Broken leg
夕日も沈み、あたりはうす暗くなってきた。
気が付くと、いつの間にか灯された照明にグラウンドは照らされている。
「こうさかー、ほどほどにしておけよ」
遠くで顧問の坂田先生が叫んだ。
「わかってますよー」
こっちも負けじと叫び返した。
スターティングブロックに足をセットしてクラウチングスタートの構えをとる。
目を閉じ、意識を集中する。
「よーいっ」
マネージャーの掛け声とともに腰を上げる。
――バンッ
スタートピストルの音と同時に俺は駈け出した。
百メートルトラックの三十メートルあたりで俺はスピードを徐々に緩め、足を止めた。そして元の位置に戻った。
「どうだった?」
「うん、完璧です」
笑いながらマネージャーは親指を立てた。
「よしもう一本」
そう言って俺は再度スターティングブロックに足をセットした。
「明日大会ですよ。今日はもうあがったほうがよくないですか?」
マネージャーは心配そうに眉をひそめた。
「ああ、最後の大会だ。だから悔いを残したくないんだよ。もうちょっとだけ付き合ってくれ」
「……わかりましたよ」
マネージャーはそう言って渋々頷いた。
そう、明日は高校生活最後の大会だ。
成績次第では大学からの推薦が来るかもしれない。
実業団からの誘いが来るかもしれない。
元々この高校に入学したのだって陸上での推薦入学だ。中学のころはもちろん、高校に入ってからだって勉強というものをほとんどしていない。
頭より身体を動かすほうが性に合っているのだ。
全身の筋肉を駆使してただ、走る。
意味なんてない。
意味なんて求めていない。考えたこともない。
ただ、走ることが好きだった。
日は完全に沈み、他の運動部もすでに引き揚げた後だった。
よし、もう一本走って今日はやめよう。そして明日に備えて早く寝るのだ。
最後の一本、もしかしたらこのグラウンドで走るのは今日の練習が最後になるかもしれない。そう思うと名残惜しかった。
この三年間を振り返りながら。集中して最後の一本を走った。
――ブチッ
何かが引きちぎれる音が響いた。
マネージャーが間違ってスタートピストルを鳴らしたのかと思ったが明らかに音が違う。
あれ?
目の前に地面が迫っていた。
俺は派手にトラックに転がった。
マネージャーが悲鳴を上げながら駆け寄ってくるのがわかった。
ああ、そう言えばアキレス腱が切れたときは周囲の人も分かるぐらいの大きな音がするって昔聴いたことがあったな。
蹲りながらふとそんなことを思い出した。
アキレス腱断裂。
病院に運び込まれた俺は予想していた通りそう診断された。
明日の大会はもちろん出場は不可能。
治療法として手術をするか、保存療法としって自然にアキレス腱がくっつくまで約六週間ギプスをして過ごすか、それぞれのメリット、デメリットなど説明を受けたが。そんなものが頭に入ってくるはずもない。
ただ、呆然と絶望していた。
先生もマネージャーも、駆け付けた両親も、俺になんと言って声を変えたらいいか迷っている様子だ。
何も言わないでくれ。
そんな痛々しい目で俺を見ないでくれ。
くそっ! くそっ!
なんで、なんで今日に限って!
嗚呼、自分自身のせいか。
先生もマネージャーも止めてくれたのに。今思えばいつも以上にハードな練習をしていた。
同じ大会に出る奴らは早々に帰って身体を休めていたっていうのに、俺は、俺は!
