第一章 逃避行の果てに
実家を飛び出したのは、二十代の頃だった。
家族とは、まあ、仲が悪いわけじゃなかったと思う。ただね、息が詰まる。
ああしろ、こうしろ、普通はこうでしょって、見えない檻にどんどん押し込められていく感じ。
そもそも、普通ってなによ。母の普通は、私からあまりに遠かった。
限界だった。
だから私は、遠く離れた県で見つけた仕事に飛びついた。家族は当然反対した。
父が、母が、祖母が。全員の反対を跳ね除けて。
私は初めて、自分の意志を押し通した。
新しい街での生活は、最初は新鮮だった。誰も私のことを知らない。誰も期待してこない。それって、めちゃくちゃ楽だった。
でも、仕事は激務だった。朝から晩まで、休む暇なんてほとんどない。でもそれでよかった。忙しくしてるあいだは、余計なこと考えなくてすむから。家族のことも、自分の居場所のことも、全部忘れていられた。
そうして数年が過ぎた。
気づいたら、私はボロボロになってた。
身体も心も、もう限界。そんな時に、人事部とちょっとした衝突があった。以前から気の合わない人物。裏表の激しいご機嫌取り。私の嫌いなタイプ。そいつと衝突して、なんかもう、プツンって糸が切れちゃった。
「辞めます」
上司にそう告げた時、不思議と後悔はなかった。むしろスッキリした。ああ、やっと終わったんだなって。
いや、本当は後悔もあった。
引き止めてくれる人が沢山いた。その人たちの顔を見た時、胸が痛んだ。
でも、もう決めたことだった。
仕事辞めた私は、ぼーっとしてた。社宅で退去期限が迫ってた。けど、一週間くらい部屋でゴロゴロしながら、これからどうしようって考えてた。
また新しい仕事探す? でもまた同じことの繰り返しになるんじゃ……
そんなことを考えてたら、ふと思い出した。
田舎暮らし。
昔から憧れてた。都会の喧騒から離れて、静かにのんびり暮らす。そういう生活。でも、いつかねって、ずっと先送りにしてた小さな夢。
じゃあ、今やっちゃう?
「一年だけ」
そう決めた。一年間だけ、田舎で暮らしてみよう。仕事はしない。貯金で食いつなぐ。一年経ったら、また考えればいい。
そうして見つけたのが、この町だった。山に囲まれた、のどかな場所。そこに古い一軒家があって、家賃も佇まいも気に入った。それに、敷地内に畑も付いていた。即決。
引っ越しの日、荷物を運び入れながら、私は深呼吸した。
空気が、水が、全然違う。
澄んでて、静かで、優しい。
「よし、ここで一年…… のんびりしよっと」
私はそう呟いた。
一年だけ。何も考えず、何も求めず。ただ静かに、自分を取り戻す。
でも、現実はそう甘くなかった。
引っ越して数日後、前の家に残していた荷物を取りに戻った。その間に、泥棒に入られた。
本当に。
家に戻ってきたら、玄関の鍵が開いていた。中に入ると、荷物が散乱していた。引っ越しでごちゃごちゃだったから、何を盗まれたのか今でもわからない。でも、誰かが家の中に入った形跡は、はっきりとあった。
ショックだった。
思い描いていたのんびり田舎暮らしが、最初から大きくつまずいた。
私は慌てて防犯カメラを何台も買って家の周りに設置した。護身用の武器も買った。いざという時に使えるか分からない。けれど、何もないよりはマシだと思った。
それから数日して、畑を始めようと思って必要なものを買いに出かけた。
初めての畑。心が踊らないわけない。当然すべて無農薬で育てるつもり。上手くいかなくてもいい。売るためじゃない。
ただ、育ててみたかった。
種はここ、道具はまた別の店。一軒の店で全部揃わない。けど、楽しくて楽しくて、気づいたら、とても遠い店まで行っていた。
買い物をしている間に、すっかり日が暮れてしまった。
家に戻ってきて、私は愕然とした。
真っ暗だった。
それは、当たり前だった。周りに外灯なんてないし、隣の家もない。自分の家が、完全に闇に包まれて見えなかった。
怖かった。体が震えた。
都会ではありえない。街灯があって、コンビニの明かりがあって、どこかしら明るかった。でもここは違う。本当に、何も見えない。
車のライトで、やっと家が浮かび上がった。
ああ、よかった。私の家があった。
でも、そう思っても、震えは止まらなかった。
それからはずっと家に引きこもっていた。物音がしたら防犯カメラをチェックする毎日。
古い民家なので、音が日常的にする。おそらく熱膨張なんだろう。
「パン!」「メキ!」「ダン!」
ボリュームが大きすぎて、理屈ではわかっていても自然現象とは思えない。深夜でも、容赦なく鳴った。ラップ音ではないかと怯えた。それか、誰かこっそり住んでいるのではと疑った。
すり減った心と体を休めるため、田舎に引っ越してきたのに、まるで休まらない。気づけば街の喧騒が恋しくなっていた。人のいる場所に戻りたい。そんな思いだけが、日に日に大きくなっていった。
けれど、時間が経つにつれ、徐々に慣れてきた。
穏やかに暮らせるようになった。
そんなある日のことだった。
風で飛ばされたブルーシートを片付けていた。畑の隅に丸まっていたそれを、やっとの思いで引っ張り出した、その瞬間。
背後で、声がした。
「だれなの、あなた?」
不思議なほど、優しい声だった。
誘われるように、振り返る。
三毛猫が、いた。
本作は不定期の掲載となりますが、気長にお付き合いいただけたら嬉しいです。




