第四章 答えのない問い
餌をやれば懐いてくれると思っていたけど違った。
三毛猫は、もう何日も姿を見せない。
今日も一人、畑で雑草を刈る。
奥の茂みが、ガサガサと揺れた。
三毛猫だ。そう思って顔を上げた。
違った。
黒っぽくて、丸くて、もこもこしている。
なにこれ?
風で飛ばされてきたひざ掛けだと思った。
動いた。
生き物?
でも、どこが顔で、どこが足なのかわからない。
じっと目を凝らした。
……たぬきだ。
動物園でしか見たことがない、本物のタヌキ。
胸が躍る。
夜行性のはずなのに、真昼間。畑の隅で、じっとこちらを見ている。
逃げない。
餌をやってみようか。
タヌキとお友達になれるかも。
けど、何かがおかしい。
そう思っていると、タヌキが顔を背け、歩き出した。
ひょこひょこと。
後ろ脚を引きずっている。怪我をしているらしい。
相手は野生動物だ。刺激してはいけない。
私は動かずにいた。
タヌキはゆっくりと茂みの奥へ消えていった。
見えなくなってから、スマホで調べた。
鳥獣対策課。そこに連絡すれば、怪我した野生動物を保護してくれるらしい。
電話しながら探したが、もういなかった。
場所と症状を伝えて、電話を切った。
そのとき、一台の軽トラが狭い道を猛スピードで駆け抜けていった。
明らかなスピード違反。
以前から気になっていた。
スピードを出す人が多い。
もしかして。
さっきのタヌキは、車に轢かれたのでは。
そう思うと、胸が痛んだ。
あの怪我では、狩りもできないだろう。
思い返せば、痩せていた。
かわいそうに。
餌をあげればよかった。せめて、お腹だけでも満たしてやりたい。
でも、ルールがある。野生動物に、軽はずみなことはできない。
三毛猫だって、同じだ。
いや、違う。
野良猫は、野生動物ではない。
人間が飼って、捨てて、増やした。
人のエゴが生んだ犠牲だ。
それに、みーちゃんは飼い主と死別した。
野良猫であって野良猫ではない。
最近耳にする熊のニュースが頭をよぎった。
食べ物を求め、人里に降りてきて、駆除される。
動物好きは、熊に同情する。
でも、そこで暮らす人はどうだろう。
ふと、ある言葉を思い出した。
スーパーボランティアと呼ばれた、尾畠春夫さんの言葉だ。
「人間ほど悪くて最低な動物はいない」
人間が勝手に山を切り開き、動物たちの縄張りを奪っておきながら、食べ物がない動物が里に下りてくると「害獣」として殺す。
本当に、酷い話だ。
でも、だからといって、私が餌をやっていいのか。
それは、また別の問題な気がした。
いくら考えても、答えは出なかった。
あれから数日が過ぎた。畑と家の往復の毎日。
思い描いていた生活。
洗濯物を取り込んでいると、バスタオルに大きなカマキリが止まっていた。
悲鳴を上げそうになったけど、堪えた。
どうやら、田舎暮らしにも慣れてきたらしい。
さて、どうやって退いてもらおう。
もちろん触ることはできない。
餌で誘き寄せる?
