嵐の宮廷、儚き光
——栄華のきらめきの裏で、愛と忠義が試される。
それは、何の前触れもなく訪れた。
宮中を満たしていた穏やかな香の煙が、ある日を境に、冷たい風へと変わったのだ。
藤原道隆公—— 定子さまの父君が病に伏したという報せが、朝のうちに広がった。
女房たちはざわめき、貴族たちは顔を見合わせる。
まるで、光源がひとつ失われた宮殿のように、空気が重く沈んでいた。
『清少納言、父上は……』
定子さまの声は、信じられないほどかすれていた。
いつも凛としていたその瞳が、揺らいでいる。
私は何も言えなかった。
ただ静かに、袖の端を握りしめる。
病が重いことは、皆が知っていた。
けれど、それを口にすることがどれほど残酷なことかも、皆が知っていた。
日が落ち、夜が深まる。
灯火がゆらゆらと揺れる寝殿の中で、定子さまは静かに天を仰いでいた。
『父上がいなくなったら、私はどうなるのかしら』
その声は、風の音よりも小さく、けれど私の胸に鋭く刺さった。
「定子さまは、定子さまです」
気づけば、私はそう口にしていた。
「誰が何を言おうと、あなたがここにいる限り、この宮は光に満ちています」
定子さまは少し驚いたように私を見つめ、それから小さく微笑んだ。
『……あなたは、強いのね』
「いえ、弱いからです。強く見せなければ、書けなくなるんです」
翌日、道隆公の訃報が届いた。
その瞬間、宮中の空気が変わった。
嘆きの声とともに、別のざわめき—— 政治の駆け引きの音が、冷たく響き始めたのだ。
道長。
その名が、静かに、しかし確実に力を帯びていく。
道隆公の弟、藤原道長。
彼が政の中枢へと歩み出すその時、誰もが感じていた。
——定子さまの時代が、終わりに近づいている、と。
『清少納言、私、こわいの』
定子さまがつぶやく。
『この宮が、父上の香のように消えてしまいそうで』
「消えません」
私は首を振った。
「あなたの存在が“をかし”そのものです。
たとえ誰に奪われようとも、美しさは消えません」
『……あなたって、本当に不思議ね。
悲しいときほど、言葉が光る』
そう言って微笑む定子さまの姿が、あまりに儚くて、胸が痛んだ。
季節は秋へと移り変わる。
金木犀の香りが風に乗り、遠くの庭で虫の声が鳴く。
それでも宮中の人々の笑顔は減っていった。
宴の回数も、音楽の響きも。
私は日ごとに筆を重ねた。
書かずにはいられなかった。
定子さまの笑顔、宮中の記憶—— そのすべてを留めておきたかった。
けれど、その想いが募るほどに、筆先からこぼれる言葉は涙のように滲んでいく。
ある夜、定子さまが私を呼び寄せた。
『清少納言。もし私がこの宮を去る日が来たら、あなたはどうするの?』
「……きっと、書きます」
『書く?』
「ええ。悲しみも、恋しさも、全部。
あなたがここにいた証を、“をかし”の言葉で残します」
しばらく沈黙があって、定子さまは微笑んだ。
『あなたの言葉は、未来を照らすわね』
やがて、外の空には嵐雲が広がっていた。
雷鳴が轟き、風が簾を揺らす。
私は灯火を守るように両手で覆いながら、心の中で叫んだ。
「どうか、この光を、奪わないで——」
でも、嵐は止まらなかった。
権力の波が、定子さまを、そして宮中を飲み込んでいく。
その中で私は知った。
“美”とは、永遠ではない。
けれど、永遠ではないからこそ、美しいのだと。
嵐の夜を越え、朝日が差し込む。
私はふと、机の上の紙片に目を落とした。
そこには、涙でにじんだ一行。
——「世の中は、いとをかしき儚さの中にこそ、美が宿る」
その言葉だけが、確かに私を支えていた。
次回
「散りゆく桜のように」
——桜が散るとき、彼女はもういなかった。
残されたのは、香と記憶と、ひとつの想い。




