初出仕! 右往左往の女房ライフ
「女房って、こんなに忙しいものだったの!?」
そう叫びたい気持ちを、わたしは今日だけで三度は飲み込んだ。
出仕して三日目。
夢のように華やかな宮中生活は——想像していたよりも、ずっと現実的で、ずっと過酷だった。
『清少納言、扇を!』
「はいっ!」
思わず小走りで定子さまのそばに近づく。
けれど、歩幅を間違えただけで裾が乱れる。
几帳の向こうに座る先輩女房・小袿が、ちらりとこちらを見た。
『裾、乱れてますわよ?』
「っ……すみません」
彼女の笑顔はやわらかいけれど、言葉の端が鋭い。
宮中では“完璧”でなければ、それだけで噂になる。
扇を渡すだけの動作にも、所作、角度、呼吸——すべてに美意識が求められる。
まるで舞台の役者みたいだ。
それでも、失敗するたびに定子さまは微笑んでくださる。
『焦らなくていいのよ、清少納言。美しさは“余裕”の中にあるのだから』
……その言葉が救いだった。
夜、女房部屋に戻ると、ようやく息をつける。
几帳を少し開けて、春の風を入れた。
香の煙がゆらめいて、まるで雲みたいに漂う。
『今日もまた、小袿さまに叱られたの?』
同室の若い女房・実世が笑いながら寄ってくる。
「叱られたというか……見下された、かな」
『小袿さまは美人で頭も良いけど、ちょっと意地悪だからね。でも大丈夫、定子さまのお気に入りになれば、誰も文句言えないよ』
「そんな簡単にいくものなの?」
『……宮中では、愛されるか、忘れられるか、どっちかよ』
実世の言葉に、胸がチクリとした。
愛されるか、忘れられるか。
そんな極端な世界で、本当に自分を貫けるのだろうか。
次の日の朝。
定子さまのもとへ文が届いた。
「東宮さまよりのご返事です」
文を受け取った定子さまは、わずかに微笑みながらわたしたちに言った。
「この文を読んで、どう思う?」
御簾の向こうで、小袿が先に答える。
「見事な筆の流れにございます。理知的で、まことにご立派なお言葉かと」
「なるほど。では清少納言は?」
突然名を呼ばれて、息が止まる。
「わ、わたくしは……」
文をよく見ると、筆致は見事だが、どこか装飾的すぎる。
美しさを追うあまり、心が見えない。
思わず口を開いた。
「……美しい文にございます。けれど……どこか“心”が遠いようにも思われます」
一瞬、室内の空気が静まった。
やばい。言いすぎた。
でも、定子さまはゆっくりと笑った。
『清少納言。あなたの言葉、なかなか鋭いわね』
「も、申し訳ありません……」
『謝ることはないわ。美しさを語るにも、勇気が要るのよ』
御簾の向こうで光が差す。
その笑顔を見た瞬間、胸がまた高鳴った。
この方のもとでなら、言葉が輝く気がする。
その日の夕暮れ、庭で少し風に当たっていると、小袿が背後から声をかけてきた。
『ずいぶん、定子さまに気に入られたみたいね』
「そ、そんなこと……」
『ふふ。まあいいわ。宮中では“気に入られる”のも才能よ。だけどね、同時に“妬まれる”のも才能なの』
その言葉に、背筋が凍る。
小袿の笑みは穏やかだけど、瞳の奥が冷たく光っていた。
まるで、美の戦場でわたしを試すように。
夜。
灯りの下で、筆を取った。
一日の疲れを癒すように、さらさらと筆が動く。
「夜をこめて鳥の空音ははかるとも——」
まだ未完成の和歌。
心の奥で鳴く鳥の声。
美しいものを探して、言葉で追いかける。
書くことでしか、わたしはこの世界で生きられないのかもしれない。
『清少納言、まだ起きてるの?』
襖の向こうから実世の声がする。
「うん、少しだけ。今日のこと、忘れたくなくて」
『ねえ、あんたってほんと変わってる。普通は“疲れた”って寝ちゃうのに』
「だって—— 言葉って、いま感じたものを閉じ込める“魔法”みたいじゃない?」
『……詩人だね、あんた』
実世が笑う声がして、几帳の向こうに月明かりが差した。
筆の先を見つめながら、わたしはそっと呟く。
「わたしはこの場所で、“をかし”を見つける。
どんなに意地悪でも、どんなに寂しくても。
それが、わたしの生きる意味だから」
そして翌朝。
定子さまが笑顔でわたしを呼んだ。
『清少納言。あなたの感じた“をかし”、もっと聞かせてちょうだい』
その言葉が、心に火を灯した。
この人のそばで、わたしは“美”を語りたい。
言葉で戦い、言葉で笑い、言葉で生きていく。
それが、女房・清少納言のはじまりだった。
次回
「定子さま、まぶしすぎです!」
——主従を越えた友情と憧れ。二人の絆が、やがて“美の哲学”を生む。




