逆さの告白
「あー疲れた」
肩からかけていた鞄を置いて、美也はどっかりと椅子に座った。
「お疲れ。だいぶやられてるみたいだな」
先日、社会人になって以来音沙汰のなかった美也から久しぶりの連絡があった。便りがないのは元気な証拠、とは言うが、2か月以上も連絡がないとさすがの彼も心配だったので、こっちから連絡しようかと悩んでいたところへ久しぶりの連絡だった。「今度一緒にご飯でもどう?」もちろん断る理由はなく、久しぶりに美也に会える嬉しさに二つ返事でOKした。
「もう毎日歩かされて足が棒だよ。こんな分厚い資料持たされてさ、新人なんだからもうちょっと優しくしてほしいよ」
足をさすりながら愚痴をこぼす美也はスーツ姿が意外と様になっていて思わず笑みがこぼれる。すると彼女は怪訝な顔をした。
「なに笑ってんの?」
「いや、お前の口から仕事の愚痴が聞けて嬉しいんだよ」
「なによそれ……」
「まぁ、とりあえず一杯飲めよ。ビールでいいか?」
彼は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し、一本を美也に渡した。
「ちょっと、今一瞬見えたけど冷蔵庫の中缶ビールしかなかったよ?」
「男の一人暮らしなんてそんなもんだよ」
そう言って彼は缶ビールを開けた。プシュっと気持ちのいい音がする。つられて美也も缶ビールを開けた。
「ちゃんとまともなもの食べてるの?」
「最近はほとんど外食だな」
「ダメだよ、ちゃんと自炊しないと」
「はいはい」
お互いの缶ビールをチョンとぶつけて簡単な乾杯をする。一口飲んで「おいしい」と美也は白い歯を見せた。
「こうしてお前と飲める日が来るなんてな」
「5つしか違わないのにお父さんみたいなこと言わないでよ」
彼は苦笑する。お父さんか、と。
なんか作ろうか? と美也は立ち上がり台所へ向かった。
「作るも何も、食材なんか入ってないぞ。あるのはつまみくらいなもんだ」
「ちょっとくらい何かあるでしょ」
エプロンも無いの? 信じられないといった感じで冷蔵庫を開ける。さっと目を通して、かろうじて入っていた野菜と卵を取り出し、美也は手際よく料理を作り始めた。そういえば昔から料理が得意だった美也は、きっと料理関係の仕事に就くのだと思っていたが、彼女が選んだ仕事は彼と同じ会社員だった。
「なぁ、なんで料理の道に進まなかったんだ?」
彼がそう尋ねると美也は「え?」と聞き返した。ちょうどフライパンで野菜をいためていたところだったので聞こえなかったのかと思い、もう一度訪ねようとしたが、美也の手際の良さに見惚れているうちに突然「ピーマン」となんの脈絡もない言葉が聞こえて「は?」と見当違いな声を上げてしまった。
「食べられるようになったんだね。タカくんピーマン苦手だったでしょ?」
「ああ、意外と旨いんだな、ピーマン」
「冷蔵庫に野菜なんて少ししかなかったのにピーマンが入っててびっくりしたよ」
お待たせ、と美也が冷蔵庫の残り物で作った料理は、簡単に作ったとは思えないほど手が込んでいてどれも旨そうに見えた。
「美也はいい嫁さんになるだろうな」
「それ、セクハラだからね」
「会社の女の子にも言われるよ。俺もおっさんになったんだなぁって実感する」
自嘲する彼を見て美也はふふっと含んだように笑う。
「もう27だもんね。言葉に気を付けないと今の子は怖いよ? タカくんはもう上司なんだから」
「そうだな。美也に言われると説得力があるよ。なんたって俺の身近にいる『今の子』代表だもんな」
気をつけなさいね。と意地悪く言って美也は残っていた缶ビールを飲み干した。
美也の作ってくれた料理に舌鼓を打ちながら互いに2本の缶ビールを開けたところで美也は「トイレどこ?」と立ち上がった。
「あっちの洗面所の隣だ」と指さす。
美也がトイレに行ったところで彼は台所へ向かった。350mとはいえ、2本を飲み干しても美也はまるで酔った様子がなかったので酒の量が足りるかを確認したかった。久しぶりに会いに来たのはきっと愚痴を言いに来たのだろうと思った。そんなことでも自分を頼ってくれるのは嬉しかったし、それならば今日くらいはせめて美也の気が済むまで付き合ってやりたい。
冷蔵庫を開けて残りのビールを数えていると、「ねぇ」と今しがたトイレに行ったはずの美也の声がして彼は顔を上げた。
「どうした? 場所わからなかったか?」
「タカくん、彼女とかいないの?」
