第3話 環境利用戦術
俺の視界の端で、ヒーラーの少女が唇を噛み締めているのが見えた。
白いローブの裾は泥で汚れ、恐怖と悔しさで潤んだ瞳が、迫り来るプレイヤーキラー(PK)たちを映している。彼女の仲間だったであろうプレイヤーのアバターは、既に光の粒子となって消滅した後だった。
PKは三人。
リーダー格と思しき、両手持ちの大剣を担いだ重戦士。
身軽そうな革鎧を着込み、二本の短剣を逆手に持った盗賊。
そして、後方でニヤニヤと笑いながら杖を構える黒魔道士。
レベルは、俺やあの少女より一回りも二回りも上だろう。装備も、初期装備とは明らかに違う、金属の光沢が美しいプレートアーマーや、魔力の刺繍が施されたローブだ。初心者が多いこのエリアで、彼らは明らかに格上だった。
「面倒なことになった」
俺は心の中で毒づいた。だが、一度「介入する」と決めてしまった以上、後戻りはしない。
とはいえ、真正面から戦って勝てる相手ではない。俺のステータスはLUKとAGIに偏っており、戦闘能力は皆無に等しい。武器は初期装備のショートソード一本。防具に至っては、ただの布の服だ。
ならば、どうするか。
俺は戦士でも魔法使いでもない。プログラマーだ。
戦うのは、目の前のプレイヤーではない。この世界の「環境」と「システム」だ。
俺はPKたちから見えない木の陰に身を潜めながら、冷静に周囲の状況を分析する。
この森は『始まりの街・アルモニカ』の北に広がる『囁きの森』。低レベルのモンスターしか出現しない、いわゆる初心者ゾーンだ。だが、βテストの情報によれば、この森の奥深くには一体だけ、場違いな高レベルモンスターが「主」として眠っているという。
確か、名前は『フォレスト・グリズリー』。
ノンアクティブ(非先攻)タイプで、こちらから手を出さない限りは襲ってこないが、一度敵と認識した相手は、縄張りの外まで執拗に追いかける習性を持つ。そして、そのヘイト(敵対心)管理AIには、ちょっとした「穴」があったはずだ。
「……見つけた」
俺の視界が、PKたちの背後、森のさらに奥にある巨大な洞窟を捉えた。あの洞窟が、グリズリーの寝ぐらだ。
作戦は決まった。
シンプルで、確実な方法。俺の得意分野だ。
俺はまず、地面に転がっていた手頃な石を拾い上げた。
そして、盗賊風のPKの背中に向かって、力任せに投げつける。
DEXに振ったおかげか、石は綺麗な放物線を描き、カツン、と軽い音を立てて彼の背中の鎧に命中した。
「あ? なんだ?」
盗賊が驚いて振り返る。他の二人も、訝しげに視線を巡らせた。
俺はゆっくりと木の陰から姿を現す。
「おいおい、なんだテメェ。仲間か?」
重戦士が、威圧するように大剣を肩に担ぎ直した。
俺は何も答えない。ただ、無表情に彼らを見つめるだけだ。
「ちっ、雑魚が一人増えただけか。手間かけさせやがって」
盗賊が舌打ちし、短剣を構え直す。
「おい、そこのヒーラーちゃんも、こいつもまとめて殺っちまえ」
リーダー格の重戦士がそう命じた瞬間、三人の意識が完全に俺と少女へと向いた。これでいい。
俺は彼らに背を向け、一目散に森の奥へと走り出した。
「おい、逃げる気か! 逃がすかよ!」
「獲物が自分から走ってくれるとは、手間が省けたぜ!」
背後から、荒々しい声と地を蹴る音が迫ってくる。
俺はAGIに振った俊足を最大限に活かし、木々の間を縫うように疾走する。狙いは、先ほど確認したグリズリーの寝ぐらだ。
「速えな、あいつ!」
「AGI特化の雑魚か! どうせ攻撃はスッカスカだ!」
彼らの分析は正しい。俺に攻撃力はない。
だが、問題ない。攻撃するのは、俺じゃないからだ。
数分間、全力で走り続ける。背後のPKたちとの距離は、付かず離れずといったところ。彼らも、俺がただ逃げているだけだと思っているのだろう。油断と侮りが、その足取りから見て取れた。
やがて、目的の洞窟が見えてきた。
周囲の空気が、気のせいか少し重くなったように感じる。高レベルモンスターが放つ、独特のプレッシャーだ。
「ここまでだ、ネズミ野郎!」
背後から重戦士の怒声が飛んでくる。彼がスキルを発動したのだろう、足元が光り、その速度が一気に増した。
まずい、追いつかれる。
だが、それも計算のうちだ。
俺は洞窟の入り口まであと数メートルというところで、進行方向を直角に変えた。そして、洞窟のすぐ脇にそびえる、巨大な岩――高さ5メートルはあろうかという一枚岩――に向かって、一直線に突っ込む。
「ハッ、頭でも打ったか!」
PKたちが嘲笑する。壁に激突して自滅すると思ったのだろう。
その刹那、俺はスキルを発動した。
「【テクスチャ・ウォーク】」
視界がワイヤーフレームへと切り替わる。
モノクロの世界に浮かび上がる、岩のポリゴンの継ぎ目。その緑色の光の線に、俺は躊躇なく身体を滑り込ませた。
ズブリ、という奇妙な感覚と共に、俺の身体は巨大な岩の中へと完全に吸収される。
PKたちの視界から、俺の姿は忽然と消えた。
「なっ!? 消えた!?」
「どこ行った! ステルスか!?」
PKたちが混乱の声を上げる。だが、彼らが俺の行方を探す余裕は、既になかった。
俺が彼らをここまで誘導し、大声で騒ぎ立てたことで、洞窟の主はとっくに目を覚ましていた。
グオオォォッ!