いや、待って。
カマキリの餌は、生きた昆虫だ。
この子をバスタオルから移すためだけに、他の命を使うのか。
手が、止まった。
カマキリを見つめたまま、考え込んだ。
この惑星は残酷だ。
人間がどれだけ決まりを作ろうと、結局は弱肉強食。
これは、この惑星の絶対的な法則。
人がどれだけ進化しても、未来永劫変わらない。
そう断言できる。
この広い宇宙には、違う法則の惑星があるのだろうか。
それとも、同じ宇宙である以上、この法則は絶対なのか。
あの足を怪我していたタヌキを思い出した。
ポケットからスマホを取り出して、問い合わせた。
まだ保護されていなかった。
電話を切ったあと、俯いて、感傷に沈んだ。
どのくらい経っただろう。
そっとバスタオルを見ると、カマキリの姿はなかった。
次の日。
いつものように長靴を履いて、ヤッケを着て畑に向かった。
すると。
畑の隅にある切り株の上に、三毛猫が座っていた。
「みーちゃん!」
思わず、甲高い声が出た。
「やっと会えたね。待っててね。今、餌取ってくるから」
私の声に反応して、三毛猫が鼻をクイっと上げた。
急いで家に戻り、餌を持ってきた。
近づくと逃げると思って、離れた場所に置いた。
「みーちゃん、ご飯だよ」
三毛猫は、じっとこちらを見ている。
餌には、見向きもしない。
「おいしいよ。食べて」
それでも動かない。
興味がないのか。それとも、警戒しているのか。
私は数歩下がった。
それでも、三毛猫は動かなかった。
「お腹いっぱいなの?」
そう問いかけた。
「ミャー。ニャー」
返事が返ってきた。ぴったりのタイミングで。
まるで会話しているみたい。
不思議な子。
三毛猫は切り株から降りて、ゆっくりと歩き始めた。
私の方を一度振り返り、また前を向く。
裏山の入り口で立ち止まり、また振り返った。
この仕草、覚えている。
初めて会った時と同じだ。
ついてこい、と言っているみたいに。
私はついていった。
木々の枝が顔に当たる。足元は不安定だ。
長靴を履いていてよかった。
三毛猫は迷わず進んでいく。道なき道を。
やがて、視界が開けた。
そこにあったのは、あの廃神社だった。
三毛猫は、土に埋もれた鳥居に飛び乗って座った。
じっと、私を見つめている。
「どうしたの?」
問いかけた。
三毛猫が視線を外した。
何かを見ている。
誘われるように、私もその方向を見た。
何かが、ある。
じっと目を凝らす。
黒っぽい塊。動かない。
それが何か、気づいた私は、心が、凍りついた。
ゆっくりと近づいた。
足が震え、息が浅くなる。
横たわっていたのは、痩せて、ガリガリになった、あの、後ろ脚を引きずっていたタヌキだ。
動かない。
目を閉じている。
体は硬く伸びたまま、死んでいた。
私は、立ち尽くした。
涙が、溢れた。
止まらなかった。
ボロボロと、頬を伝って落ちる。
後悔が、押し寄せてきた。
胸が苦しい。
もっと探せばよかった。
毎日、毎日、探し続ければよかった。
ルールなんて。社会が作った決まりなんて。
そんなもの、無視すればよかった。
餌を、やればよかった。
この子のお腹を、満たしてやればよかった。
「ごめんなさい」
声が震えた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
何度も、何度も謝った。
タヌキの前で膝をついた。
でも、タヌキは動かない。
もう二度と、動かない。
自分の判断で助かったかもしれない命。
私のせいだ。
タヌキにそっと伸ばした手に、何かが触れた。
三毛猫だった。
泣き崩れている私に、優しく寄り添ってくれていた。
タヌキの亡骸に手を合わせた。
落ちている枝を拾い、土を掘った。
ご神木の前。
ここなら、安らかに眠れるだろう。
土は硬かった。手が痛い。
それでも掘り続けた。
やがて、小さな穴ができた。
タヌキの亡骸を、そっと抱き上げた。
軽かった。
穴に、静かに横たえた。
土をかけた。優しく、優しく。
そして、ゆっくりと、手を合わせた。
「どうか、安らかに」
そう祈った。
気づくと、三毛猫の姿はなかった。
いつの間にか、いなくなっていた。
「ザザザザー」
音に誘われて見上げた。
強い風が、ご神木の葉を散らしていた。
何百年もの歴史が、舞い落ちてくる。
この木は、ずっとここで見てきた。
命が生まれ、命が散っていくのを。
そして、これからも見続ける。
帰り道、足元を見つめながら、歩いていた。
もしまた、同じことがあったら。
私は、ためらわずに餌をやることができるのだろうか。
何のために、ここに引っ越してきたのだろう。
社会から離れて、自分を取り戻すためだったはず。
三毛猫には餌をやり、アリには砂糖を。
それなのに。タヌキだけには躊躇した。
社会のルールを、気にした。
私は。
最低だ。




