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ざまぁでしたのならお気の毒。わたくし、ただでは起き上がりません

作者: 葉月いつ日
掲載日:2026/03/03

「……お聞きになって? 婚約破棄ですって」

「あら、当然でしょう。あんなに可愛げのない、氷の彫刻のような公爵令嬢。王太子殿下がお可哀想でしたわ」


 煌びやかな夜会会場の隅で、扇を広げた令嬢たちがクスクスと、しかし確実に耳に届く声で囁き合っている。


 私、ヴィクトリア・ド・ラ・ヴァリエールは、今まさに人生の絶頂から奈落へと突き落とされたところだった。


 目の前には、勝ち誇った顔で胸を張る王太子エドワード。

 そしてその腕に縋り付き、上目遣いで私を睨みつける男爵令嬢のルル。


「ヴィクトリア! お前のような冷酷で嫉妬深い女は、未来の国母には相応しくない。本日この時をもって、お前との婚約を破棄し、私は真実の愛に目覚めたルルを妃に迎えることを宣言する!」


 広間に響き渡る声。周囲の冷たい視線。


 私は深々とカーテシーをし、顔を上げた瞬間に、最高の“公爵令嬢の微笑み“を浮かべてみせた。


「ざまぁでしたのなら、お気の毒様。……でもわたくし、ただでは起き上がりませんわ」



 ◆〜第一章:完璧な令嬢の“仮“の下〜◆



 夜会会場の空気は、甘ったるい香水の匂いと、残酷なまでの好奇心で満ちていた。


 王太子エドワードが放った【婚約破棄】の宣言は、一瞬の静寂の後、さざ波のような嘲笑となって広間に広がっていく。


 私は、微動だにせず立っていた。


 背筋は定規を当てたように真っ直ぐに。

 指先は扇の骨を優雅に捉えたまま──。

 視線は、かつての婚約者を真っ向から見据える。


(……この程度ですか、エドワード殿下)


 私の脳内では、驚きや悲しみよりも先に、冷徹な“査定“が始まっていた。


 公式の場で、公爵家の令嬢に対し、正当な手続きも証拠の提示もなく断罪を行う。

 これは王族として致命的な失策だ。


 彼の隣で「ひどいですわ、ヴィクトリア様……」と、これ見よがしに涙を浮かべる男爵令嬢ルルも同様。


 彼女が握りしめているのは、王太子の腕ではなく、この国の破滅の引き金だということに、この愚かなカップルは気づいていない。


「ヴィクトリア! 何か言い訳はないのか! お前がルルに贈った呪いの髪飾り、そして彼女の茶に毒を盛ったという証言……すべて揃っているのだぞ!」


 エドワードが声を荒らげる。

 周囲の貴族たちは、私を“嫉妬に狂った悪女“として見る目を楽しんでいる。


 だが──私は知っている。

 その【呪いの髪飾り】は、私が隣国の魔導具ギルドから取り寄せた、最高級の守護結界が施された代物だったことを。


 そして【毒】とされたのは、彼女の顔色の悪さを案じて私が手配した、血行を良くする高価な薬草茶だったことを。


(善意を悪意に、守護を呪いに読み替える。その程度の知性しか持ち合わせぬ方に、この国の政務を任せていたとは。わたくしの10年間は何だったのかしら)


