春はあけぼの、恋のはじまり
春。
あけぼの。
空の端っこがほんのり白くなって、やがて淡い紫に染まるその瞬間——。
わたし、清少納言は思うのだ。
この世でいちばん「をかし」な時間は、まさにこのときだって。
静けさの中、鳥の声が少しずつ響きはじめる。夜明け前の空気はひんやりしていて、でもどこか甘い。
光が山の端を照らすたびに、心の奥まで柔らかく満たされていく。
……そう、この感じ。
人が恋に落ちる瞬間も、きっとこんなふうなんだと思う。
その朝、わたしは都の外れの屋敷で、旅立ちの支度をしていた。
今日から、わたしは中宮・定子さまのお側に仕えることになる。
あの有名な一条天皇の后、才色兼備の貴婦人——。
「女房として宮中に上がる」
そんな大それた話、わたしに務まるのだろうか。
でも、胸の奥では高鳴る音が止まらない。
まるで恋に落ちたみたいに。
『清少納言どの、お支度はもうお済みでございますか?』
侍女の梅子が、几帳の向こうから声をかけてきた。
「ええ……あと少し。鏡をもう少しこちらに」
磨き込まれた青銅の鏡の中に、緊張と期待で少し紅潮した自分の顔が映る。
うん、悪くない。たぶん。
少なくとも“宮仕えデビュー”の顔には見える。
『定子さまはとてもお優しい方と伺っております。
清少納言さまなら、きっとすぐにお慕いになられましょう』
「……そうだといいけど」
言いながらも、心の奥でふと不安がよぎる。
宮中は、ただ美しいだけの世界ではない。
言葉の一つ、仕草の一つで命運が変わる。
“知恵”と“美意識”がなければ生き残れない、まるで戦場のような場所——。
わたしが今まで「をかし」と思ってきたすべてが、通用するだろうか。
牛車がゆるやかに動き出す。
すだれ越しに見える春の都。
花の香り、風の匂い、川のせせらぎ。
どれも、わたしの知らないきらびやかな世界の入口のようだった。
「春はあけぼの」
そう呟いたら、胸の奥が少し熱くなった。
この瞬間をいつか書き記そう。
心に残った“をかし”を、ちゃんと文字にして残しておこう。
そんな予感が、胸の中で静かに灯った。
宮中——清涼殿の回廊は、噂通り息を呑むほど美しかった。
陽の光を受けてきらきらと輝く簾。雅楽が遠くから聞こえてくる。
女房たちの衣の色は花のように艶やかで、香の香りが重なり合っている。
……正直、少し息が詰まる。
『あら、新しい方?』
ふと声をかけられて振り向くと、同年代くらいの女房が笑っていた。
「え、あの……はい。清少納言と申します」
『まあ、名前に“清”が入るなんて縁起がいいわね。私は小袿。よろしく』
彼女の声はやわらかいけど、瞳の奥に測りかねない光がある。
そうか——ここでは笑顔の奥にも策略が潜んでいるのだ。
『定子さまは今、御簾の向こうにおいでよ。失礼のないようにね?』
息を整え、几帳の前に膝をつく。
緊張で指先が震える。
御簾の向こうから、透けるような声がした。
『あなたが、清少納言ね?』
その声だけで、空気が変わった。
優雅で、穏やかで、でも確かな知性を感じる。
思わず頭を深く下げた。
「はい、中宮さまにお仕えできますこと、何よりの幸せにございます」
『ふふ……噂は聞いておりますわ。あなた、たいそう“もののあはれ”に通じているとか』
「恐れ多いことでございます」
御簾が少しだけ上がり、定子さまの面影が覗く。
その笑みを見た瞬間、心臓が止まった。
ああ——。
この方こそ、わたしの“理想の美”だ。
それからの日々は、まるで夢のようだった。
宮中で交わされる言葉ひとつひとつが宝石のようにきらめき、
定子さまの言葉は、いつも新しい世界を見せてくれた。
『ねえ、清少納言。あなたはどう思う? “美しい”とは、何かしら』
「……人の心が動く瞬間、でしょうか」
『面白い答えね。なら、あなたが感じた“をかし”をいつか私にも教えてちょうだい』
その笑顔を見たとき、わたしは確信した。
この方のためなら、どんな言葉でも紡げる。
どんな風景でも描いてみせる。
わたしが書くのは、ただの随筆なんかじゃない。
生きる証。
そして——この世界の“美しさ”そのものだ。
春の夜。
簾の向こうに、月がやわらかく差し込んでいる。
香を焚きしめながら、筆をとった。
「春はあけぼの——」
書き出しの一行を見つめながら、そっと笑う。
あの朝、あの瞬間。
すべては、ここから始まったのだ。
恋のように、はかなく。
夢のように、あでやかに。
——この物語は、平安の夜明けに生まれた。
次回
「初出仕! 右往左往の女房ライフ」
——宮中生活のリアルが炸裂!? 恋より難しい“礼儀作法バトル”勃発!




