第120話 サーシャの手紙
それはサーシャからの手紙だった。僕に宛てられたものと見て間違いないだろう。六歳の子供が書いたとは思えないほど端正な字体である。
それはともかく〝緊急事態〟とは一体……。状況を書く余裕もないほど切羽詰まっているのだろうか。
手紙の下部には人間領西方面の簡単な地図が書かれており、ある地点に赤色で×印が書かれている。ここに来てほしいということだろう。そこは海の近くであり、サーシャのアジトからは少し距離がある。
「なんすかなんすか? 何が書かれてるんすか?」
「こらペータ!! 注意した矢先に何やってんのよ!!」
ぴょんぴょん跳びはねて手紙を覗き見ようとするペータを、ユナが首根っこを掴んで制止する。
それにしても何故リナまで? 僕一人では手に余る事態というのはそうそう起きるものではないだろう。まさか人間領に七星天使が現れたのか……!?
仮に七星天使だとするなら、それはガブリの可能性が高いだろう。あいつは十日前の戦いにおいても結局最後まで姿を現さなかった。今最も動向を警戒しなければならないのがコイツだ。
まあ、それは実際に行ってみれば分かるだろう。一応リナも連れて行くとするか。念のためこの手紙は呪文で燃やした。
「ユナ、ペータ。余には急用ができた。少しの間この城を離れることにする」
僕の発言に、ユナとペータは目を丸くする。
「それはユート様が直々に向かわなければならない用事なのですか?」
「そうだ。どれくらい掛かるかは分からないが、三日もあれば戻ってこれるだろう」
「はいはい! ウチもユート様のお供をするっす!」
父親の外出に付いていきたがる娘のように、元気よく手を挙げるペータ。
「気持ちは嬉しいが、その必要はない。連れていくのはリナだけのつもりだ」
「えーっ! ウチもユート様のお力になりたいっす! なりたいっすー!」
「ペータ!! ユート様の前で行儀が悪いわよ!!」
「う~……」
またもやユナに注意され、ペータは口を尖らせる。そんなペータを宥めようと僕が優しく頭を撫でてやると、ペータは満足そうに頬を赤くした。なんだか本当に一児の父親になった気分だ。
「それでは行ってくる。アンリには『憂さ晴らしに人間共とじゃれ合ってくる』とでも伝えておいてくれ」
こう言っておけばアンリは「人間を殺しに行く」と勝手に解釈してくれるだろう。また僕がいなくなる寂しさに耐えられるかどうか気掛かりではあるけど。
それから僕はリナの部屋まで出向き、ドアを軽くノックした。
「あっ、お兄様。何か御用ですか?」
静かにドアが開き、リナが姿を見せる。奥の机の上には一冊の本が開いた状態で置かれている。どうやら読書の最中だったようだ。
「急で悪いが、これから人間領に向かう。リナにも一緒に来てもらいたい」
「……人間領に、私もですか?」
「ああ。事情は後ほど説明するが、できるだけ早く準備を頼む。行きたくないのであれば無理強いはしないが……」
「いえ、行きます! 行かせてください! 少々お待ちくださいませ!」
パタンとドアが閉まり、ドタバタと慌ただしい音が聞こえる。そこまで急がなくてもと思ったが、サーシャの手紙には「緊急事態」と書かれてあったし、あまりのんびりはしていられないだろう。
「お待たせしました!」
数分後。麦わら帽子を被り、白のワンピースを着たリナが部屋から出てきた。右腕に小さなバッグまで提げており、完全にお出かけ用の格好である。その場で固まる僕を、リナが不安そうに見つめる。
「あ、あの、何かまずかったでしょうか?」
「……いや」
まあ、事情の説明を後回しにした僕が悪いだろう。もう一度準備させている時間はないし、このまま連れて行くしかない。
向かう先は人間領だし、覇王の姿を晒すと面倒なことになるだろう。となると久々に人間態の出番か。
「では早速出発するとしよう。呪文【瞬間移動】!」
地図で示された場所に転移した僕とリナ。直後に僕は【変身】を発動し、人間・阿空悠人の姿になった。
「わあ、綺麗な海ですね……」
そこは地図の通り海辺であり、眼前には広大な海が広がっていた。まるで宝石を散りばめたように輝いており、奥の海底まで光が届いている。前世の日本で何度か海水浴に行ったことはあったが、その海とはまるで比べものにならない。
「私、海に来たの初めてなんです」
「そうなのか。この地域は気温も高いし、思わず泳ぎたくなるな……」
などと悠長に語っている場合ではない。ここに来た目的を忘れるな。
まず僕は周囲を軽く見渡してみる。しかし今のところそれらしき事態は何も見当たらない。場所はここで合ってるよな……?
「ところでお兄様。何故このような場所に?」
「実はサーシャから手紙が送られてきて、ここに来てくれと書かれてあったんだ」
「サーシャさんから、ですか?」
「ああ。なんでも緊急事態が発生したらしい。詳細は書かれてなかったけど、わざわざ僕を呼ぶってことは相当深刻な状況なのかもしれない」
「そ、そうだったのですか!?」
驚愕の声を上げるリナ。
「そうとは知らず、私ったらこんな格好で……」
「ごめん。先に事情を説明しておくべきだったな」
「あ、いえ、お兄様が謝る必要は……。でも、どうして私まで?」
「可能であればリナも連れてきてほしいって書かれてあったからさ。巻き込んで悪いな」
「私なら全然構いません! むしろお兄様のお力になりたいです!」
「……そう言ってくれて嬉しいよ」
僕は再度周囲を見渡す。緊急事態とは無縁と言っていいほど平和な雰囲気である。サーシャが場所を間違えた、なんてことはないよな……?
「おっ。二人とも来てくれたようだな」
すると示し合わせたように一人の幼女が歩いてくるのが見えた。言うまでもなくサーシャである。虫採りにでも行くようなラフな服装で、呑気に手をヒラヒラさせている。
「久し振りだなユート、リナ。と言っても十日振りくらいか。元気にしていたか?」
「そんな挨拶してる場合じゃないだろ!! 緊急事態はどうした!?」
「緊急事態? ああ、あれは嘘だ」
「……は?」
一瞬キョトンとする僕。
「えー、つまり、何の事件も事故も起きていないと?」
「そういうことだ」
「なんだそれ!!」
僕は古いギャグ漫画のように盛大にずっこけたのであった。