 ふと、幼い頃の記憶が蘇る。

 五歳の時、私は『未来の王妃』として指名された。

 以来、私の人生から“自由“という言葉は消えた。


 朝五時に起き、冷水を浴びて身を清める。

 午前中は三か国語の家庭教師と、大陸全土の歴史を頭に叩き込む。


 午後は、公爵家の領地経営に関する書類の精査と、魔導回路の基礎理論。

 夜は、一歩の歩幅から視線の動かし方まで指定される、苛烈なマナー教育。


 友達と庭を駆け回ることも、流行のドレスに現を抜かすこともなかった。

 私が手にしていたのは、刺繍針ではなく、国の予算書と魔法術式の展開図だ。


 エドワードは、私が彼に贈った”厳しい忠告”の数々を、自分への攻撃だと受け取っていた。


「殿下、その増税案は領民の反乱を招きます」

「殿下、隣国の外交使節団への対応が、礼を失しております」

「殿下、今は遊興に耽る時ではありません」


 彼は、私を「可愛げのない女」と呼び、遠ざけた。

 代わりに彼が求めたのは、自分の無能さを肯定し、甘やかしてくれる“可愛いルル“だったのだ。


「……殿下。お言葉ですが、わたくしが嫉妬に狂うほど、貴方に価値があるとお思いで?」


 私の口から漏れたのは、訓練された“淑女の微笑“では隠しきれない、毒を含んだ言葉だった。


「なっ……何だと!?」

「わたくしは、この国の未来を愛しておりました。ですが、その未来に貴方が必要かどうかは、また別の話ですわ」


 私はゆっくりと、一歩前へ踏み出す。

 その瞬間、私の体から溢れ出した魔力の圧が、周囲の空気をピリつかせた。


 ルルが短い悲鳴を上げてエドワードの背中に隠れる。

 エドワードもまた、腰の剣に手をかけようとしたが、その手は小刻みに震えていた。


「わたくしは、ただ座して屈辱を甘受するほど、お人好しではありませんの」


 扇を閉じ、胸の前で交差させる。

 これはヴァリエール公爵家が、敵対する者へ送る”宣戦布告“の所作だ。


「ざまぁでしたのなら、お気の毒様。……でも、一つだけ忠告しておきますわ。わたくしを追い出した後のこの国が、どれほど脆い砂の城か。せいぜい、足元に気をつけてお過ごしなさいませ」


 私は、跪くことも、許しを乞うこともしなかった。

 ただ、夜会の光が届かない闇の向こう側へと、優雅に、そして力強く踵を返した。


 背後でエドワードが何かを叫んでいたが、もはや私の耳には届かない。


(さあ、始めましょうか)