自業自得。
そう分かっているから怒りのやり場が見つけられなかった。誰かといるとその人に当たってしまう、ものがあると壊してしまいたくなる。
ちくしょう、ちくしょう……。
誰もいない公園に来た。
いつも歩いて二、三分で着くこの公園に来るのに、慣れない松葉杖だとその倍以上もかかってしまった。
「はあ……」
ベンチに座り大きな溜め息をついた。
終わった、もう、何もかも終わった。
まるで死刑宣告をされた囚人のような気分だった。
この三年間を思い返す。毎日、毎日、ひたすらに、がむしゃらに走り続けた。吐くまで走ったこともある。辛かった、だけど充実もしていた。
その全ての結果が明日に出るはずだった。
だけで、一瞬ですべてが砕け散った。
「ちくしょう……」
目頭が熱くなる。
気を抜くと涙がこぼれそうだった。
「ちくしょう……」
そうこぼしたと同時に涙もこぼれてきた。
もう止まらなかった。
嗚咽交じりで涙を流した。
どんなに辛い練習のときだって、どんなに叱られたって泣くことはなかったのに。
「どうしたの?」
不意に声が聞こえた。
驚いて顔を上げるとそこにはジャージ姿の少女が立っていた。
人が来る気配なんて全くなかった。まるで今そこに浮かび上がったかのように彼女はそこにいた。
今さら隠しようもなかったが急いで涙をぬぐった。
「いつから、そこに?」
「いまさっき。散歩コースなの」
「そう……」
泣いているところを見られ気まずかったので早く立ち去ってほしかったが、少女はそこに立ったまま俺のほうをまっすぐに見つめていた。そして、
「どうしたの?」
と、最初の台詞をもう一度言った。
「ちょっと、怪我してね」
「怪我したぐらいで大の男がそんなに泣く?」
喧嘩を売っているかのようなものいいに少々俺はいらっとした。
「明日……、大会だったんだよ、……最後の。……もういいだろ、行ってくれ」
怒鳴る勢いで俺は言い放った。
「ふーん、その怪我は今日?」
それでも少女はまだ質問を続けた。
「……そうだよ」
何の意図があって彼女は俺にこんな質問をするのか、若干訝しく思った。
「ねえ……」
「なんだよ」
うんざりしながら俺は答えた。
「私を殺せば世界が戻るよ」
平坦な声で、無表情に彼女は言った。
あまりに内容と態度がマッチせず、そしてあまりに突拍子もなく言われたので、意味が理解できず俺の思考は一瞬止まった。
「なんだって?」
聴き間違いかと思い俺は聴きなおした。
「私を殺せば世界が戻るよ」
冷静に聴いてみても彼女の言葉の意味はさっぱりだった。
「えっと、どういう意味?」
一瞬足を失った悲しみを忘れるほどに俺は戸惑っていた。
「だから、あなたが、私を、殺せば、世界が、戻るの」
何度も聞き返す俺にいらだったのか彼女は短く言葉を切ってそう言った。
「世界が戻るって?」
「そうね、今日はだったら朝の七時半ぐらいに戻るかな」
今日だったらって……、日にちによって違うのかよ。
思わずつっこみを入れるところだった。
「ねえ、話を聞かせて。あなたが此処で一人、泣くことになった経緯を。その内容によっては私を殺させてあげてもいいよ」
なんて奇妙は台詞だ、と俺は思った。
「いいよ」
もちろん世界が戻るだの、時間が戻るだの、SF的な話は全く信じていなかった。それでも一人でいるとまた泣いてしまいそうだった。誰かと話すことで気\少しでも気が楽になるかもしれない。そう思って俺は話し始めた。
昔から陸上をやっていたこと。
辛い日々、楽しかった日々。
明日が大会だってこと。
その結果によって将来が決まるかもしれなかったってこと。
制止の声も聞かず遅くまで練習し怪我をしたこと。
俺が話す間、彼女は隣に座り黙って聞いていた。
そして話が終わると彼女は立ちあがり俺の前に立って言った。
「まあ、及第点かな。いいよ、私を殺しても」
「……」
目の前の少女はまたなにやら物騒なことを言っている。
「私は時宮凛音、あなたは?」
「……遠坂実。なんで急に自己紹介?」
「これから殺し、殺される関係なんだから互いのことぐらい知っておきたいじゃない」
生憎ながらその理屈は理解できなかった。
「それで、さっきから殺すとか何物騒なこといってんの」
「……あなたは私の話を何一つ聞いていなかったの? だから、あなたが私を殺せば時間が戻るって」
「それはもう分かった。……いや、話は分かったが納得はできない、どういう理屈だよ」
「因果律よ」
「因果律?」
言葉も意味もなんとなくは知っていたがそれがどう関係してくるのかは理解できなかった。
「どうしてかは分からないけど、私は絶対に死なない因果律にあるの。もし、私が死んだら意識が途切れる瞬間の私に戻る。すなわち寝起きね。分かりやすく言うと、もしヒトラーがいなくてもドイツでは誰かが独裁政治を行ったし、もしアインシュタインがいなくても誰かが相対性理論を発見した」
