第186話 二人の思い出
一方その頃、地上に降り立ったキエルは人間領の様々な場所を見て回っていた。ここ数年に限っていえば、キエルは『天空の聖域』よりも地上で過ごした時間の方が長く、この人間領もすっかり馴染み深い場所となっていた。
ふとキエルはとある店の前で立ち止まり、思い出に浸るように目を細くする。かつてキエルがバイトをしていた喫茶店であった。
「……おお! やっぱりキエルさんじゃないか!」
その店から初老の男性が出てきて、キエルのもとに歩み寄ってくる。この喫茶店のマスターである。
「久しいなマスター。元気そうで何よりだ」
「キエルさんこそ相変わらず元気そうで安心したよ。急に辞めると言われた時は驚いたもんだ。何かあったのかい?」
「……まあ、色々とな」
キエルが七星天使の一人であることなどマスターは知る由もないので、事情ははぐらかす他なかった。
「戦況(経営)の方はどうだ? 俺が参戦する(働く)前からこの店は人員が不足していたし、俺が戦線を離れてからはさぞ苦戦を強いられたことだろう」
「いやあ、それが先日新しい子が入ってきてくれてね」
「ほう。増援か」
「その子がキエルさんよりもずっと優秀で――コホン。き、キエルさんにはまだまだ及ばないけどね!」
「だろうな。戦場において俺と肩を並べる者など、そうはいないだろう」
バイトになると途端にポンコツ化するキエルだが、当の本人にはその自覚がまるでなかった。これにはマスターも思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「それで、今日はどうしてここに? 何か用事でもあるのかい?」
「……ただの気まぐれだ。邪魔をして悪かった」
「キエルさん」
店の前から立ち去ろうとしたキエルを、マスターが優しい声で呼び止める。
「またウチの店で働きたくなったらいつでもおいで。やっぱりキエルさんがいないと寂しいからね」
「……ああ」
マスターに笑みを返し、キエルは喫茶店を後にする。覇王との決着がついた暁には、また戦場の日々に戻るのも悪くないかもな……そうキエルは思った。無論、キエルが覇王に勝てばの話ではあるが。
そして次はどこに向かおうかと、キエルが思案していた時だった。不意にキエルは遙か遠くから一つの気配を察知した。微弱ではあったが、それは間違いなくミカの気配だった。
「ミカ……何故あいつが地上にいる……!?」
ミカは『天空の聖域』の城で寝ているはず。まさかあの衰弱した容態で地上に降りてきたというのか。ならば断じて放っておくわけにはいかない。
しかし察知した気配はかなりの遠距離であるため、流石のキエルも正確な居場所を特定するのは困難を極める。それでもキエルは人間領巡りを打ち切り、その微弱な気配だけを頼りにミカのもとへ馳せていった。
☆
これはユナとミカがまだ幼く、森の中で暮らしていた頃のお話。
「ただいま、ミカ」
森全体が夜の闇に覆われる中、一人姉の帰りを待っていたミカが、今にも泣きそうな顔でユナのもとに駆け寄る。
「どこ行ってたのお姉ちゃん! すごく心配したんだよ!?」
「……ごめんね」
するとユナは、ポケットからある物を取り出してミカに見せた。ユナの手の平に乗っていたのは、一個の小さなチョコレートだった。ミカは目を丸くして姉の顔を見る。
「お姉ちゃん、これって……」
「今日、ミカの誕生日でしょ? だからどうしても何かプレゼントしたくって。ミカ、甘いもの大好きでしょ?」
「……!!」
「ごめんね。こんな物しかあげられなくて……」
ついにミカは我慢できなくなり、泣きながらユナの胸に飛び込んだ。
「ありがとう、お姉ちゃん。すっごく嬉しい……!!」
「もう。相変わらずミカは甘えん坊ね」
ミカが泣きやむまで、ユナは頭を優しく撫でてあげた。
「……お姉ちゃんの分のチョコは?」
「手に入れたのはその一個だけなの。今日はミカの誕生日なんだから、気にせず食べちゃって」
「…………」
しばらくミカは渡されたチョコを見つめた後、それをパキンと半分に割り、片方をユナに差し出した。
「一緒に食べよ、お姉ちゃん」
「……いいの?」
「もちろん」
「……ありがとう。ミカは優しいわね」
ユナとミカは切り株の上に寄り添うように座り、半分の大きさになったチョコを仲良く食べる。
「おいしいね、お姉ちゃん」
「うん」
ほんの少しの量だったが、そのチョコは二人のお腹をいっぱいに満たした。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「私、お姉ちゃんのこと大好き。お姉ちゃんは?」
「私も大好きよ、ミカ」
「えへへっ。これからも、ずっとずっと一緒にいようね」
「……うん」
ミカに笑顔を返すユナ。だが、一方でユナは思っていた。せめてミカだけでも、今の暮らしから解放してあげられないだろうか。こんな小さなチョコじゃなく、もっと沢山の甘い物が食べられるように……。
☆
深夜。冷えきった空気を肌に感じながら、ユナは森に辿り着いた。幼き日を二人で過ごした、この森に。
ユナは静かに森の奥へと進んでいく。落ち葉を踏みしめる度に、数々の思い出がユナの脳裏に蘇ってくる。
これまで二度、ユナはミカと闘った。一度目は七星の光城で。二度目はガブリが創成した空間で。その二回とも、ユナはミカと闘うことに迷いがあった。それもそのはず、実の妹と本気で殺し合うことなどできるはずがない。
だが、今のユナには不思議と迷いはなかった。それは何故なのか。ミカがもう長くはないと知って気持ちが吹っ切れたのだろうか。だとしたら皮肉な話である。
今度こそミカはユナを殺すべく闘いを挑んでくるだろう。もし、闘いの果てでしかミカと分かり合うことができないのだとしたら――
「…………」
やがてユナは足を止め、その先を真っ直ぐに見据える。幻想的な雰囲気を演出しているかのように、星々の光が注がれている場所。その中心で、ミカは姉を待ち受けていた。