突然そんなことを言い出した美也はいつになく神妙な顔をしていた。
「突然なんだよ?」
彼が冷蔵庫を閉めて立ち上がると、美也は彼の後ろにあるシンクを指さした。
「エプロン」
「は?」
「無かった」
振り返ってシンクを見る。あるわけがない。一人暮らしをするようになって今まで数えるほどしか自炊をしたことがないのだから。
「無いな、必要ないし」
「スリッパも一組しかなかった」
美也は玄関を指さす。つられて彼も玄関を見た。もちろん、一人暮らしの彼の部屋にはスリッパなんて物は一組しかない。
「無いな、必要ないし」
「洗面所にも歯ブラシ一本しかなかった」
「一本あれば、十分だ」
美也が何を言いたいのか彼にはさっぱりわからなかった。恋人がいない自分を憐れんでいるのか、それとも蔑んでいるのか、表情を確認しようとよく顔をのぞいてみても、美也は表情を変えようとしないので判然としない。
「あれ? てか、お前トイレは……?」
「お兄ちゃん全然気づかないんだもん」
いきなり昔の呼び方をされてドキリとする。
「どうした?」
「よく見てよ」
少しだけ声を大きくして美也は手を広げた。
「なんだよ?」
「このスーツ、お兄ちゃんが買ってくれたやつだよ」
そう言われて初めて気が付いた。そういえばと、就職祝いに一緒にスーツを見に行ったことを思い出す。
「あぁ、そうか。そう言われればそんなやつだったな。よく似合ってるよ」
「あたしもう大人だよ?」
「そうだな。こうして一緒に酒も飲めるもんな」
「あたしじゃ……ダメかな?」
そう呟いて美也はようやく表情を変えた。
「ダメって、何が……」
「あたし、ずっとおにい……タカくんのこと好きだったんだよ?」
思いがけない一言に彼は一瞬自分の耳に入ってきた言葉を理解できなかった。
「お前、酔ってるのか?」
「ちゃんと聞いてよ」
美也の瞳にはうっすらと涙がたまっている。それは彼女が真剣であることを物語っていた。
「ちょっと待て、子供のころからずっと一緒に育ってきて、俺はお前の事本当の妹のように……」
「あたしは違うもん」
彼の動揺は美也の声にかき消された。落ち着けと言い聞かせる。それは美也に向けたものであり、自分に向けて言った言葉でもあった。
「あたしは、ずっと、好きだったんだもん」
その言葉で美也の瞳からとうとう一粒の涙が零れ落ちた。
「タカくん一度でもあたしの事女として見てくれたことあった?」
「それは……」
「もう一度ちゃんとあたしを見てよ。2か月会わなかったよ? ちゃんと一人の女として見てよ……」
彼の目をじっと見ながら、美也の言葉には力強さのようなものを感じた。
鼓動が早くなっていることに気付いて彼は抑えていた気持ちが溢れ出すのを堪えきれなかった。俺はいつから彼女を一人の女として見ていたのだろうか?
「あたしじゃ……ダメかな?」
もう一度そう呟いて美也はとうとう俯いてしまった。
「お前が高校に上がるとき、初めてお前の制服姿を見て綺麗だなって思った」
彼は胸ポケットからハンカチを取り出して美也に差し出した。
「今にして思えば、あの時そう思いながら自分に言い聞かせてたんだ。『美也は妹みたいな存在なんだから変な感情を持つな』って。多分無意識に。だからお前が高校を卒業した時も、大学に入学した時も、就職が決まった時も、妹として見ることでお祝いしてたんだ」
だから、と何かを言いかけた美也を手で制する。
「……俺は臆病だからさ、お前を一人の女性として見ていた自分が許せなかったんだ。俺の事をお兄ちゃんと呼んでくれるお前を好きになってしまうのが怖かったんだよ」
今まで自分に言い聞かせてきた言葉をいざ口に出してみると、途端に自分が卑劣な人間に思えて彼は顔をゆがめた。
「そうか、お前ももう大人なんだよな。……ごめんな? お前のほうから言わせちゃって。ホントはもっと前に俺から言わなきゃいけなかったんだよな」
そう言って彼は大きく深呼吸をした。
「俺も、ホントはずっと前から美也が好きだった。今まで黙っててゴメン」
彼は美也の顔を見ることができなかった。
少しの沈黙の後、美也は無言でハンカチを返して背中を向いた。
「……タカくんがどうしてもって言うなら、付き合ってあげてもいいよ」
「ああ、お願いします」
はい、と振り返った美也は今まで見たこともないほど綺麗な笑顔にあふれていた。
こうして書いてみると、まだまだだなぁ、と実感します。もっと頑張ろう(笑)