地を揺るがすような、凄まじい咆哮。
洞窟の暗闇から現れたのは、巨大な熊のモンスターだった。その体躯は大型トラックほどもあり、血のように赤い目が、縄張りを荒らす侵入者――PKの三人組――を憎悪に満ちた瞳で捉えていた。
フォレスト・グリズリー。レベルは推定50。
初心者ゾーンにいていい存在ではない。
「な、なんだこいつ!?」
「聞いてねえぞ! こんなモンスターがいるなんて!」
「ひっ……!」
PKたちの顔から血の気が引いていく。
黒魔道士が慌ててファイアボールを放つが、グリズリーの分厚い毛皮はそれを容易く弾き返し、ダメージログには「1」という絶望的な数字が浮かんだだけだった。
βテストで確認したAIの穴。それは、「最初にヘイトを稼いだ対象が視界から完全に消え、索敵範囲内に別の対象が存在する場合、ヘイトが即座に最も近くの対象へと移る」というものだ。
俺は石を投げ、彼らのヘイトを稼ぎ、ここまで誘導した。そして、【テクスチャ・ウォーク】で完全に姿を消した。
結果、グリズリーの全ての敵意は、今、目の前にいるPK三人組へと向けられている。
「に、逃げろおおお!」
重戦士が情けない悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、もう遅い。
グリズリーが振り下ろした巨大な爪が、彼の自慢のプレートアーマーを紙のように引き裂いた。一撃。それだけで、重戦士のアバターは夥しいダメージエフェクトと共に砕け散り、光の粒子となって消滅した。
残る二人も、なすすべはなかった。
盗賊は俊敏さを活かして逃げようとしたが、グリズリーの突進に追いつかれ、巨大な顎で噛み砕かれる。
黒魔道士は、恐怖で足がすくんだのか、その場から一歩も動けず、振り下ろされた二撃目の爪によって、仲間たちの後を追った。
阿鼻叫喚の地獄絵図は、ほんの数十秒で終わりを告げた。
グリズリーは、侵入者を全て排除したことに満足したのか、一つ大きなあくびをすると、再びのっそりと洞窟の中へと戻っていく。
静寂が森に戻ったのを確認し、俺はゆっくりと岩の中から姿を現した。
服についたホコリを払いながら周囲を見渡すと、そこには呆然と立ち尽くす、あのヒーラーの少女がいた。
彼女は、PKたちがいた場所と、何事もなかったかのように岩から出てきた俺とを、信じられないものを見る目で交互に見比べている。
「……終わったぞ」
俺は、ぶっきらぼうにそう言った。
少女はビクッと肩を震わせ、ようやく我に返ったようだった。
「あ、あの……今のは……?」
声が震えている。無理もないだろう。いきなり現れた男が、化け物を利用して格上のプレイヤーを一方的に蹂躙したのだ。恐怖を感じるのが普通の反応だ。
「環境利用だ。見ての通り」
俺は簡潔に答える。説明するのも面倒だった。
少女はまだ混乱しているようだったが、やがて、俺が彼女を助けるためにやったことだと理解したらしい。彼女は深々と、頭を下げた。
「あ、ありがとうございました! 私、もうダメかと思ったので……!」
「別に。あんたのためじゃない。ああいう奴らが気に食わなかっただけだ」
素直に礼を言われると、どうにもむず痒い。俺は視線を逸らしながら、そっけなく返す。
「でも、助けてくださったのは事実です! 本当に、ありがとうございます!」
少女は顔を上げ、花が綻ぶような笑顔を見せた。
その屈託のない表情に、俺は少しだけ、調子を狂わされる。
「私、リリィって言います。あなたは?」
「……マコトだ」
「マコトさん、ですね! あの、もしよかったら、このお礼に何か……そうだ、街までご一緒してもいいですか? 回復なら、いつでもかけられますから!」
パーティの誘い。
本来なら、即座に断るところだ。俺はソロで、気ままにバグを探すのが性に合っている。
だが、リリィと名乗った少女の、純粋な好意に満ちた瞳に見つめられていると、「いらない」という言葉が喉の奥に引っかかって出てこなかった。
「……好きにすればいい」
結局、俺の口から出たのは、そんな曖昧な許可だった。
リリィは「はい!」と嬉しそうに頷くと、俺の半歩後ろを、ちょこちょことついて歩き始めた。
静かだったはずの帰り道が、急に賑やかになったような気がして、俺は小さくため息をついた。
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