「……ふーん」
いまいち理解できなかった。
「私が死を逃れるために因果律が働いて時間が戻った後も私の記憶は維持される。そして私を殺した人にも同様、因果律が働き記憶が維持される。もう分かったでしょ?」
「なるほど、そして今日の朝に戻った俺は余計な練習をせずに、すぐに家に帰れば怪我がしないってわけか」
「そういうこと」
「……って、そんなこと信じられるか!」
「急に大声出さないでよ」
「はあ……、いっちゃ悪いが、俺は君がただのおかしい異常者にしか見えないね」
「それは心外だね」
別段傷付いた様子もなく彼女は言った。
「今日の朝に戻れるなら、そりゃあどんなことでもするさ。せめて今日の朝の俺に一声かけることができるなら言ってやりたいよ。今日は早く帰れって。だけどそんなことは無理だ」
今さら何を思ったって後の祭りだ。
過ぎた時間は戻らない。この足も……。
「信じてくれないの?」
「当たり前だ。そんな簡単に信じて、君を殺して時間が戻らなかったら俺はただの犯罪者だ。この怪我以上に取り返しがつかなくなる」
「まあ、そう簡単に信じろって話も無理かもね。……今何時?」
突拍子もなく彼女は時刻を訊いてきた。
俺は携帯を開いて現時刻を確かめた。
「後二分で十時だ」
「そう、じゃあ後五分で公園の出口の少し過ぎたところで車がハンドルを切り損ねて家の塀にぶつかる。それが本当だったら信じてくれる?」
「少しは信憑性が増すな」
「じゃあ見えるところに行きましょ」
彼女はそう言って歩き出した。
公園の出口付近、砂場の隣に俺たちは陣取った。
隣に立つ頭一つ分小さい少女、時宮凛音。言っていること以外はいたって普通でとても異常者や精神障害者には見えなかった。
何もせずただ立っている少女と松葉杖をついた男、傍からも見たら不審者だな。
会話もなく待つこと数分、彼女が口を開いた。
「もうすぐ、銀色のセダン」
何も見ずに彼女は言った。
そして、その直後車のエンジン音が聞こえていた。
まさか、と思い俺は息をのんだ。
音が聞こえたほうを向くと、街灯に照らされて現れたのは確かに銀色でセダンの車。
住宅街を走るには些かスピードが出ている。
やがて公園の出口を過ぎた。そして急に制御を失ったようにふらつきだし家の塀にぶつかった。
彼女の言った通りに事が運び俺は呆然とした。
「確か、ちょうど雲が切れて月が顔を出したよ」
まるで見てきたかのように彼女は言った。
恐る恐る顔を上げると、またも彼女の言った通りちょうど雲が切れ、月が現れた。
背筋に戦慄が走った。
「ね?」
少し自慢げに彼女はそう言って俺を見た。
「まだ信じない? えーと……、乗っていたのは金髪でヤンキー風の若い男」
もう一度車のほうを見ると搭乗者が出てきた。
遠目からだが確かに金髪の若い男だった。
「あー、これはなんかのドッキリだったりする?」
「まだ信じてくれないの? うーん、残念ながらここで私は死んだからもう言えることはないよ」
全力疾走した後みたいに心臓が高鳴っていた。
本当に彼女は一度ここで死んで、そして戻った? そんなバカな。ありえない。
そう思いながらも目の前でこうも証拠を見せられてはまさか、と思わずにはいられなかった。
「どうする? 別に私はどっちでもいいんだよ」
「ま、まて、君が一度今日の朝に戻ったならあの車の男は事故を起こさなかったんじゃないのか?」
なんとか否定しようと俺は思考をめぐらした
「ううん、元々あの男はあそこで事故を起こす因果律だったの。それにたまたま私が巻き込まれただけ。いや、たまたまっていうのは御幣があるかな。私は死なない因果律であると共に他人の因果律に干渉しやすい性質なの。死なない因果律にあるが故にというべきかな。だから、かどうかは分からないけど、死なない癖に本当に死に易いの。なんか矛盾してるね」
滔々と語る彼女は嘘や作り話を言っているようにはとても見えない。
だけど、俺の頭は信じることは拒否している。
どんな理屈を述べられても明日世界が終わるとは信じられないのと同じように。
「……ん? あの男は君を殺したんだろ?」
「うん」
「じゃあ、あの男の記憶も戻ってないとおかしくないか? そして記憶が戻っていたら事故なんか起こさない」
なんとか矛盾点を見つけ、全てを偶然で片付けようとした。
「さっき自己紹介をしたでしょ」
「え? ああ」
「あの男は私を私と認識していなかった。私の顔も名前も知らなかった。ただ道に歩いている少女を轢いただけ。どうしてかは私にもわからない。だけど今までの経験で私を認識し、そして私を殺した人でないと記憶は維持されないの」
「……」
納得はできないが理には適っていた。
「どうするの?」
もう一度彼女は問うた。
「考えさせてくれ」
元のベンチに戻り俺は腰を下ろした。
彼女は横に座り、待っててくれていた。
どうする? どうする? どうする?
