇王城に帰還することに決めた。せめてサーシャにだけは最後に挨拶をしていこうと、僕はサーシャの部屋に立ち寄る。まだ起きているだろうかと思いながら、僕はドアを軽くノックした。
「どうぞ」
サーシャの声が返ってきたので、僕は静かにドアを開けた。そこは六歳の部屋とは思えないほど整理整頓がなされていた。
「ごめん、もう寝てたか?」
「これから寝ようとしていたところだ。こんな時間にどうした?」
「……やっぱり覇王城に帰ることにしたから、最後の挨拶をしようと思ってさ」
「これまた急だな。何故だ?」
「…………」
何から話せばいいものかと僕が悩んでいると、サーシャは小さく息をついた。
「セレナを振ったのか」
「ど、どうしてそれを!? まさか【千里眼】で見てたのか!?」
「人の告白を覗き見るような野暮な真似はしない。今のお前の顔を見ればそれくらい誰でも分かる」
どうやら自分でも気付かない内にそういう顔になっていたらしい。
「ま、異性の好みは人それぞれ。セレナの気持ちを受け入れるかどうかはお前の自由だ。しかし私からすれば勿体ないことをしたものだな。セレナのような女であれば自分のものにしたいと思う男は星の数ほどいるだろうに」
「……勿体ない、か。確かにそうかもな」
僕は空虚な笑みを浮かべて言った。
「そう思うのなら何故振った? やはりお前ほどの男ともなると、いくらセレナが相手でも釣り合わないか?」
「……そういう問題じゃない」
「なら何故だ?」
「…………」
「……まあ、とりあえず座ったらどうだ」
サーシャにそう言われ、僕は近くの椅子に腰を下ろした。それからサーシャは紅茶を淹れたティーカップを僕に差し出してくれた。
「……サーシャは、自分の両親についてどう思ってる?」
紅茶に映る自分の顔を見ながら、僕は尋ねた。
「唐突な質問だな。何故そんなことを聞く?」
「……前にサーシャは、自分が天使と人間の間に生まれた子供という理由で差別を受けてきたって話してたよな」
「ああ」
「だから、その……。言い方は悪いかもしれないけど、自分の両親を恨んだりしたことはないのかと思ってさ」
サーシャは不思議そうな顔で小首を傾げた。
「何故私が両親を恨む必要がある?」
「だってそうだろ? 両親が二人とも人間、あるいは天使だったらサーシャが差別を受けることはなかったわけだから」
僕がそう言うと、サーシャは全てを理解したような表情を浮かべた。
「なるほど。お前がセレナを振った理由は、悪魔の自分と人間の女が結ばれることは間違っていると思ったからか。だから私にそのようなことを聞いたのだな?」
「……相変わらず鋭いな」
「呆れたものだ。いくら覇王になって最強の力を得ようとも、精神的にはまだまだ未熟者というわけか」
「なっ……!? どういう意味だよそれ!」
なんだか馬鹿にされているような気がしたので、思わず声を荒げてしまった。
「よく聞けユート。私を自分の父親と母親を恨んだことなど一秒たりともない。だいたい恨んでいたら奪われた父の魂を取り戻そうとはしないだろう」
「それは……」
「確かに私や父はこれまで様々な差別を受けてきた。だが何故それで両親を恨まなければならない? 私が恨むとしたら、私達に嫌悪の目を向けてきた世間に対してだ」
サーシャの言葉には確かな意志が根付いていた。
「種族の違う二人が結ばれたからと言って、誰かが死ぬのか? 誰かが病に冒されるのか? 間違っているのは、何の理由もなく『異種族の者と結ばれることは忌むべきもの』と決めつけている世間の方だ。違うか?」
「……!」
「だが人の考えは千種万様。私の理念を否定する者がいるのは仕方のないことだ。しかしお前ほどの男までもがそのような価値観に囚われ、世間の目を気にしているというのは滑稽に思えてならない」
そうだ、何を僕はこんなつまらないことで悩んでいたんだろう。僕の理想は人間と悪魔が共存できる世界を築き上げるだったはずだ。そんな僕が何故、その理想に反するようなことをしてしまったのか。
「母は私を産んだ時に亡くなったが、父はいつも嬉しそうに母のことを話していた。辛いことも沢山あったが、父も母も、そして私も不幸ではなかったと自信を持って言える」
僕と結ばれたらセレナを不幸にしてしまう。そう思っていた僕にとって、サーシャの言葉は心に刺さるものがあった。
「とは言えセレナは私とは違う。お前が覇王だと知った時、セレナがどう感じるかは分からない。お前がこのままの方がいいと思うのであれば、それもよかろう」
そう。セレナが今まで見てきたのは、あくまで人間としての僕だ。僕の正体を知ったとしてもセレナの気持ちが変わらないという保証はどこにもない。
「ただ、一つ聞かせてほしい。お前はセレナのことをどう思っている? 覇王だの悪魔だの関係なく、一人の男としてだ」
「! 僕は……」
セレナの顔が脳裏に浮かぶ。村人を襲っている山賊や、女性の魂を奪っているガブリを目の当たりにしてもそこまで憤りを覚えなかった僕が、何故セレナを傷つけられた時はあんなに激昂したのか。『天空の聖域』で下級天使共に追われていた時、何故あそこまでセレナを守ることに拘ったのか。
それは……もはや考える必要はないだろう。だったら迷うことなどない。僕は椅子から立ち上がった。
「ありがとうサーシャ。おかげで目が覚めた。もう一度セレナと話してくる」
「……そうか」
「にしても、サーシャって本当に六歳なんだよな?」
「何度も言わせるな。私は正真正銘の六歳だ」
とても六歳とは思えないほど達観した物言いだった。人生二周目なんじゃなかろうかとさえ思ってしまう。
「それじゃ、行ってくる」
新たな決意を胸に秘め、僕はセレナのもとへ走り出した。