 私の頭の中には、すでに次の【計画】が描き出されていた。

 この国が私を捨てたのではない。私が、この国を見限ったのだ。


 そして、ただでは起き上がるつもりなど──毛頭ない。



 ◆〜どん底からの再起(の準備)〜◆



 婚約破棄を言い渡された翌日。

 王都の喧騒を離れた実家の公爵邸は、死を待つような静寂に包まれていた。


 私は自室で、丁寧に淹れられたハーブティーの香りを楽しみながら、鏡の中の自分を見つめる。


 昨日までの“王太子妃候補“としての重圧が消えたせいか、瞳にはこれまでになく冷徹な光が宿っていた。


 応接室に向かうと、そこには一晩で数年老け込んだかのような父、ヴァリエール公爵が深く椅子に沈み込んでいた。


「ヴィクトリア、申し訳ない。……力及ばず、王家からの圧力でお前を修道院へ送らねばならなくなった」


 父の言葉は苦渋に満ちていた。

 公爵家といえど、王家による『王太子への不敬』と『次期王妃への危害』という不当な罪状を突きつけられては、即座に抗うことは難しい。


 父の手は怒りと悔しさで震えている。

 だが、私は茶を優雅に啜りながら、事も無げに答えた。


「お父様、ご心配なく。修道院へは行きますわ。……ただし、場所はこちらで指定させていただきます。北部の聖マリア修道院にしてくださいませ」

「北部の? あそこは魔物の出る極寒の地だぞ? 罪人が送られるような監獄に等しい場所だ。正気か!」


 父が身を乗り出す。

 しかし、私は唇の端をわずかに吊り上げた。


「ええ。だからこそ、いいのですわ。あそこは王都の監視の目が最も届かない場所。そして、ヴァリエール家の隠し資産──魔鉱石の鉱脈に最も近い場所ですわ」


 私はすでに計算を終えていた。

 エドワードが私を捨ててルルを選んだことで、この国の均衡は今日この瞬間から崩れ始める。


 ルルには政務をこなす能力も、肥大化した貴族たちの欲望を抑えるカリスマ性もない。


 そして何より、致命的なのは“結界“だ。


 我が家が代々、膨大な魔力と引き換えに管理していた【魔力制御の結界】の維持システム。

 エドワードはその重要性を理解せず、私を排除した。


 私の家系が秘密裏に供給していた触媒がなければ、結界は一年と持たずに霧散するだろう。


「お父様、これは『追放』ではありません。わたくしたちが、この腐りかけた泥舟から先に下りるだけのことですわ」


 私は父の前に、一枚の羊皮紙を広げた。

 そこには、数年かけて密かに構築していた資産の移動計画と、北部を拠点とした新事業の構想が、緻密な数式と共に記されていた。


「一年の猶予をください。その間に、わたくしは北部を不落の要塞に変えてみせます。エドワード殿下がルル様とのお遊びに現うつつを抜かし、国力を使い果たした頃……彼らは嫌でも気づくはずですわ。自分たちが誰の手のひらで踊らされていたのかを」


 私はこの国を見捨てることに決めた。

 だが、ただ逃げるのではない。


 私を必要としなかった人々が、いかに愚かだったかを骨の髄まで分からせてやる。

 地に這い蹲り、涙を流して私を求めたとしても、二度とその手は取らない。


 絶望に染まった顔でお気の毒様と告げるその瞬間のために──。

 それが、誇り高き公爵令嬢である私の“ざまぁ“の流儀なのだから。



 ◆〜修道院での【軍備拡張】〜◆



 北部の修道院に送られた私は、着いたその日にシスターたちを掌握した。

 絶望に打ちひしがれている暇などない。


 私は馬車から降り立つなり、修道院長を突き飛ばさんばかりの勢いで奥の事務室へと向かった。

 埃を被った古い帳簿を開いた私は、思わず鼻で笑う。


「皆様、この修道院の会計報告書ですが……あら、この仕入れ値、ボッタクられていますわね。わたくしが明日までに契約を書き直させますわ」


 震え上がるシスターたちを尻目に、私は翌朝、修道院に出入りする商人を呼びつけ、二重帳簿の証拠を突きつけて跪かせた。


 一ヶ月後、修道院は最新の魔導暖房が完備され、隙間風に怯える日々は過去のものとなった。


 私は修道院をただの祈りの場から“工房“へと作り替えた。

 シスターたちは私の指導により、魔導回路を組み込んだ最高級の刺繍と、特殊な魔力触媒を用いた薬草茶を生産する【商会】へと変貌を遂げた。


「祈りだけでは腹は膨れませんわ。ですが、この刺繍一枚で、皆様は一年分の食料を買い叩けますのよ?」


 富は力を生む。

 そして、その力は予期せぬ『獲物』を呼び寄せた。


 運命の出会いが──訪れる。


 ある吹雪の日。

 視界を遮る白銀の闇の中、修道院の門前に倒れていた一人の男を、私は“拾った“。


 雪に埋もれた体、ボロボロの鎧。

 しかし、その隙間から漏れ出す隠しきれない高貴なオーラが、彼がただの兵士ではないことを告げていた。


 私はシスターたちに命じて彼を運び込ませ、自ら容態を検分する。

 重い瞼が開き、鋭い眼光が私を射抜いた。


「……君は、誰だ?」

「通りすがりの、ただの追放令嬢ですわ。それより、お怪我を拝見。……ふむ、毒を盛られていますわね。王都の暗殺ギルドが使う【紫の吐息】ですわ。致死性の高い毒ですが、わたくしの調合した薬草茶の前では、ただの苦い水にすぎませんわ」


