第190話 新たな始まり
「呪文【事象変換】!」
ミカに対し、僕はこの呪文を行使する。【事象変換】は【死の宣告】に並ぶ第六等星呪文。この呪文により〝死の手前まで蝕まれたミカの身体〟という事象そのものを別の事象に変換する。
「ユート様――」
「話しかけるな!」
思わず僕はユナに大声を上げた。これは針の穴に糸を通す作業よりも繊細な呪文であり、したがって尋常ではない集中力を要する。この呪文を使うのは初めてなので失敗してもおかしくはない。
緊張のせいか額から汗が噴き出てくる。一つの事象に対して【事象変換】が有効なのは一回のみ。つまりこれをしくじることはミカの死と同義なのである。僕はより一層集中力を高め、呪文の発動を続けた。
「…………」
やがて苦悶に満ちたミカの表情が穏やかなものに変わるのを見て、僕は心の底から安堵した。無事に成功したようだ。
「もう安心だ。余の呪文でミカの身体を〝健康体〟に変換した」
「……えっ?」
まだ状況を呑み込めないのか、呆然とするユナ。
「えっと、つまり、ミカは……」
「死なずに済む、ということだ」
「……!!」
堰を切ったようにユナの目から涙が溢れ出す。
「ミカ……よかった……!!」
安らかに寝息を立てるミカの身体を、ユナは強く抱き締めた。
「本当に、本当にありがとうございます。この御恩は生涯を掛けて返させていただきます……!!」
「気にするな。この程度、余にとっては造作も――」
言葉の途中、不意に立ち眩みが襲ってきた。危うく倒れそうになったが、なんとか踏み止まった。
「ユート様!? 大丈夫ですか!?」
「……ああ、問題ない。おそらく【事象変換】を行使した反動だろう。情けないところを見られてしまったな」
「いえ、そんな……」
やはりこれほどの呪文ともなると、何のリスクもないというわけにはいかないらしい。そう何度も発動はできないだろう。
すると上空から遅れてキエルが現れ、この場に着地した。どうやら翼を使って山の頂上から直接ここまで来たようだ。
「七星天使……!?」
あからさまに警戒を見せるユナを、僕は右手で制する。
「案ずるな。奴は我々と闘いに来たのではない」
キエルはユナの腕に抱かれたミカを見ると、小さく笑みを浮かべた。
「……なるほどな。お前の言っていた〝本当の意味で救う〟とは、こういうことか」
「ああ。危険な賭けではあったがな」
もし決着がつかないまま先の闘いを止めていたら、二人の間には蟠りが残ったままになる。それではたとえミカの命を救ったとしても、二人が心から分かり合うことはなかっただろう。だからこそ蟠りが完全に解消された上でミカを救う必要があった。それが〝本当の意味で救う〟ということだ。
「ミカは我々が引き取らせてもらう。異存はないな?」
「……無論だ。ミカも七星天使として生きるより、姉と共に生きる方が幸せだろう。セアルも生きていたら同じことを言ったはずだ」
遠くの空は既に朝焼けの色に染まっている。それはまるで、二人の新たな始まりを告げているかのようだった。
「しかしそうなると、とうとう七星天使も俺一人になったわけか……」
溜息交じりにキエルが呟く。その言葉からは、僅かながらも孤独感が垣間見えたような気がした。
だが情けをかけるつもりはない。キエルと決着をつけない限り、囚われた人々の魂は取り戻せないのだから。
「さて、どうするキエル? まだ約束の日ではないが、貴様が望むなら今この場で決闘を受けてやってもよいぞ」
「……それも面白いな。が、今はそうも言っていられない。先程から〝上〟の方で何やら不穏な気配を感じるものでな」
「上、だと?」
険しい顔つきで空を見上げるキエル。その視線を追ってみるが、特に目立った変化は見受けられない。どうやら〝上〟とは天空の聖域のことを指しているようだ。天使のキエルだからこそ、地上からでも天空の聖域の異変を察知できるのだろう。
「俺は一旦天空の聖域に戻る。お前との決着は必ずつけるから安心しろ」
再び背中の翼を広げるキエル。最後に横目でミカの方を見た。
「……ミカをよろしくな」
そう言い残し、キエルは僕らの前から飛び立っていった。天空の聖域で何が起きたのか多少気にはなったが、それを僕が憂慮してもしょうがない。
「我々も城に戻るとするか、ユナ」
「はい」
僕は【瞬間移動】を発動し、ユナ達と共に覇王城へ帰還した。
無事に自分なりの務めを果たし終え、僕は大広間の玉座に腰を下ろして息をついた。
ひとまずミカには部屋を一つ与え、そこのベッドで寝てもらっている。ユナはミカが目を覚ますまで傍にいるそうだ。ともかく二人が分かり合えたのは本当に喜ばしい。やはり姉妹は一緒にいるのが一番だからな。
「おはようございますっすー!!」
すると明るく元気な声と共に、大広間のドアが勢いよく開かれた。僕の配下でこんな開け方をする者は一人しかいない。案の定入ってきたのはペータだった。
「目が覚めたようだな、ペータ」
「はい! もう元気百倍っす! この度は御迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした!」
「……なに、気にするな」
明らかに謝るテンションではなかったが、この方がペータらしい。ガブリによって全身傷だらけにされた姿を見た時はかなり心配したけど、無事に回復して何よりだ。
「ついでにアンリも起こしてあげようと思って部屋に行ったんですけど、全然起きないんすよ。なんか目もハートの形になってたし、何かあったんすか?」
まだ気絶してるんかい。
「アンリは問題ない。直に目を覚ま――っ!」
その時不意に目眩が襲い、僕はこめかみを指で押さえた。
「ユート様? どうしたんすか?」
「……大丈夫だ。何でもない」
一瞬また【事象変換】の反動かと思ったが、違う。この感覚はサーシャから貰った【未来予知】が発動する予兆だ。相変わらず発動するタイミングを選ばない呪文である。果たして僕にどんな未来を見せるつもりなのか。
「……!!」
脳内に映し出された未来のビジョンを視て、僕は絶句した。背中に悪寒が走り、無意識に手が震えてしまう。
「ゆ、ユート様? 本当に大丈夫っすか?」
今ばかりはペータに言葉を返す余裕すらなかった。
僕が視たビジョン――それは地上に現存する全ての生物が死滅した未来。言うなれば、世界が滅亡した未来だった。