第173話 エリトラの正体
僅かな静寂の後、エリトラは我に返ったかのように小さくかぶりを振った。
「我としたことが、取り乱してしまいました。今のは忘れてください」
その口調は元に戻っていた。エリトラの突然の独白は予想外だったらしく、キエルはしばし目を見開いていた。
「……復讐に闘志を燃やすタイプではないと思っていたが、なるほど。お前の強さの原点はその復讐心か。お前の過去に一体何があった?」
「さあ? さすがにそこまで話すつもりはありませんね」
「……そうか。ならばその仮面の下に隠れた素顔、ますます暴いてみたくなったぞ」
「ホホホ。やれるものならやってみてください!」
エリトラは懐から八本のナイフを取り出して左右の手に四本ずつ持つと、それらを構えたまま胸の前で扇状に広げ、キエルに向けて走り出す。それはこれまでナイフを投擲物としてのみ利用してきたエリトラが新たに見せる戦闘スタイルであった。
「む……!」
まるで両手の延長のようにナイフを繰り出すエリトラに対し、キエルは動体視力だけで回避し続ける。しかし全ての回避には限界があり、ナイフの切っ先がキエルの頬を僅かに掠め、血が噴き出る。
それでも容赦なくエリトラの攻撃は続く。そしてキエルの動きに僅かな隙が生じたのを見計らい、エリトラはキエルの足を狙って左手の四本のナイフを投擲する。足さえ封じれば勝負は決したも同然。しかしキエルの反応速度が紙一重で上回り、キエルは斜め後方に跳んで回避。四本のナイフは虚しく地に刺さる。
だがそれもエリトラの狙い通りであった。キエルが空中にいる間、エリトラは瞬時にキエルの落下地点を予測し、そこを目がけて右手の四本のナイフを投擲する。エリトラの予測は寸分違わず的中しており、コンマ数秒後にキエルは四本のナイフによって串刺しにされることになる。流石のキエルも空中では回避のしようがない。
無論、それは呪文に頼らなかったらの話である。
「呪文【地層刻限】!!」
ここでキエルはこの戦闘において初めて呪文を発動する。以前ユートと風船配りのバイトをした際、一人の子供が風船から手を離してしまった時に使った呪文である。
その効力は一定の範囲内に存在する万物の時の流れを一万分の一にすること。ただしレベル500以上の生物、及びその生物に触れている物体はこの呪文の影響を受けない。これによりエリトラが投擲したナイフは空中でピタリと静止し、キエルは無事に着地することに成功した。
だが【地層刻限】の影響を受けないのはエリトラも同様である。突然の時間の停滞にも全く動じることなく、すぐさまエリトラは空中で静止した状態の四本のナイフを再び手にして疾駆する。着地したばかりのキエルが次の動作に移るまでには僅かなタイムラグがあるはず。それを見逃すエリトラではなかった。
「呪文【土壌領域】!!」
しかしそれを読んでいたキエルは、既に二つ目の呪文を唱えていた。【土壌領域】は前回のエリトラとの戦闘でも使用した呪文であり、以前キエルはこの呪文で床や天井を〝土〟に変えてみせた。エリトラの脳裏にもその時の記憶が過ぎる。
だがたとえこの瓦礫全体が土に変わろうとも、エリトラの疾走は止まらない。その土で防壁を形成しようにも間に合うはずもない――その過信こそが仇となった。
「ぐっ!?」
突然身体のバランスが崩れ、エリトラの疾走速度が急激に落ちた。
キエルが【土壌領域】で土に変えたのは、マンホール蓋ほどのほんの一部分だった。キエルはそれをエリトラが疾走する直線上に仕掛け、エリトラの片足がそれを踏み込んだのである。
疾走の途中で一方の足だけが柔らかい土を踏んでしまえば、バランスが崩れるのは必定である。エリトラが【土壌領域】を一度目にしていたこと、そしてそれがフィールド全体に効果を及ぼす呪文だと思い込んでいたことが命取りであった。
この隙を突いて疾駆するキエル。反射的にエリトラは右手のナイフを投擲するが、それは失態だった。まだ【地層刻限】の効果は継続中であり、四本のナイフはエリトラの右手から離れた瞬間に静止してしまう。
もはや回避の余裕はない。キエルの拳が炸裂することを見越したエリトラは、咄嗟に両腕を胸の前で交差させ、多少のダメージは覚悟で防御態勢に入る。
「っ!?」
だがキエルの狙いはエリトラにダメージを与えることではなかった。キエルの拳が炸裂することはなく、代わりに左手の甲がエリトラの仮面を打ち払う。最初からキエルの狙いはエリトラの素顔を暴くことにあった。
覇王や他の四滅魔にも見せたことのないエリトラの素顔が、ここで初めて晒される。
「なっ……!?」
しかし衝撃を受けたのは、むしろキエルの方だった。何故ならキエルがその顔を見るのは初めてではなかったからである。
目を見開いて硬直するキエル。それはエリトラにとってまたとない反撃のチャンスであったが、エリトラは肩の力を抜き、ただ深々と嘆息した。
「……見られてしまいましたか」
もはやエリトラから闘志は感じられない。間もなく【地層刻限】の効力が切れ、空中で静止していたエリトラの仮面が本来の時の流れを取り戻し、地に落下する。
「お前は七年前の……メルエス村の少年……!」
「……やはり覚えていましたか。だから貴方には見られたくなかったのですよ」
エリトラはキエルに背を向け、静かに仮面のもとまで歩き出す。
七年前、元第二席レミエの指揮によって七星天使が滅ぼした人間の村……それがメルエス村。キエルにとって決して忘れることのできない、苦々しい記憶である。そしてエリトラは、そのメルエス村の唯一の生き残りだった。
そう、人間の村の生き残り――それはつまりエリトラが悪魔ではなく、人間であることを意味していた。
「……人間のお前が、何故覇王の部下に?」
「さて、何故でしょうね」
エリトラは仮面を拾い上げ、惚けたように肩を竦める。一方キエルの脳裏には、先程のエリトラの独白が蘇っていた。
確かにエリトラは言った。天使を、そして人間を許せないと。七星天使によって故郷の村を滅ぼされたエリトラが天使を恨むのは当然と言えるだろう。だが何故、同じ種族である人間にまで恨みを抱くのか。
「お前が天使を恨むのは分かる。だが何故、人間にまで憎しみを向ける?」
エリトラは哀しげな目で仮面を見つめた後、口を開く。
「我の師匠が……ジェネシスが、人間に謀られ、殺されたからです」
「お前の師匠……?」
「おっと。少々お喋りが過ぎましたね」
エリトラは再び仮面を装着し、キエルの方に向き直った。