第200話 阿空悠人
おかげさまで200話達成しました。読者の皆様に感謝です。
また、書籍化に合わせて微妙にタイトルを変えました。
学校で授業を受け、家に帰ってテレビを観て、晩ご飯を食べ、風呂に入って、寝る。翌日もその繰り返し。これからもずっと、こんな平凡な日常が続いていくのだろう。大した刺激もないが、これといった不満もなかった。
だけど……何だろう。何かが欠けている気がする。まるで記憶の中にポッカリと大きな穴が空いているような……。
いや、きっと気のせいだな。このモヤモヤを紛らわそうと、僕はベッドから身体を起こして学習机に向かい、数学の宿題に取り掛かった。
途中でシャーペンの芯が切れ、補充しようと机の引き出しを開ける。その中に入っていた〝あるもの〟が僕の目に留まった。それは一個の小さな御守りだった。
「これ、セレナが僕のために作ってくれた……」
こんな大事な物を、どうして僕は引き出しの中に放置していたんだろう。肌身離さず持ち歩くと決めていたはずなのに――
その時、僕は気付いた。僕は今なんて言った? セレナ? セレナって誰だ? そんな子僕は知らないはず……。
「……っ!!」
激しい頭痛が僕に襲い掛かる。いや違う、確かに僕はセレナという子を知っている。だけど出会ったのはこの世界じゃない。こことは別の世界――
記憶の穴を埋めるように、かつての出来事が滝のように流れ込んでくる。覇王として転生したこと。アンリと色んな遊戯で遊んだこと。奴隷だったリナを妹として迎え入れたこと。七星天使と闘ったこと。そして――セレナと愛し合ったこと。
そうだ、僕は世界を守るために幻獣と闘っていたはずだ。なのに何をしてるんだ僕は。呑気に宿題なんてやってる場合じゃないだろ。
これは間違いなく幻獣の【運命湾曲】による現象だ。おそらく奴の呪文によって「阿空悠人が覇王として転生した」という過去がねじ曲げられたのだろう。つまりこれは、阿空悠人が本来歩むはずだった人生――
とにかく何とかしてあちらの世界に戻らなければ。だがどうやって? 今の僕には覇王の力もなく、ねじ曲げられた過去を元に戻す方法も分からない。一体どうすれば……。
この運命から抜け出したくなったら、いつでもここにおいで――
その時僕の脳裏に、数日前に通学路で見かけた婆さんの言葉が蘇った。そうだ、思い出した。どこかで見たことあると思ったら、以前セレナとのデート中に立ち寄った怪しげな梅干し屋、そこにいた婆さんじゃないか。
何故あの婆さんがこっちの世界にいるのか、そんなことはこの際どうだっていい。この状況をどうにかできるのはあの人しかいないと、僕の直感が告げている。気付けば僕は部屋を飛び出していた。
「あれ? こんな時間にどこ行くのお兄ちゃん」
風呂上がりのアイスを食べる香織と廊下ですれ違うが、今は相手をしている余裕などなかった。僕は香織の言葉に返事もせず、家を出て夜の道を駆け抜ける。
やがて僕は例の婆さんを発見した。あの時と同じ場所で、小さな屋台を出して魔女のような格好をしている。僕が来たことに気付いた婆さんは、ゆっくりと顔を上げた。
「ぼ……僕は……!!」
今更ながらどう説明したものかと息を切らしながら考えていると、婆さんはニタリと笑みを浮かべた。
「ヒッヒッヒ。その様子だと、自分が覇王だったことを思い出したようじゃのう」
「!!」
説明するまでもなかった。この婆さんは全部分かっている。
「教えてくれ!! どうすればあっちの世界に戻れる!?」
「……そんなに戻りたいのかい?」
「当たり前だ! アンタの力でどうにかできないのか!?」
何の根拠もなかったが、婆さんにはそれができるような気がした。そして僅かな間を置いて、婆さんは答えた。
