ある日の近江華恋の朝
『明日は日直だから、早く起こして!よろしく』
昨晩、侍女とこんな会話をした。
「華恋お嬢様、起きてください。朝です」
お嬢様である華恋の朝は、侍女のこの言葉で始まる。
今日は、侍女の中でも特に仲のいい百合の声で始まった。
んー、と伸びをした後、ベッドから降りて、百合の方を仰ぎ見て聞く。
「圭は、まだ来てないわよね?」
幼馴染であり、同じ部活の部長・副部長という関係でもある圭とは、毎日二人で登校している。
「はい、まだです」
百合の報告に安堵しながらゆったりと階段を下りて、一般的なものの二倍を軽く超える大きさのリビングに入り、挨拶をする。
「おはようございます」
深々と頭を下げて待っても、耳に入るのは華恋と百合の息遣いのみ。
さすがに不審に思い百合を振り返ると、申し訳なさそうに頭を下げられた。
「お嬢様。旦那様と奥さまは、仕事の都合でアメリカに行かれました。大和様もご一緒です」
「…また、私は置いて行かれたのね」
両親が仕事の都合で海外に行くのは、幼い頃からだった。幼い頃は一緒に行っていたが、八年前に弟の大和が産まれてから…というより、大和が母のお腹にいる頃から、華恋は日本に一人取り残されている。最近は、一か月ほど向こうに滞在して一日この家に帰って来て、また翌日には違う所に行くことが多い。だから、華恋が両親と弟に会えるのは月に一度くらいだ。最初は寂しかったが、もう慣れてしまった。
「お嬢様、今日の朝ごはんはフレンチトーストですよ。お好きでしたよね?」
少ししんみりとしてしまったリビングの空気を入れ替えるように、百合が明るく話を振ってくれた。
「ええ、フレンチトースト大好きよ?ありがと百合」
いえ、これが仕事ですもの。
そう言って百合は、スカートの裾を翻してキッチンに行った。
「お嬢様どうぞ」
数分経って百合が差し出したのは、綺麗に焼き上げられたフレンチトースト。
「ありがと。百合も一緒に食べましょ?」
「え。さ、流石にそれは…」
「んもう。お父様もお母様もいないから大丈夫よ。もし怒られたら言ってくれたらいいし」
渋る百合を無理やり座らせ、彼女の分のフレンチトーストを前に置く。
最初は怖々とした感じだったが、華恋が話を振っていく内に、いつもと同じくらい話すようになった。
華恋は、家族と海外を飛び回るより侍女と過ごす時間の方が好きだった。
月に一度しか会えない家族と、ほぼ毎日顔を合わせる侍女。
どちらかを選べと言われたら、華恋は迷わず侍女を選ぶだろう。
しかし、そんな華恋には好きな人がいる。家族より侍女、侍女より好きな人。それが華恋の中での優先順位で。
不意に、リンゴーンと重たいベルの音が響いた。
「ふふっ、来られましたね」
百合が、穏やかな笑みを浮かべながら玄関に向かう。
荷物を持って玄関に行くと、予想通りの――愛しい人の姿。
「おはよう華恋」
その愛しい人が、穏やかに微笑む。
「おはよう圭。いってきます」
お互い柔らかな笑みを浮かべて、家を後にする。
華恋にとっての幸せは、愛しい人――圭と登校すること。
これが近江華恋の日常。