第38話 キエルの正体
「ふー、やっと終わった……」
四十分後。全ての風船を配り終え、僕は着ぐるみの中で大きく息をついた。同時にバイトも終了となり、リーダーっぽい人が上機嫌で僕の所にやってきた。
「ユート君、だったよね? 君が急遽入ってくれて本当に助かったよ! 後で一時間分のバイト代を渡すから、着替え終わったら取りに来てね!」
「あ、どうも」
ちゃんとバイト代くれるのか。まあこんだけキツイ思いをしてタダ働きというのは割りに合わないからな。
「初のミッションにしては上出来だったな。褒めてやろう」
「……キエルさんこそ、またコケたりしなくてよかったですね」
キエルさんの言葉に若干イラッとしながら僕は言った。どうしてこの人はいつも失敗ばかりなのに上から目線なんだ。
まあいいや。リナも待たせてることだし早く着替えて――
「うええーん! 風船がー!」
その時一人の女の子が地面に座り込んで泣いているのが目に入った。ふと目線を上に向けると、風船が空に飛んでいくのが見えた。どうやら女の子が誤って風船を手放してしまったようだ。
ここは僕がなんとかしなければ。でもどうする、呪文を使ったら【変身】が解けて覇王の姿に戻ってしまう。着ぐるみを着ている今の状態ならイケるか? いや、覇王の図体を考えたらこのサイズの着ぐるみじゃ破裂して正体がバレるのがオチだ。一体どうすれば――
「ぬうん!!」
僕が頭をフル回転させていたその時、ウサギの着ぐるみがビリビリに引き裂かれ、キエルさんの姿が露わになった。
「呪文【地層刻限】!!」
キエルさんが大声で叫ぶ。するとその風船が空中でピタリと止まった。いや風船だけじゃない、空を飛ぶ鳥や目に映る人々、その全ての動きが止まっていた。
僕はパンダの着ぐるみを脱ぎ捨て、周囲を見渡した。一体何が起きたというんだ。一つだけ確かなのは、この呪文がキエルさんによって発動されたということだ。
「キエルさん、これは……!?」
「【地層刻限】は万物の時の流れを一万分の一にする呪文。まるで長い年月を経て積み重なっていく地層のようにな……」
地層うんぬんはともかく、一万分の一ということはもはや止まった状態に等しいだろう。あとわざわざ着ぐるみを引き裂かなくても普通に脱いでから呪文を発動すればよかったんじゃなかろうか。
「ただしレベル500以上の生物、及びその生物に触れているものはこの呪文の影響を受けない。やはり覇王のお前には効かなかったようだな」
次の瞬間、僕は更に驚くべきものを目にした。キエルさんの背中に白い翼が生え、高く飛び上がったのである。あの翼はまさか……!!
キエルさんは空中の風船をキャッチすると、再び地面に降り立った。
「……キエルさん、天使だったのか」
「ああ。そういえば、俺の事はまだちゃんと話していなかったな」
キエルさんは僕の方に身体を向け、こう言った。
「俺の名はキエル。七星天使の一人だ」
「!!」
衝撃の事実に僕は驚愕せざるを得なかった。キエルさんがウリエルと同じ、七星天使の一人だと……!?
「どうだ、驚いたか?」
「……ああ。雑貨屋のバイトの時からただ者ではないとは思ってたけど、まさか七星天使だったとはな。何故このタイミングで正体を明かしたんだ?」
「女の子のピンチだったからな。子供達の夢を守る希望の星として、今のを見過ごすわけにはいかなかった」
「……キエルさんらしいな」
でもついさっきまで何度も顔バレして子供達の夢を壊しまくってたよね、と思ったけど口には出さないでおいた。
「七星天使の本懐は覇王を抹消すること。つまり俺とお前は敵同士というわけだ」
「……ならばどうする? 今ここで余と一戦交えるか?」
僕は無意識に【変身】を解き、覇王の姿でキエルさんと対峙した。
「これまでも余を不意打ちするチャンスは何度もあったはずだ。何故そうしなかった?」
「ふっ、お前は不意打ちなどという姑息な手が通用する相手ではないだろう。いくら人間に化けようとも、お前に途方もない力が秘められていることは肌で感じていた。たとえ不意打ちを仕掛けたとしても失敗に終わっていただろう」
「……なるほど。賢明な判断だな」
今の僕は【弱体化】でATKとDEFを大幅に低下させてるし、この状態で不意打ちされてたらヤバかったかもしれない。
「覇王の抹消が本懐というのはあくまで七星天使にとっての話だ。俺個人は覇王の命に興味はない。俺は自分の戦いを邪魔されなければそれでいい」
「ウリエルを殺したのが余だとしてもか?」
僕がそう言うと、キエルさんの眉がピクッと揺れた。
「……そうか。やはりウリエルが覇王に殺されたという話は本当だったようだな。ウリエルの死は残念だが、仲間の敵討ちという理由で雌雄を決するのは俺の主義ではない。戦場で命を散らせた仲間はこれまで何度も目にしてきたからな」
多分バイトを辞めていった人達のことを指しているんだろう。紛らわしい。
「それに俺とお前は敵であると同時に、共に戦場を生き抜いた仲間でもある。仲間のお前を殺せば俺の戦士としての誇りを傷つけることになる」
「……ふっ」
思わず僕は笑みをこぼした。覇王の僕を仲間だなんて、相変わらず面白い人だ。
「覇王、お前はどうだ? 俺が七星天使の一人だと知った今、俺を殺そうとは考えないのか? ウリエルにやったようにな」
「……余は何の理由もなく誰かを殺傷したりはしない。ウリエルは余の配下を手にかけるという大罪を犯したので命をもって償ってもらったまで。余にはお前を殺す理由がない」
「ほう、意外と道徳心に溢れてるのだな。覇王は無慈悲な殺戮者というイメージがあったが、今後は認識を改めるとしよう。一月ほど前に人間の軍勢が覇王によって全滅させられたという話を聞いたが、そちらの方はデマだったようだな」
すみません、それも事実です。
「それよりもうすぐ【地層刻限】の効果が切れるぞ。また人間に化けた方がいいんじゃないか?」
「!」
僕は慌てて【変身】の呪文を発動し、人間の姿になった。そして【地層刻限】の効果が終了したのか、程なくして人や物がいつも通り動き始めた。
風船を手に持ったキエルさんは、泣いている女の子の所まで歩み寄った。女の子はキエルさんを見て一瞬身体をビクッとさせたが、その風船を見ると笑顔に変わった。
「あっ! わたしの風船!」
「ああ。もう手放すんじゃないぞ」
キエルさんはその場でしゃがみ、女の子に風船を手渡した。
「うん! ありがとうおじさん!」
「おじ……!?」
ガーンという効果音がキエルさんから聞こえてきた。何歳か知らないけどおじさんと言われてショックを受けるような歳でもないだろう。