考えがまとまる訳がなかった。
足が戻る可能性を僅かでも見せられ俺は揺らいでいた。しかしその代償は彼女を殺すこと。
「殺すって、どうやって……」
殺人の方法などいくらでもあることは分かっていた。
問題はどんな覚悟で人を殺せばいいかということだったのだが、どうやら彼女は履違えたようだった。
「なんなら、はい」
そう言って差し出したのは長さが三十センチもあろうかというボウナイフ。
「なんで、そんなものを?」
「いざってときに……、楽に死ねないときとか自分でね」
受け取ったそれはずっしりと重く、鞘から抜き取ってみると刀身が怪しく輝いていた。
人を殺すための道具。包丁や彫刻刀なんかとは違い、実際に人を傷つけることを目的として作られた刃物。そう思うとこのナイフを持っているだけで足ががくがくと震えてきた。
「心臓はほぼ中心にあって左に傾いている。でも真ん中を刺しちゃダメ。堅い胸骨があるから。ナイフを縦じゃなくて水平にして左胸のほうから肋骨の隙間を刺すの」
俺の心境などお構いなしで彼女は自分の胸を指差しながらそうやってレクチャーを施した。
震える足を悟られないように肘を両ひざに置き、俯いたまま俺はそれを聴いていた。
無理だ……。
喧嘩もしたことがなく、殴ったことも殴られたこともない。そんな俺が人を刺し殺す? 悪い冗談だ。
俺は俯き、押し黙ったままだった。
そのまま暫く彼女はまってくれたが、やがて煮え切らない俺に耐えられなくなったのか、
「しょうがないなあ」
そう言って俺の手からナイフを奪い取ると何の躊躇もなく抉るようにして自分の手首を掻っ切った。
尋常じゃないほど大量の血液が彼女の手首から溢れていた。いや、噴き出したと言っていい。彼女の拍動に合わせて噴水のように血が噴き出している。
目の前にいた俺も当然血まみれになった。
「これでもう私は助からない。どっちにしたって死ぬよ。これで少しはやりやすくなったでしょう?」
既に大量の血液を失ったせいか彼女の顔は青ざめ、喋るのも辛そうだった。
彼女はもう一度ナイフを俺に手渡した。
受け取った手はがたがたと震えた。もはや手だけではなく体中が震えている。
「どうしても無理そうならそのまま待ってて。ここから逃げ出したっていい。私が死んだら世界は戻るし、君は何も覚えていないまままた今日を繰り返す。その怪我を繰り返す」
「そ、そうだっ……、戻ったら今日の俺に教えてくれよ! 早く帰れって。そうしたら……」
「無駄なの。どうせ君は信じないだろうし。それに君が怪我をするっていう因果律も少なからず働いている。仮にあなたが私の話を聞きいれて練習を早めに切り上げても因果律によってあなたは違う形でまた怪我をする」
「くっ……」
やるしかないのか?
目の前で少女が死にかけている。普通なら真っ先に救急車を呼ぶほうが先決だろう。だけど俺はナイフを握り締めたままみじめに突っ立っている。
彼女の顔はもう真っ青だ。血を多く失ったせいか俺と同じように身体をがたがたと震わしている。
とても辛そうだ。
「早く……」
かすれた声で彼女は言った。
真っ赤に染まったナイフを握り直し、俺は覚悟した。
大きく深呼吸し、彼女の言ったことを思い返す。ナイフは水平に、左胸から肋骨の間へ……。
一歩彼女に近づき、力任せにナイフを彼女の身体に突き刺した。
人の身体を突き破るなんともいえない気持ち悪い感覚がナイフを通して伝わってきた。
力を失くした彼女は俺のほうに倒れる用意して寄りかかってきた。
血まみれの彼女の身体を支えながら俺は思った。
「本当に、戻るのかよぉ……」
泣きそうな声で。いや、泣いていたのかもしれない。
「えっ……?」
テレビのシーンが変わるように、瞬きをしたら景色が一変した。
見覚えのある景色。家の近くだった。
「あれ……」
明るい。太陽が上っている。
来ている服も変わっていた。いつも朝のランニングのときに来ている服だった。
「本当に、戻ったのか……?」
そして真っ先に自分の足を見た。
「ああ……」
両足で立っている。痛みも何もない。その事実に涙が込み上げてきた。
そして思い出した。
彼女――時宮凛音を殺し、俺は此処に戻ってこれたことを。
彼女を貫いた感覚を思いだすと、急な吐き気が込み上げてきた。
誰とも知らない家の前で俺は吐いた。朝食前だったので出てくるのはほとんど苦い胃酸ばかりだった。
よろめきながら俺は家に帰った。
冷たいシャワーを浴びて心を落ち着かせた。
「本当だった……」
未だに信じられないことだが本当に今日の朝に戻った。
だけど実際に戻ったからには信じるしかない。彼女の言っていたことは本当だった。
居間のテレビでは今朝見たのと全く同じ内容のプログラムが、机に並べられている朝食のメニューも全く同じ。
どうしても食欲が湧かなかった俺は水だけを口にして学校へと向かった。
いつも同じ風景の通学路だが、いつも以上に今日の通学路は同じに見えた。
学校をつくと同じように挨拶をされ、同じ話をした。
同じ内容の授業。何度も読み返した漫画のように次に教師が言う台詞が分かった。
全く同じ日を繰り返すというのは意外にもたいくつで苦痛だった。
放課後になり俺の足は自然とグラウンドへと向かっていた。
これも因果律の働きなのか?
