表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

美しき言葉、うつろう心

——“をかし”の哲学が芽吹く。言葉と感情、その狭間で清少納言が見つける“本当の美” 。



その頃、私は書くことに取り憑かれていた。

 誰かのためにでも、命じられたわけでもなく、ただ心の中であふれてくる言葉たちを、どうしても形にしておきたかったのだ。


 春の霞が漂う廊下。薄紅の桜の花びらが風に舞い込んでくる。机の上に散る花弁を見て、ふと筆を取った。

 ——「春はあけぼの」。

 書いた瞬間、胸の奥がすっと晴れるような気がした。


 言葉って不思議。目には見えないのに、誰かの心を動かす力がある。

 あの日、定子さまが私の書いた和歌を読み上げ、ふっと笑ってくださった時、そのことをはっきり悟った。


 『清少納言の言葉には、風があるわね』

 そう言って、定子さまは桜の花を指先でひらりと払った。

 『形じゃなく、心で感じたままを綴る。それが“をかし”なのだと、あなたを見て思うの』


 “をかし”。

 なんと美しい響きだろう。可笑しいとも、愛らしいとも、趣深いとも取れる——まるで

感情のグラデーション。

 ただの褒め言葉ではない。その中に「生きる喜び」そのものが詰まっている。


 けれど、宮中で“をかし”を理解する人は、そう多くはなかった。

 「また清少納言が何か書いている」

 「才気ばしった女は、やっぱり扱いにくいわね」

 そんな陰口が耳に入るたび、筆先が震えた。


 それでも私は書いた。

 季節の移ろい、人々の表情、香り、光——それらを言葉で残すことが、私の息をするような行為だったから。


 ある晩、香炉の煙が静かに立ちのぼる寝殿で、私は定子さまのそばに座していた。

 『ねえ、清少納言。あなたはどうしてそんなに書くのが好きなの?』

 その問いに、私は少し考えてから答えた。

 「たぶん、怖いからです」

 『怖い?』

 「時が流れて、すべてが消えてしまうのが。人の笑顔も、花の色も。だから書いておきたいんです。たとえ私がいなくなっても、“いとをかし”と思った心が残るように」


 定子さまは、少し驚いたように私を見つめ、それから優しく微笑んだ。

 『……あなたの言葉、まるで光ね。儚くても、確かに温かい』


 その夜、私は涙が出るほど嬉しかった。

 誰かに理解されるということ。

 それが、どれほど心を救うことか。


 翌朝、私は庭に降りた。

 露に濡れた若草の匂い、遠くで鳴く鶯の声——それらすべてが、言葉に変わって頭の中を駆け巡る。

 「……ああ、これが“をかし”なんだ」

 自然の一瞬一瞬が、心を震わせる。

 その感情をまっすぐに受け止め、言葉に変える——それこそが生きることそのものなのだと感じた。


 だが、言葉は美しいだけではない。

 ときに、人を傷つける刃にもなる。


 ある日、女房仲間の伊勢が私に言った。

 『あなたの言葉は鋭すぎるの。皆、それを恐れているのよ』

 「そんなつもりはないのに」

 『でも、感じるのよ。あなたが“見透かしている”って』


 その言葉に胸が痛んだ。

 私はただ、美しさを見つけたかっただけなのに。

 けれど、見つめすぎるあまり、人の弱さまでも書き取ってしまう——それが

 “才女”と呼ばれる者の宿命なのだろうか。


 夜更け、ひとりで灯を見つめながら、私は筆を置いた。

 燃える油の光がゆらめき、影が壁に揺れる。

 「美しさって、なんだろう」

 完璧な姿? 誰も傷つけない言葉? それとも—— 儚くても真実を映す一瞬の輝き?


 その答えを求めるように、私はまた紙を取り出した。

 書きたい。

 書くことでしか、自分を確かめられない。


 “をかし”—— その一言に、私のすべてがある。

 美しきものを愛し、うつろうものを抱きしめる。

 それが、私の生きる形。


 やがて季節は夏へと移ろい、私の周りの人々も変わっていった。

 だけど、言葉だけは裏切らなかった。

 書けば書くほど、世界が色づき、心が透きとおっていく。


 そうして私は思う。

 “をかし”とは——

 この無常の世を、それでも「美しい」と言える力。

 悲しみも、孤独も、笑いも。

 そのすべてを、光に変える心。


 それが、私が見つけた“本当の美”だった。

次回

「嵐の宮廷、儚き光」

——華やかだった宮廷に、黒い影が落ちる。

笑顔の裏に忍び寄る嵐の気配、そして“別れ”の序章——。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