 男の正体は、隣国の“戦神“と恐れられるカイル・フォン・ベルンハルト皇太子だった。


 彼は内乱で追放された地位を取り戻すため、再起の機会を狙って密かにこの境界の地を訪れていたのだ。


 私は彼の回復を待ち、最高級の肉料理と、芳醇な香りの茶を提供しながら、にっこりと微笑んだ。


「カイル様。わたくし、投資が趣味なんですの」

「投資だと? 瀕死の亡命者に、何を賭けるというのだ」


 カイルが訝しげに目を細める。

 私は、修道院の地下に密かに運び込ませた最新鋭の魔導ライフルと、鉄をも断ち切る強化繊維の外套を彼に示した。


「わたくしの財力と、この修道院で育てた魔導兵器……いえ、護身用の道具をお貸ししますわ。その代わり、あなたが復権した暁には、わたくしをあなたの国の『特別顧問』として雇ってくださる? わたくし、この国にはもう愛想が尽きましたの」


 カイルは私の言葉を反芻するように黙り込み、やがて腹の底から笑い声を上げた。


「……面白い女だ。君をただの令嬢として扱うのは、世界の損失だな。いいだろう、ヴィクトリア。君の投資、確かに受け取った。利息は高くつく覚悟をしておくことだ」


 彼は不敵に笑い、私の手を取った。

 その力強い掌の感触は、これから始まる”王都への復讐”という名の祝宴への、最高に心強い契約書だった。



 ◆〜王都の崩壊と、公爵令嬢の帰還〜◆



 一年後。

 奇しくもその日は、エドワードとルルの結婚式当日であった。


 かつては栄華を誇った王都は、今や見る影もなく混乱の極みにあった。

 私が管理していた【魔力制御の結界】が、触媒の供給停止とともに致命的なまでに弱まったことで、国境付近には魔物が溢れ、物流は死に絶えた。


 さらに経済は、ルルの分をわきまえぬ浪費と、エドワードの目先のことしか考えない無策なバラマキ政策によって破綻寸前。

 重税に喘ぐ貴族は不満を募らせ、街角には民衆の飢えた叫びが響いていた。


 そんな中、華やかなはずの結婚式の最中、祝祭の鐘の音をかき消して王宮の門を叩いたのは、祝辞の使節ではなく、隣国ベルンハルト帝国の圧倒的な軍勢であった。


 鉄錆の匂いと軍靴の音が大聖堂まで轟く。

 騒然とする列席者たちの前に、堂々と姿を現したのは──。


「ご機嫌麗しゅう、エドワード様。ルル様。……あ、お式の間にお邪魔してしまいましたかしら?」


 私はかつてのような重苦しい純白のドレスではなく、機能美に溢れた深紅の乗馬服に身を包んでいた。


 腰には精緻な魔導銃を帯び、帝国の皇帝へと返り咲いたカイルの隣で、不敵な笑みを浮かべて立っていた。


「ヴィ、ヴィクトリア!? なぜお前がここに……!? 修道院で祈りを捧げていたのではないのか!」


 エドワードが顔を真っ青にして叫ぶ。

 その腕の中で、豪華すぎるウェディングドレスを着たルルは、小刻みに震えていた。


「祈りは捧げましたわ。……この国が、これ以上腐り果てる前に早く目を覚ますようにと。でも無駄なようでしたので、わたくしが『掃除』に来て差し上げたのです。ゴミは早めに片付けないと、異臭が近隣諸国にまで漂いますから」


 私は優雅に指をパチンと鳴らした。

 その音を合図に、王宮の柱の影から、かつて私に忠誠を誓っていた隠密たちが次々と影のように現れた。


 彼らは一瞬の無駄もなく、抜剣する暇さえ与えずにエドワードの近衛騎士たちを取り押さえていく。


「な、何をする! これは反逆だぞ!」

「反逆? 心外ですわ。わたくしはただ、正当な“請求“に来ただけですもの。残念ながら、この国の経済権の七割は、わたくしが北部に設立した商会がすでに買い取らせていただきました。貴方たちが贅沢のために発行した債券は、すべてわたくしの手元にあります。そして、魔物除けの結界を維持する魔石の供給も、わたくしが完全に止めておりますわ」


