高森
「あぁ」と私の顔を見た高森が言った。「ごめんね、朝早くから」
私の方へ近付いてくる。
私はドアを開けたままにしておく。
「…いいえ。何ですか?」
「ちょっと顔を見たかったのと、放課後、手伝ってもらいたい事があったから」
顔を見たい?変なお茶飲ませてどうなってるのか確認したかったのか?
それにもう、放課後呼び出されるのは嫌だ。自分から桜井の所に行こうと思っていたのにそう思ってしまう。
高森は優しい顔をして続けた。
「山根がね、昨日帰る時気分悪くなってたって桜井先生が言ってたから、大丈夫だったかなと思って。どう?」
あんたの入れたお茶のせいでしょう?
大丈夫だなんてもちろん言わない。
「今日は桜井先生休みなんだよ」高森が言った。
桜井が休みなら放課後呼び出される意味はないんじゃないか?
「先生すいません。私今日は用事があります」
高森には強気な私だ。
「そうなの?じゃあ仕方ないね」
え?そんなにあっさり、拒否が許されるの?
高森はまだ黄色い半透明のビニルボールを握ったままだ。
「だから今日は僕がホームルームに行かなきゃいけないから、一緒に行こ。
桜井先生が喜んでたよ。山根は良い子だって言ってた」
気持ち悪…。
「僕も好きだよ、山根の事」
え?
「素直ないい子だといつも思ってるよ。女子なのに女子を見て点数を付けてるとことかも好きだな」
え?
「しかも自分をひいき目にしないで、好き嫌いに惑わされないで的確な点数を付けてる」
「じゃあプリントがあるから半分持ってくれるかな」
高森がコトン、とビーカーを置きながら言った。
心の中で女子に点数を付けている事が、高森にバレている事に驚きと恐怖を感じながら高森の手元を見ると、高森が掴んでいるのは黄色い半透明のビーカーだ。
…ビーカー!?
ほんの今まで、手に持っていたのは黄色い半透明のビニルボールだったはず。
気持ち悪…。
「じゃあ行こうか」
高森がそう言いながら私の前にプリントの束を出して来たので、私は仕方なく両手を差しだす。
高森はにっこりと笑ってどさっとプリントを渡してきた。
ちゃぽん、と水槽の水面で何かが跳ねたが藻がいっぱいで、いったい何が水槽の中にいるのかわからない。
ここはいつもの理科準備室か?何回か入った事があったけどこんな大きな水槽あったっけ?
高森と私だけの静かな準備室にまたビチャン、と水音が響く。
「水槽見たいの?」高森が聞いた。
いや、見たくないです。早く教室に戻りたい。
「ちらっとなら見せてあげてもいいけど、今卵産んでるからな…」
高森が私に水槽を見せようかな、どうしようかと迷っている。
いや見たくないんだって。
「…先生、ホームルーム始まりますよ」と言ってみる。
「カエルがいるんだよ」高森はまだ水槽を気にしている。
私はもう気にしませんから、と思うが高森は続ける。
「めずらしいんだよ?黒い牛ガエルの変種で背中に黄色いブツブツがあるんだけど、それがアルファベットのBの字に並んでて、だからビィって呼んでるんだよ。なんか可愛いでしょ」
いや全然。キモいから本当に。それ絶対毒持ってるやつだって!
私はもう一度進言した。「先生!ホームルーム始まります!」
教室まで高森の少し後ろを追いながら、こいつは魔術師だ、こいつは魔術師だ、とずっと思い続けた。
教室へ戻ると外まで中の喋り声が聞こえている。
高森が先にドアを開けると一瞬静かになったが、すぐにまたざわざわと
教室のあちこちで話が始まった。
高森の後から教室に入った私は、出来るだけ皆の注目を浴びないように
持たされたプリントを教壇に置くと、1回入って来た前のドアから出て後ろのドアから入り直し、窓際の一番後ろの自分の席に腰かけた。
もうすぐ席替えがある事になっているが、今はまだ出席番号順の席なので
私は一番端の窓際の一番後ろの席なのだ。
一番後ろの席で良かった。
私は高森と目が合わないように自分の机の上をぼんやりと見つめて考える。今朝の高森とのやりとりだ。
怖い。
薄気味悪い。
高森は私が女子に点数を付けている事を知っていた。昨日、桜井も私が口に出していないいろいろな事をすぐ言い当てたし…
…何で私は「山根」なんて名字だったんだろう。
私がいなかったらこいつが桜井に呼び出されていたはずなのに、しかも同じヤ行なのに、と前の席の男子ヤグチヒカルの背中を、少し視線を上げて睨みながら思ったら、ヤグチヒカルが急に振り返ったのでびっくりした。
ヤグチは私にプリントを回してきたのだった。
そうかプリントね。私が高森に持たされたプリントだ。前から順に回して来たやつ。
ヤグチヒカルはプリントを渡し終えた後前を向いたが、もう1回振り返って私に聞いて来た。
「お前今日日直?」
…お前?
