かみさま、やっぱりあなたがにくいのです。
私は、確かに幸せでした。
幸せの中に、いました。
可愛いあの子と、優しい彼の傍にいられることが、何よりの幸せだと、そう信じて疑いませんでした。
実際に私はあの時まで幸せだったのだから、それしかないのだと、そう言い聞かせてすらいました。
何がなんだかわからないまま、死んでしまって。
望んでもいないのに、記憶を持ったまま生まれ変わって、あの子と彼のいない、けれど余りにも似すぎている世界に産み落とされて。
確かに私は、不幸でした。
嘆き苦しみ、悲しみに打ちひしがれて、己を哀れみすらしました。
生まれ変わったのだから、じゃあ、新しい家族と共に新しい幸せを、と言えるほど、あの記憶を捨てることは出来なかったのです。
それほど強くもないし、執着心のない人間ではなかったので、当たり前といえばそうなのですが。
そのせいで泣くことになっても、どうしても止められなくて。
そうしたことで手に入れたのは。
多くの人の心を踏み躙ってきたという、後悔だけでした。
私は、どれほど酷い人間なのでしょう。
私は、どれほど身勝手な人間でしょう。
だから、これからは私があの人たちを幸せにしようと思うのです。
なんて、そんなこと出来もしないくせに。
あの日から変わった事が二つある。
あの日、斎賀統夜と、初めて向き合った、あの日から。
私は、あの子と彼との記憶を過去にすることが出来た。
私は、この世界と向き合うことを決意することが出来た。
なんて、聞こえはいいけれど。
実際のところ、どれも、乗り越えられた故の進歩ではなかった。
泣くことを止めた時と変わりのない気持ちで決めた妥協だけど。
それでも、少しずつ乗り越えていけるように、私は強くなろうと決めたのだ。
両親は、気がついたら家に帰って来てくれるようになった。
会話も、普通に出来るようになった。
無口なのはもはや癖みたいなものになってしまって、治っては居ないけれど、なるべく笑うようにした。
そうすれば、何もかもが動き始めて。
少ないけれど、友達も出来た。
あの日言い合いになってしまった飯塚とも和解できて、なにより変わったのは。
「紗奈。わりぃ、遅れた!」
「……………遅い。結構待ったんだけど」
「だ、だから、悪いって言ってんだろ…ごめんてば」
口元が引き攣るのを隠すこともせずに言い放つと、ここまで必死に走ってきたのか、息を切らせている斎賀統夜は、不満ありげに口を尖らせて呟く。
それでも、もう一度謝るということは、本人も待たせすぎたという自覚があるということで。
私は大げさにため息を吐くと、カバンを持ち直した。
「まあ、気にしてないけど。…パフェ一つで手を打とう」
「気にしてんじゃねぇかよ!クッソ、今金欠だって知ってるくせに!」
今度は地団駄を踏みそうな勢いの反応に、思わず笑ってしまう。
斎賀統夜の振る舞いは、歳相応で、私の心を穏やかにさせてくれた。
それは、あの子と重ねているからなのか、違う理由によるものなのかは、今はまだ、わからないふりをしておこうと思う私は、やはり卑怯なのだろう。
「……なんつーか、お前変わったよな」
「…そう?」
「…明るくなったっつーか、笑うようになったよな。無口なのは変わんねぇけど」
目的の場所へ向いながら、まるで自分のことのように嬉しそうに言われた言葉に、私は首を傾げてみせた。
自分でも正直そう思うのだが、他人に言われるのとでは感じ方が違って、少し、ほんの少しだけ照れくさかった。……精神的には40前半のおばさんのくせに、何を思っているのだろうか。
内心苦い思いでいっぱいになりながら、横を歩く斎賀統夜を盗み見る。
やはり成長期だからかいつの間にか追い越されてしまった身長に物悲しさを覚えると同時に微笑ましさも感じられて、ああ、ここが現実なのだと、実感させられて。
「なぁなぁ、もっと、こう、口数増やせねぇの?」
「………なんで」
「いや、なんでって…その方が楽しくね?」
「………そんなもんなの?」
「え、ちげぇーの?」
「私に聞かないでよ」
クスクスと、今まででは有り得なかった微笑みに、若干だが頬の筋肉が引きつった。
それでも、私は笑顔を止めない。
私は、幸せになれるのだ。
あの子が、彼がいなくても。
お母さんやお父さん、兄さんがいなくても。
私は、ここにこうして立っているのだから、幸せになれるはずなのだ。
そして、周りの人たちを、傷つけ続けてきた人たちを、幸せにできるはずなのだ。
その、はずなのに。
会話に一区切り付いたところで、ドン、と腰の当たりに軽い衝撃が走った。
痛くはない。
むしろ、その衝撃は人が、大きさからして子供がぶつかってきたもので、少し柔かみがあった。
一瞬だが揺れた視界に目を丸くし、軽く後ろを振り向く。
私は少しフラついた程度だが、相手は予想通り小さな子供だったらしく、反動で尻餅を付いていた。
まだ幼い大きな瞳に見上げられ、一瞬体が硬直する。
しかし直ぐに我に還ると、慌ててその子供を抱き上げるようにして立たせた。
「……大丈夫?怪我はない?」
「…う、うん」
しゃがんで目線を合わせながら服についた汚れを払っているとふと、相手から視線を感じて、俯いていた顔を上げると、綺麗な澄んだ瞳と視線がかち合った。
じーっと見つめてくる瞳はとても綺麗で、あの子も、こんな瞳をしているんだろうか、とか成長したら、きっとこんな感じだったんだろうな、とか考えが止まらなくて。
「…いっしょ」
「……え?」
ボソリと呟いた言葉に、思わず首を傾げる。
一緒?なんのことだろうか?