「そうじゃのう。ワタシの力をもってすれば、お前さんをあっちの世界に帰すことは可能じゃ」
「本当か!? だったら今すぐ――」
「じゃが、本当にそれでいいのかい?」
「……え?」
思わぬ言葉に、僕は目を丸くする。
「この時空軸に存在するお前さんは、あちらの世界とは何の関係もない。このままこの世界で平穏に暮らすというのも選択の一つじゃろうて。むしろ人間のお前さんには、今の生活の方が相応しいんじゃないかね?」
「…………」
確かに、婆さんの言う通りだ。もう何もかも忘れ、優しい両親と、可愛い妹と、気の合う友達に囲まれながら、普通の人間として生きていく。そもそも覇王として転生したのも僕の意志じゃない。果たしてあちらの世界に戻る必要があるのだろうか――
一瞬そんなことを考えたが、すぐに頭の中から掻き消した。冗談じゃない。僕がいなかったら、あっちの世界はどうなる? 幻獣によって全てが滅ぼされ、セレナもアンリもリナも、皆死ぬことになる。
具体的な方策があるわけじゃない。だが幻獣を葬れる者がいるとしたら、それは僕をおいて他にいないだろう。たとえ犬死にすることになったとしても、あちらの世界を見捨ててのうのうと暮らすことなど僕にはできなかった。
「……僕の意志は変わらない。あちらの世界に戻してくれ」
改めて僕は己の決意を口にした。そう答えると予め分かっていたかのように、婆さんは不敵に微笑んだ。
「そうかい。なら望み通りにしてあげよう」
「方法はあるのか?」
「なに、簡単なことじゃよ。過去を歪曲させたことによってお前さんがこの時空軸に存在しているというのなら、歪曲された過去を正しい過去に修正するだけでいい。そうすればお前さんは自動的に元の時空軸――つまりあちらの世界に戻ることになる」
簡単なこととは言ってくれる。覇王の力をもってしても、そのような芸当は不可能だろう。
「……その前に、少しだけ時間をくれないか?」
一旦婆さんのもとから立ち去り、自宅に戻ってきた僕は、真っ直ぐリビングに足を進めた。
「あ、お兄ちゃん帰ってきた」
母さんは台所で食器の片付け、父さんはソファーに座って読書、香織は床に寝そべってテレビを観ている。ちょうど三人ともリビングに揃っていた。
「駄目でしょ、こんな遅くに勝手に出掛けたりしちゃ」
「……ごめん」
「どこに行ってたんだ? やけに深刻な顔をしているが」
「…………」
全員が不思議そうな顔で僕を見つめる中、僕はありのままの気持ちを伝えようと、口を開いた。
「父さん。母さん。16年間、僕を育ててくれてありがとう。本当に感謝してる。ロクに親孝行もできないで、ごめん」
唖然とした顔で固まる父さんと母さん。無理もないか、僕がこんな言葉を述べたことなんて今まで一度もなかったのだから。
「香織。お前のような明るくて可愛い妹を持てて、僕は幸せ者だ。きっと将来は凄い美人になるんだろうな。お兄ちゃんに負けないくらいのイイ男を見つけろよ」
ポカンと口を開ける香織。すっかり硬直してしまった三人を残して、僕は静かに家を出た。よくもあんなクサい台詞を吐けたもんだと我ながら感心したが、これが家族と話す最後の機会になると思えば、恥ずかしさは全くなかった。
この時間は、本来ならば存在しない時間。過去が元通りに修正されれば、僕が香織たちに伝えた言葉は皆の記憶から消えることになるだろう。それでもよかった。
微塵も未練はない、と言ったら嘘になる。だけど今の僕がいるべき世界はここじゃない……ただそれだけの話だ。
あの戦場に戻るため、僕は走り出す。踏ん切りがついたせいか、いつもより身体が軽く感じた。




