第184話 キエルの覚悟
天使と悪魔の最大勢力による第二次大戦が終結し、その余熱も冷め切った頃。キエルは満身創痍のミカを抱えて『天空の聖域』に戻り、城へと帰還した。その時には既にガブリとエリトラは城から姿を消していた。
キエルはミカを部屋まで運び、そっとベッドに寝かせて毛布を被せる。ユナとの闘いでかなり消耗したらしく、まだ目を覚ます気配はない。キエルは近くの椅子に腰を下ろし、大きく息をついた。
「……あんな男でも、いなくなると少しは寂しさを感じるものだな」
ガブリが無惨な最期を遂げた光景が、キエルの脳内に鮮明に蘇る。あの時キエルは戦場において初めて〝恐れ〟という感情を懐いた。その対象は、言うまでもなく覇王である。
覇王と闘うにあたって最も警戒しなければならないのは、その圧倒的なステータスと数多の強力な呪文――普通はそう考えるだろう。現にガブリは自分が最大限に有利となるフィールドに覇王を誘い込み、その二つを見事に封じ込めてみせた。誰が見てもガブリの策は万全だった。が、それでもガブリは覇王の前に敗れた。
そこでキエルは理解した。覇王の最大の脅威は、圧倒的なステータスでも、数多の強力な呪文でもない。あの敵を死に至らしめるまでの〝戦術〟だったのだと。ガブリはそこを見誤っていたのだ。
覇王はガブリとの闘いにおいて複数の呪文を使用したが、結果的にガブリを葬るまでの過程で用いた呪文は【不変証文】のみ。そのたった一つの呪文と、配下との連携、そして狡猾な話術によって、奴はガブリを葬ってみせた。ステータスが大幅に減少しようが強力な呪文が発動できなくなろうが、覇王には些細な問題だったのである。
「……とうとう七星天使も、俺とお前だけになってしまったな」
ミカの寝顔を見ながらキエルが呟く。これまでの闘いで散っていった五人の七星天使。キエルは彼らの死を悼むことはあっても、決して敵を恨むことはない。それが生死を賭けた闘いならば敗者が死ぬのは必定だと、キエルは割り切っているからだ。
『ミカは身体が弱い……お前が守ってやってくれ……』
そんなキエルに、ふとセアルが死に際に残した言葉が蘇り、キエルは一抹の不安を覚える。覇王との決着の時は刻一刻と迫っている。だが、果たしてあの恐るべき男に勝てるのだろうか。セアルやガブリがそうだったように、自分も覇王の圧倒的な力と戦術の前に敗れ去り、彼らの後を追うのではないか。そうなったら、一体誰がミカを守ればいいのか――
「……馬鹿か、俺は」
ほんの一瞬でも弱気に駆られた己の心をキエルは叱責する。闘う前から敗北した時のことを考えるなど論外だ。その時点で負けを認めているようなものである。自分が覇王に勝てば何の問題もないではないか。憂慮すべきことなど一切ない。
それからキエルは二人の女天使を部屋に呼び、交替でミカの看病をするよう命じた後、城を出て人間界に向かうことにした。覇王との決戦の時までまだ時間はあるが、今の内に自らの足で地上を見て回ろうと思い立ったからだ。これまで過ごした、思い出深い場所の数々を。
☆
七星天使との大戦を終えた翌朝。僕は一人、ある場所を訪れていた。先日ラファエと死闘を繰り広げた荒野である。
やがて僕は、地面に飛び散った大量の血の跡を発見する。おそらくここで、ラファエはガブリに殺されたのだろう。一体どんな感情を懐いて最期を遂げたのか、僕には想像もつかない。
そのガブリは葬り去った。だが、それで敵を討ったと胸を張るつもりはない。ラファエの死は間違いなく僕にも責任があるからだ。
「……罪滅ぼしくらいにはなっただろうか」
許してくれ、とまでは言わない。だが、どうかあの世で安らかに眠ってほしい――そう僕は心の中で付け加える。そして短く黙祷した後、僕は【瞬間移動】を発動し、その場を去った。
覇王城の大広間に帰還した僕は、玉座にゆっくりと腰を下ろす。ガブリが死んだことで、奴がペータにかけていた呪いも解け、回復呪文の適用が可能となった。今は自分の部屋で気持ちよさそうに寝息を立てている。
アンリはというと……同じく自分の部屋にいるが、未だに目をハートマークにして気を失ったままである。まあアンリには苦労をかけたし、もうしばらく寝かせておいてやろう。
昨日の闘いによって、ガブリという最大の脅威を排除できたことは非常に大きい。これで人間や悪魔が危機に晒される心配はほぼなくなったと言っていいだろう。
あとはキエルと決着をつけ、今も囚われているセレナの姉やサーシャの父、その他大勢の人々の魂を取り戻すだけだ。キエルなら逃げも隠れもせず、正々堂々僕との闘いに臨むだろう。その時こそ、人間と悪魔が共存できる世界を創るという僕の理想の実現に大きく近づくことができるはずだ。
なのに、何だ? この嫌な胸騒ぎは……。果たしてそれで本当に全ての闘いが終わったと言えるのだろうか。何か更なる脅威が迫っている予感が――
「!」
不意に扉をノックする音が響き、意識が現実に引き戻される。間もなく一人の悪魔が大広間に入ってきた。
「ご報告申し上げます。現在エリトラ様の捜索を続けておりますが、未だに発見には至っておりません。これといった目撃情報も得られず……申し訳ございません」
「……そうか」
昨日から覇王軍の悪魔達に命じてエリトラを捜索させているが、どうやらまだ見つかっていないらしい。一体あいつはどこに行ったのか。あれだけ目立つ格好で目撃情報すらないとなると、意図的に姿を眩ましているとしか思えない。せめて手掛かりはないものか。キエルは何か知っているような雰囲気だったが……。
「ユナは今何をしている?」
「ユナ様は昨日から城の周辺を巡回しておられます。一睡もしておられないようなので心配ではございますが……。お呼びした方がよろしいでしょうか?」
「……いや、よい」
城の周辺を巡回、か。一見敵の襲来を警戒しての行動に思えるが、ガブリ亡き今この城に攻め込む度胸のある者などもはや皆無だろう。少なくとも四滅魔の一人であるユナが睡眠時間を犠牲にしてまでやることではない。
やはり昨日の闘いからユナの様子がおかしい。ミカとの間に何かあったとしか思えない。
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