「マネージャー」
タイムを計っていたマネージャーに声をかけた。
「あ、先輩。お疲れ様です」
「そっちこそお疲れ。明日大会だから今日は帰って休むことにするよ」
「そうですね。今日はゆっくり休んで明日に備えてください」
「うん。じゃあ」
「明日、大会頑張ってください」
最後に手を振って俺は早々にグラウンドを後にした。
これで因果律から逃れたのか?
違う形でまた怪我をする、彼女の言葉が頭から離れなかった。
一歩一歩、歩くのさえ慎重に、向かってくる車や自転車には過剰に真剣を研ぎ澄ました。
家に帰ってからはなるべく部屋から出ないようにした。
ベッド中で両足を抱くようにして座り毛布にくるまって、ただ時を過ぎるのを待った。
鍵を閉めて心配して声をかけてきた母親も無視した。おそらく明日が大会のせいで神経質になっているものと思っていることだろう。
しかし、こんな体験をして大会のことなど考えられるはずもなかった。
足が治った喜びより、いまは非現実的な体験をした恐怖のほうが多かった。そして彼女を殺した罪悪感。
本当に彼女は生きているのか?
時計を見ると九時半。
もう一度足を失う恐怖もあった。だけど確かめずにはいられず俺は家を飛び出し公園へと向かった。
公園には誰もいない。こんな時間だから当たり前だが。
同じベンチに座り彼女が現れるのを待った。
暫く待ったが少女は現れない。
時計は丁度十時を示していた。
もう、帰ろうか。このことは夢だと思って早く寝よう。そして明日の大会に備えよう。
そう思って立ち上がろうと顔を上げると、彼女――時宮凛音がいた。
「何してるの?」
「……君を待ってたんだ」
遠くで大きな音が聞こえた。
車が家の塀にぶつかる音だ。
俺はそれを見ていないが、それを知っていた。きっと車は銀色のセダンで、乗っているのは金髪でヤンキー風の若い奴だろう。
嗚呼、やっぱり戻ったんだなと実感した。
「どうして?」
「君が生きているのか確かめたくて。そして一言、言いたくて……」
「なんて?」
「ありがとう、と言うべきなのかな」
「別に、ただの気まぐれよ」
照れた様子もなく彼女は言った。本当にただの気まぐれだったのだろう。
「それに、あなたにとって良いことばかりでもなかったんじゃない? 一応、人殺しを体験しなきゃいけなかったんだから」
「確かに、あまり気持ちいいものじゃなかったな。あの感触は二度と忘れないと思う」
「うん。人を殺すなんて体験はしなくて済むならそれにこしたことはない。もしかしたらこのことがトラウマになって人生が崩れるかもしれない」
「心配ありがとう。でも、君が生きていると分かって幾分か気が楽になったよ」
「でも、痛かったのよ?」
彼女は悪戯に微笑んでそう言った。
人間らしい表情を見せたのはこれが初めてかもしれない。
「それは、ごめん……」
「いいの、慣れてるから」
それは、痛みにだろうか、それとも死ぬことにだろうか。はたまた療法か。どちらにしてもそんな人生は痛々しく、悲しいものだと思い、俺は初めて彼女に同情した。
「ごめん……、そしてありがとう。明日の大会、死ぬ気で頑張るよ」
「死ぬなんて、そう簡単に使うものじゃないよ。私が行っても説得力無いだろうけど」
「それもそうだ」
俺は笑い、彼女も笑った。
「それじゃあ」
そう言って彼女は去っていった。
「もう死ぬなよ」
去っていく彼女の背中に小声で俺は言った。
空には綺麗な月が輝いていた。二度目の月を見ながら、もうきっと彼女と会うことはないんだろうなと、なんとなく思った。
だけど、時宮凛音。この名前は二度と忘れることはないだろう。
読んでいただきありがとうございます^^
感想、一言などいただけたら嬉しいです~