前後の席だから何回かは喋った事があったけど、それは今教科書の何ページ?とか、消しゴム貸して、とかそれくらいな感じだ。それもほんの数えるほど。しかも私から話しかけた事はない。
ヤグチとは同中だしその上同小だけど、1度も同じクラスになった事はなかった。
顔は知っていたけど、今年同じクラスになるまで喋った事もなかった。同小だけど家も近くはない。
そんな私に急にお前呼ばわり…昨日まで「お前」なんて呼んでなかったはずなのに。
「違う」と私はぶっきらぼうに答えた。
「そっか。お前、日直だから高森に呼ばれたのかと思った。オレ日直飛ばされてちょいラッキーかと思ったのに。てかお前、昨日も放課後桜井に呼ばれてたろ?なんで?今何委員?」
また私の事「お前」って呼んだ。
すごく抵抗を感じる。
何こいつ…先輩でも友達でもないのに。
「何委員でもないよ」さらにぶっきらぼうに答えた。
そんな私にヤグチはふっと微笑んでから前を向く。
ヤグチは背が高い。だから私はこの席が嫌いだ。黒板が見にくい。
というかヤグチがあまり好きじゃない。まあまあ容姿がいいのと運動神経が良くて明るいので、男子にも女子にも友達が多いみたいだし、誰とでもすぐ打ち解けられる。
だから私はヤグチがあまり好きじゃない。
誰とでもすぐ打ち解けられるなんて、私になんか百年かかっても出来ないし、誰とでも簡単に打ち解けられる人は信用しない事にしているのだ。
「じゃあ、え~~と山根さん」
私は急に高森に名前を呼ばれてビクッとした。
「さっき言ったように今日の放課後はよろしくね」
唖然とする。さっき断ったじゃん、ちゃんと。
思わずガタン、と椅子から立ち上がったものだから、クラスのほぼ全員が私の方を振り返った。
「先生すみません」私は出来るだけひるまないように頑張って声を出した。
「さっきもちゃんと言ったと思うんですけど、すみません、今日は用事があってお手伝いできません」
「あれ?」高森がすっとぼけた感じで驚いてみせる。「そうだったっけ?」
アライサクラちゃんとクリハラミノリちゃんが、心配そうな顔をしてこっちを伺ってくれているのが見えた。
「じゃあまぁ仕方ないね」
高森はあっさり承諾してホームルームを終え教室から出て行った。
出ていく前に私の顔を一瞥して、ちょっと笑ったように見えたのは気のせいではないはずだ。
嫌だな。何か気分悪い。背中の、肩甲骨の下辺りの皮膚がざわざわする感じ。
1時限目の数学Bと2時限目の古典。
授業に集中しようと思っても、すぐに心は昨日の放課後に行ってしまう。
今朝の理科準備室のこと。高森の持っていた黄色い半透明のビーカー…今朝私をわざわざ理科準備室に呼ぶ意味はあったのか?1回断ったのに、また放課後来るようにと皆の前で言ったのはもちろんわざとだ。皆の前だと断れないと思ったのだろう。
2時限目の終わった休み時間に、私に話しかけてきたのはスズキナツミだった。ほとんど喋った事のない子だ。ショートカットに少し天パ―が入ってぽっちゃりした子だ。
ん~…彼女は42点。
私は高森にバレていたように女子全員に点数を付けている。
アライサクラちゃんとクリハラミノリちゃん以外全員にだ。
「何の手伝い?」彼女は唐突にそう聞いて来た。
きょとん、とする私だ。
「高森先生に言われたの、何の手伝い?」
手伝いっていうか…
「何か…プリント的な?」私はあやふやに答える。
「私が変わってあげようか?」
変わるも何も私は断ったからもう私の仕事じゃない。それに本当は仕事とかじゃないのだ。高森は私の様子が見たいのだと思う。
「わかんない、私」と答える。「…高森先生が他の人に頼んじゃってるかもしれないし、でも、あの、ありがとう」
「朝呼ばれたのは何だったの?プリント運ぶだけ?」
「え?」何でそんな事まで聞いてくる?「…そうだよ」
「あそう」
どうしたんだろうスズキナツミは高森のファンか?
「私…」と、まだ私の前にいるスズキナツミが私の目をじっと見つめて言った。
「私昼休みにちょっと、山根さんに聞いて欲しい事があるんだけど」




