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散りゆく桜のように

——消えゆく光、そして心に咲く永遠の花。



 春。

 それは一年でいちばん好きな季節だった。

 けれど、この春だけは、見上げる桜の色が痛かった。


 定子さまが、病に伏した——。

 そんな噂が立ったのは、冬が終わりを告げる頃。

 最初は信じたくなかった。

 けれど、日が経つにつれて、その笑顔を見かけることが減っていった。


 『清少納言、桜が咲いたわ』

 久しぶりに顔を合わせた定子さまは、まるで春の光を宿したように微笑んだ。

 でも、その頬は少し痩せ、指先は透きとおるほど白かった。


 「見に行きましょう。庭の桜、去年よりずっと見事です」

 私は笑って手を取った。

 定子さまは小さくうなずき、ゆっくりと立ち上がる。

 外に出た瞬間、風が花びらを巻き上げ、空が白い花の雨で満たされた。


 『……きれい』

 その一言が、涙のように響いた。


 『桜って、どうしてこんなに儚いのかしら』

 定子さまがぽつりとつぶやく。

 『散るために咲くのね。まるで、私たちのよう』


 「違います」

 私は首を振った。

 「桜は、散っても必ずまた咲きます。

  定子さまも同じです。人の心の中に、ずっと咲き続ける」


 定子さまは少しだけ目を伏せて笑った。

 『あなたの言葉は、優しくて、少し残酷ね』


 その笑みが、胸を締めつけた。


 日々が静かに過ぎていく。

 季節が移ろうように、定子さまの容態もまた少しずつ変わっていった。

 それでも、彼女は気品を失わなかった。

 どんな夜でも、誰よりも穏やかに微笑み、誰かを気づかう。


 ある晩、彼女がふとつぶやいた。

 『清少納言。私がいなくなったら、あなたはどうするの?』


 「またその話ですか」

 『だって、気になるのよ。

  あなたは生きる人だから。

  私がいなくなっても、あなたはきっと書き続けるでしょう?』


 私は黙っていた。

 否定も、肯定もできなかった。


 やがて、風が冷たくなる。

 春の終わりを告げる雨が、宮中を静かに包み込む。


 その日、私は定子さまの部屋に呼ばれた。

 『来てくれてありがとう』

 彼女は寝台の上で、薄く笑っていた。

 『ねえ、清少納言。“いとをかし”って、あなたにとって何?」


 突然の問いに、私は言葉を探す。

 「……生きていること、でしょうか。

  泣くことも、笑うことも、美しいと思える心。

  それが“をかし”だと思います」


 『そう……あなたらしいわね』

 彼女は目を細めた。

 『私も、そう思う。

  悲しみも、きっと美しいのね』


 その声は、春風のようにやわらかく、遠ざかるように聞こえた。


 翌朝、空は青く晴れていた。

 庭の桜は一晩でほとんど散っていた。

 静かな寝殿の中で、私はひとり、彼女の手を握っていた。

 もう、何の力も感じなかった。


 「定子さま……」

 呼びかけても、返事はない。


 花のように微笑んだまま、彼女は眠るように息を引き取った。


 その後のことは、あまり覚えていない。

 泣いたのか、叫んだのかさえ、思い出せない。

 ただ、白い花びらが風に舞う中で、私は立ち尽くしていた。


 “美しいものほど、早く消える” ——誰かが言ったその言葉が、胸を刺した。

 けれど私は知っている。

 定子さまの美は、消えない。

 それを、私は書く。

 紙の上に、言葉の中に、永遠に残す。


 夜。

 筆を取る手が震える。

 涙が紙を濡らす。

 それでも、私は書いた。

 「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは—— 」


 あの頃の空気が、指先に戻ってくる。

 美しさも、痛みも、すべてを抱いて。


 “散りゆく桜のように、美しく終わること。”

 それが、彼女が教えてくれた最後の“をかし”だった。

次回

「書くことが、私の生きる道」

——悲しみの果てに残ったのは、一筋の筆跡。

彼女が綴る“言葉”が、永遠の命を持つ——。

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