「な、なんだと……! 公爵家はどうなると思っている! お前の父親もタダでは済まないぞ!」


 吠えるエドワードに対し、私は憐れみすら込めて首を傾げた。


「あら、父にはすでに領地を国から切り離し、帝国への亡命を済ませていただいております。今、この国に残っているのは……山のような借金と、民を捨てた無能な王族、そして中身の空っぽな王冠だけですわ」


「ひどい! ヴィクトリア様、私たちが幸せになるのがそんなに許せなかったんですか!? それで復讐に来たんですか!?」


 ルルが涙を流して叫んだ。

 悲劇のヒロインを演じるその姿を見て、私は心底愉快そうに、喉を鳴らして笑った。


「幸せ? 勘違いしないで。わたくし、あなたたちが幸せになろうが不幸になろうが、石ころの行方ほどにも興味はありませんの。ただ……わたくしが十年の歳月をかけて積み上げてきた努力を、『冷酷』の一言でゴミのように切り捨てたこと。その対価を、きっちり精算させていただいただけですわ。借りたものは返さなければならない。……子供でも知っている道理でしょう?」


 冷たい冬の風が、開け放たれた扉から吹き込み、豪華な装飾を無慈悲に揺らした。


 私の背後には、かつて私を蔑んだ者たちが腰を抜かして座り込んでいる。

 だが、私はもう──彼らの顔すら見ていなかった。



 ◆〜新しい夜明け〜◆



 かつての王宮に、もはや私の居場所はない。

 いや──私がそれを望まなかった。


 エドワードとルルは、積み上がった天文学的な負債と引き換えに命だけは助けられ、平民として最果ての開拓地へ送られることになった。


 魔力も財力も、そして彼らが誇った“身分“という名の虚飾も通用しない、泥にまみれた本当の“現実“。


 それが、私を『冷酷』と断じた彼らに相応しい終着駅だった。


「……あ、ああっ……! 助けて、エドワード様!」

「黙れ! お前の浪費のせいでこんなことに……!」


 連行される二人の罵り合う声が遠ざかる。


 かつて“真実の愛“と称えた情熱が、空腹と絶望の前でいかに脆く崩れ去るか。

 それを背中で聞きながら、私は一度も振り返ることなく、カイルの用意した馬車へと乗り込んだ。


 半年後。

 舞台はベルンハルト帝国の帝都へと移る。


 私は今、帝城の一角に与えられた広大な執務室で、大陸全土を覆う新たな通商網の構築に没頭していた。


「ヴィクトリア。特別顧問なんて堅苦しい役職はやめて、そろそろ僕の隣に落ち着く気はないか?」


 不意に背後から声をかけられた。


 振り返ると、帝国の皇帝となったカイルが、公務に追われる私のデスクに淹れたてのコーヒーを置きながら、呆れたような、それでいて愛おしげな視線を向けていた。


「あら、カイル様。陛下自ら給仕とは、恐れ入りますわ。ですが、わたくしを雇うのは高いですわよ? 帝国の国家予算を現在の三倍に引き上げるまで、わたくしの筆は止まりませんから」


 私は湯気の立つカップを手に取り、皮肉めいた笑みを返す。

 カイルは私の隣に腰を下ろし、山積みになった書類を眺めて苦笑した。


「ふっ、頼もしいな。君が来てから、財務卿が『過労で倒れそうだ』と泣きついてきているぞ。……だが、たまにはその完璧な【特別顧問】の仮面を脱いで、僕にだけは“可愛げ“を見せてくれてもいいんだぞ?」