考えても思い当たる節も何もなく、取り敢えず子供の言葉を待つことにする。
子供はポカン、と開けていた口を次の瞬間には笑の形に変えて、私の顔を指さした。
「おねーちゃん、おれのかあさんにそっくり!」
「……っ、…へぇ、そうなんだ」
嬉々として発せられた言葉に、一瞬、もしやとありえない予想が頭を過ぎって、次の瞬間には、体が震えた。
一緒?似ている?そっくり?なにが?私が?誰に?
もしかして、なんて、ありえない。
世界には自分に似た人間が三人はいると言うし、それに子供の言うことだ。あまりアテにはならないし、有り得ない。
「ねぇねぇ、とうさん!このおねーちゃん、かあさんにすっごいにてるよ!」
子供の後ろから聞こえてきた慌てたような足音に、勢い良く振り返った子供が、楽しそうに声を上げた。
そして、その子供の背中越しに見えた姿に、息を呑んだ。
ひゅっ、と喉が引き攣り、飲み込みきれなかった空気が間抜けな音を漏らす。
バクバクと、まるで狂ったように鳴り動く心臓がやけに五月蝿かった。
だれか。
誰か、嘘だと言って。
目の前に立つ子供の父親らしき男に、私は確かに、その瞬間幸せを感じた。
優しげなその目元も、頼りなさげに緩められた口元も、記憶よりも少しだけ老けたように感じる相貌も、何もかも、彼にそっくりで。
けれど、それと同時に、悲しくもあって。
だって、この世界は、私がいたところと全く違う場所なのでしょう?
だから私は、生まれ変わって、こうして幸せになろうと頑張っているのでしょう?
なのに、なんで。
「こら、迷惑かけちゃいけないじゃないか」
「う、だって…ねえ、それよりも、そっくりでしょ!?おれ、いっしゅんかあさんかとおもちゃった」
「……まったく…君、息子が迷惑をかけたみたいでごめんよ?」
「ぁ…、い、え、…」
それだけ言うのが、やっとだった。声も同じだ。何もかも、同じ。
なぜ、なぜ、どうして。
なんで、あんなに望んだのに、祈ったのに、願ったのに、どうして。
どうして、諦めた今になって。
「それにしても、本当にそっくりだ」
「でしょでしょ!?」
きゃっきゃとはしゃぐ子供の頭を撫でる姿に、微笑ましさと、どうして私はその隣に居られないのかと言う、身勝手な苛立ちを覚えて。
なぜなぜ、なぜ。
どうして、なんで、意味をなさない疑問ばかりが頭の中を駆け巡り、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息が苦しかった。
会えた、逢えた、あえた。
それで充分じゃないか。
だって、望んでいたことでしょう?
目が合わなくてもいい、気づかれなくてもいい。話ができなくても、と。
会えて、こうして言葉を交わせて。十分すぎるほど、私の願いは叶えられたじゃないか。
だから、平気だ。これ以上を望んだら、今度こそ私は不幸になってしまう。
きっと、もう、立ち上がれなくなってしまう。
だから、だから、笑おう。
そうすれば、きっと。
きっと、なんて、あるはずないことを知っているのに、私は、その事実を忘れていた。
「なぁ、君も、そう思わないか?」
更に後ろに投げかけられた声に、高い、どこか聞き覚えのある声がクスリと笑った。
コツコツと、ゆったりとした足音が近づいてきて、彼の隣に女性が並ぶ。
「そうね、まるで私みたい。これは、将来有望かしら?」
「自分で言うもんじゃないだろ?」
目の前で笑い合うその光景は、確かに私があの時望んだもので。
願ったもので。
祈ってすらいたもので。
信じていた、もので。
足場が崩れる感覚とは、まさにこのことなのかと、どこか遠くを見つめるような感覚でぼんやりと思いながら、私はその場にくずおれた。
突然の私の行動に、彼は、彼女は、あの子は、斎賀統夜は、戸惑ったように口々に声をかけてくる。
けれど、今の私に彼らを気にする余裕なんてなくて。
かみ、さま。
どうしてですか?
私は、あの時確かに死んだのでしょう?
私は、あの時全てを失ったのでしょう?
だから、私は生まれ変わって。
だから、私は新しい人生を歩んでいる。
そして、私は幸せになれる。そのはずでしょう?
なのに、なんでですか。どうしてですか。
なんで、彼の隣に、あの子の隣に、私がいるのですか?
なんで、彼と、あの子と、幸せそうに笑いあっているのですか?
私は、死んだのではなかったのですか?
なんで、私はこうして生きているのですか?
今の私は、一体誰なのですか?
なんで、なんで、なんで。
諦めたのに。受け入れようとしたのに。
なんで。なんで、なんで、どうして!
なんで、私がそこにいるのですか?
私は、ここに。私は、私でしょう?
私は、私は、なんで。
私は、なぜ生まれ変わったのですか?
私は、ただ、幸せを望んだだけなのに。
ただ、笑い合える、そんな日常を欲しただけなのに。
それ以上は、望んでなどいなかったのに。
それでも貴方は、欲深いと言うのですか。
それでも貴方は、分不相応だと笑うのですか。
それでも貴方は、烏滸がましいと突き放すのですか。
私は、確かに幸せでした。
そして、確実に、不幸せの中にいました。
かみ、さま。
私がいったい、何をしたというのでしょうか?
かみさま、やっぱりあなたが、にくいのです。
とても、とても悲しいくらいに、憎いの、です。
それでも受け入れようとしたわたしを、あなたは笑うのです、ね。