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書くことが、私の生きる道

——言葉は時を越える。彼女が残した“をかし”の心が、未来へと灯る。



 あの春から、どれほどの月日が流れただろう。

 桜の花はまた咲き、そして散っていった。

 けれど、あの日見た光景は、私の胸の中でいまだに色あせることがない。


 定子さまがいなくなっても、私は生きている。

 この宮を離れ、季節の移ろいを見つめながら、ただ書き続けている。


 書くこと。

 それは、私にとって“生きること”そのものになっていた。


 風が吹き抜ける。

 庭の木々の葉が揺れ、鳥が鳴く。

 そのすべてが、かつての宮中の日々を思い出させる。


 筆を取るたびに、あの笑顔が浮かぶ。

 『清少納言の言葉には、風があるわね』

 ——定子さま。

 あなたのその言葉が、今も私を導いてくれるのです。


 “枕草子”——

 それが、私の手記の名になった。


 はじめは、ほんの気まぐれだった。

 見たこと、聞いたこと、感じたこと。

 すべてを、思いつくままに綴る。

 それがいつのまにか、私の心の拠り所になっていた。


 「をかし」と思う瞬間。

 人の笑顔、自然の色、儚さ、喜び、そして寂しさ。

 この世のすべてを、言葉という形で抱きしめたかった。


 ある夜、私は筆を置き、灯のゆらめきを見つめた。

 紙の上には、無数の言葉たちが並んでいる。

 それはまるで、過ぎ去った日々が再び息を吹き返したようだった。


 “いとをかし”——

 この言葉に、どれほど救われただろう。

 悲しみの中でも、美しさを見つけられる心。

 それこそが、生きる力だった。


 けれど、時は容赦なく流れる。

 新しい権力が生まれ、古きものは忘れられていく。

 宮中の誰もが忙しなく動き、かつての笑い声はもうどこにもない。


 でも、私は信じている。

 言葉は、消えない。

 たとえ人がいなくなっても、その言葉が誰かの心に届けば、また新しい光になる。


 夜更け、私はひとり、静かに筆を取った。

 墨の匂いが漂い、外では虫の音が聞こえる。


 『この世は、いとをかし』


 そう書きつけながら、ふっと微笑む。

 悲しみも、孤独も、全部を受け入れた先にある“美”。

 それを感じ取れる心こそ、人の証なのだと思う。


 私は思う。

 人はみな、限りある存在だ。

 けれど、言葉は生き続ける。

 誰かの心に残り、時を越えて語りかける。


 ——もし、未来の誰かがこの書を読んでくれるなら。

 その人の中に、少しでも“をかし”が芽生えてくれたなら。

 私はきっと、それでいい。


 春の夜、私は空を仰ぐ。

 月が淡く輝き、桜の花びらが光のように舞い落ちる。

 その光景に、あの人の笑顔を見た気がした。


 「定子さま……」

 私はそっとつぶやく。

 「あなたがいたこの世界は、いとをかしきものです」


 筆を置き、静かに目を閉じた。

 心の中に、やさしい風が吹く。


 ——美しさは、儚さの中にこそある。

 それが、私の生き方であり、

 そして、私がこの世に残す唯一の真実。

次回

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