「可愛げ? ……そうですね」


 私は手にしていた羽ペンを置き、椅子を回して彼と正面から向き合った。


 かつてエドワードが『無愛想だ』『氷のようだ』と蔑み、決して見ることができなかった表情。


 計算も、淑女の教育も、敵を威圧するための冷徹さも介在しない、心からの、いたずらっぽい微笑みを向けた。


「ざまぁでしたのなら、お気の毒。……でもわたくし、あなたの隣なら、たまには転んで甘えてみるのも悪くないと思っておりますわ。ただし、転んだ拍子に帝国の領土が広がるかもしれませんけれど?」

「ははっ、それは全くだ。君という嵐を隣に置くには、この帝国ですら狭すぎるかもしれないな」


 カイルが私の手を取り、その指先に柔らかなキスを落とす。

 窓の外には、新しく作り替えられた帝都の街並みがどこまでも続いていた。


 私はかつて、誰かのための“完璧な道具“になろうとしていた。


 けれど──今は違う。


 自分の足で立ち、自分の意志で選び、そして、私を私として必要とする人の隣で、この世界の仕組みを書き換えていく。


 公爵令嬢は、ただでは起き上がらない。

 地獄から這い上がった先に見る朝焼けは、これ以上ないほどに美しく、輝いていた。



 ◆〜エピローグ〜◆



 帝国はその後、歴史に類を見ない空前の繁栄を迎えた。

 かつて北部の小さな修道院から始まった改革の火は、瞬く間に大陸全土へと燃え広がり、古い秩序を焼き尽くして新たな時代を切り拓いたのだ。


 その中心には、常に冷静沈着な判断を下し、誰よりも情熱的に国を導く【鉄血の女帝】の姿があった。


 彼女の執務室の窓からは、今日も活気に満ちた帝都の風景が見える。

 魔導列車が走り、空には輸送用の飛空艇が舞う。かつての王国で『無駄』だと切り捨てられた彼女の知識は、今や帝国の血となり肉となっていた。


 時折、風の噂でかつての王国の惨状が聞こえてくることもある。

 王家は没落し、エドワードとルルは開拓地の厳しい冬を越せず、互いを罵り合いながらその日暮らしの困窮に沈んだという。


 かつての王都は近隣諸国に分割吸収され、地図の上からもその名を消そうとしているらしい。


 だが、私はその報告書に目を通すと、内容を記憶に留めることもなく魔導暖炉へと放り込んだ。


 かつての王国がどうなったかなど、振り返る必要はない。


「ヴィクトリア、またそんな報告書を読んでいるのか。過去に囚われるのは君らしくないな」


 執務室に入ってきたカイルが、私の肩を抱き寄せながら耳元で囁く。

 私はふっと口角を上げ、彼の手を優しく払い除けた。


「あら、カイル様。これは単なる“不要な記録の整理“ですわ。わたくし、死んだ細胞に興味はございませんの」


 私は立ち上がり、窓の外に広がる無限の未来を見つめる。

 そこにはまだ見ぬ航路があり、未開の技術があり、そして何より、私を裏切らなかった多くの民の生活がある。


「申し訳ございません。公爵令嬢は、過去を懐かしむほど暇ではありませんの」


 その言葉は、誰かへの決別ではなく、自分自身への誇り高い宣言だった。


 私はもう、誰かのために背筋を伸ばすのではない。

 私自身の意志で、この世界の明日を創り出す。


 手に取ったのは、帝国の次なる十年を記した計画書。

 私のペンが走るたびに、世界は新しく書き換えられていく。


「ざまぁでしたのなら、本当にお気の毒。わたくしは今、最高に自由で、最高に忙しい毎日を過ごしておりますわ」



             〜〜〜fin〜〜〜





貴重なお時間を使ってお読み頂き、本当に有難うございました。

興味を持って頂けたならば光栄です。


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利息が高くついて困るの、カイルさんでね?
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