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「かみさま、」  作者: 退
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かみさま、あなたはざんこくですね。

 私は、幸せでした。

 幸せ、だったのです。

 だった、そう、過去形。

 この、二十数年。辛いこともありました。

 けれど、それは必ず乗り越えられるもので。

 優しい母と、厳しい父と、意地悪な兄と、そして、平凡な私。ごくありふれた、どこにでもいるような普通の、けれど人並みに幸せな家庭で育ちました。

 多くもなく、少なくもない友人たちに囲まれ、人並みに恋愛をし、苦労を乗り越えて、過ごした学生時代。

 はじめての情報量に四苦八苦しながらも、無愛想な先輩と上司に助けてもらって過ごしたOL時代。

 出会いは取引先との会合で、とても優しい、泣き虫な彼との結婚生活。

 そして、初めて出来た、愛おしい命。

 痛みと、苦しみと喜びから授かった尊いあの子の存在に、涙して、彼と二人で喜びを分かち合って、これからもっと、もっと幸せになれるのだろうと、一緒に築き上げていこう、と笑いあって。

 ずっと、この幸せが続くとは信じてはいませんでした。そこまで、純粋ではありませんでしたし、盲目にはなれませんでした。

 けれど、どんな困難でもこの三人で乗り越えていけると、信じていました。辛いこともあるけれど、ずっと一緒にいられると、そう信じていました。祈っていました。

 すやすやと眠る、この腕の中の小さな赤ん坊に、そう、願っていました。

 名前は何にしよう。ああ、お母さんたちに早く見せたいな。大切な大切な家族の誕生に、あの人たちはどれほど喜んでくれるのでしょうか。

 数日後に実家に帰るという電話をして、病院を愛おしいあの子と彼と共に出たのはお昼過ぎ。とてもいい天気だったのをしっかりと覚えています。

 歩くのはまだ体に悪いという、あまりにも心配症な彼らしい言葉に笑って、けど、確かに体調は万全とはいかず言葉に甘えて、お腹がすいたのか泣いてしまったあの子をあやしながら、病院の入口の、バスやタクシーが駐車するスペースからほど近い場所で私は待っていたのです。

 ああ、早く泣き止んで。ごめんねここではお乳はあげられないの。大丈夫、車に乗ったらお乳を沢山飲ませてあげるから。

 一生懸命に抱えている腕を優しく揺り篭のように揺らし、ああ。お母さんもこんな感じだったのかとふと思って、幸せだなぁ、としみじみと思っていたら、唐突に、私の体は凄い衝撃に包まれました。

 ガシャンッ、という音に、ガラスが割れたのだと理解し、反射的に腕の中のあの子をガラスの破片から守るように抱き込んで、次に来るであろう衝撃に備えた私は、案外冷静だったのかもしれません。

 床か地面か、判断も付かないまま叩きつけられ、鼓膜の裏に響くボキリという音に、どこかが折れたのだと理解すると、ポタポタと、冷たいものが体に降りかかっていました。

 雨かしら、ああそれよりも、あの子は無事かしら、と見えない目をさ迷わせてみました。

 そして、腕の中から聞こえる鳴き声に安心して、遠くで彼の悲痛そうな声が聞こえて、私は無事だと、あの子も大丈夫よと言おうとして、声が出ないことに気がつきました。

 あら、なぜ声がでないのかしら。

 そんな呑気なことを思いながら、雨に濡れた体が冷えてきたことに気づいて、風邪を引いてしまう、とあの子を強く抱きしめて。

 そして、気づいたのです。

 この雨は、雨ではないと。だって、雨音が全く聞こえないのです。耳もダメになってしまったのかと思ったけれど、彼の声や泣くあの子の声は聞こえるので直ぐに違うと気づきました。

 じゃあ、これは何?なんで私は濡れているの?

 遠くで、叫ぶ彼の声が聞こえました。

 痛みは全くありませんでした。

 苦しくもありませんでした。

 ただ、寒いだけで。

 ねぇ、なんで泣きそうな声で私を呼ぶの?

 ねぇ、いかないでって、誰に言っているの?

 私は大丈夫。この子も大丈夫。怪我はしたのだろうけれど、でも、大丈夫よ。

 ああ、お母さんたちには行く日が延びたことを言わなきゃ。きっと、当分先なんだろうな。

 でも、大丈夫。

 大丈夫、そうでしょう?

 とうとう泣き出してしまった彼に思わず苦笑してしまって、手を伸ばそうとして、動かないことに気づきました。

 ああ、折れてしまったのね。ピクリとも動かないや。

 腕の中のあの子の温もりしかわからない。

 私、死なないよね?そうだよね?

 だって、子供が生まれたのよ。名前だって、まだ決めてないわ。

 お母さんたちにも、まだ見せていないのよ。

 まだ、やることは沢山残ってるし、やりたいことだって沢山あるの。

 沢山、あるのに。


 ねぇ、なんで意識が遠のいていくの?

 ねぇ、なんで声も遠のいていくの?

 ねぇ、なんで苦しいの?

 ねぇ、なんで、こんなにも、怖いと感じてしまうの?

 死なない、そうでしょう?

 だって、私、わたし、わた、し。

 全てが閉ざされ、暗闇が訪れる。

 だけど、次の瞬間には、何も見えなかった世界に、光が射した。

 誰かに抱きかかえられる感覚。

 そして。

「元気な女の子ですよ」

 最近聞いたその台詞に、なのがどうなったのか、理解することができなかった。

 あれは全て夢だった?

 あの痛みも、あの寒気も、あの苦しみも、あの痛みも、あの悲しみも。全部、全部。

 だから、私は出産した直後の……あれ?でも、これは違うわ。

 女の子?違うわ、あの子は男の子だったはず。じゃあ、誰のことを言っているの?

 ぼんやりとした世界は、輪郭があやふやで。ここが病院なのはわかるのに、私がどうなってしまったのかは分からなくて。

 何か言おうと開いた口からは、まるで赤ん坊のような鳴き声がして。

 なんで、しゃべれないの?

 なんで、泣いているの?

「ああ、本当。とても元気ね」

 見知らぬ女の人の声に、一瞬、ありえない想像が頭を過ぎった。

 ねえ、これは何?

 なんで私、見知らぬ人の出産に立ち会っているの?

 それとも治療室が同じところにあるの?

 そんなことありえるはずないじゃない。

 すぐさま否定する声が脳内を掻き回して、フワリと浮いた感覚に、得たいの知れない恐怖が沸き上がる。

 なんで、なんで、なんで、どう、して。

「あなたの名前は、紗奈(さな)よ。いい名前でしょう?ふふ、宜しくね、紗奈ちゃん」

 ねえ、どうして、私の名前を知っているの?

 どうして、私は、抱き上げられているの?

 ねぇ、どうして、私の体は小さいの…?

 彼はどこ。あの子はどこ。

 ねぇ、ねぇ、ねぇ。

 


 必死に私の家族の声を求めた耳に届いたのは、見知らぬ女性の声だけでした。

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