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窓際の静止者

作者: 朝凪はのん

その日、上山隼人はいつものように昼メシを求めて、駅前のファーストフード店に足を踏み入れた。時刻は正午を少し回った頃。店内は昼時の喧騒に満ち、カウンターには長蛇の列ができ、トレーを抱えた客たちが空いた席を奪い合うように動き回っていた。隼人もその一人で、ハンバーガーとポテトのセットを注文し、トレイを手に空席を探した。

ふと、窓際の席が目に入った。そこに、ひとりの男がいた。いや、男と呼んでいいのかどうか。灰色のスーツに身を包み、背筋を不自然に伸ばして座っている。動かない。まるでマネキンのように。顔は妙にぼやけ、表情が読み取れない。隼人の視線がその男に吸い寄せられた瞬間、背中に冷たいものが走った。店内の喧騒が一瞬遠のき、耳鳴りのような静寂が脳を締め付けた。

「何だ、あれ……」隼人は無意識に呟き、目を細めた。だがその時、注文を終えた若い二人組が、笑いながらその席に近づいていく。男がいるのに。いや、いるはずなのに。

「は? そこ、誰か座ってなかったっけ? え、誰もいねえ?」二人組の一人、キャップを被った男が怪訝そうに言った。相棒のメガネの男も首を傾げ、トレーをテーブルに置いてドカッと腰を下ろす。

隼人の視界が揺れた。見間違いか? もう一度、窓際を凝視する。そこには確かに――あの静止した男がいる。なのに、キャップの男がその上に座っている。いや、「重なっている」。男の胴体を突き抜けるように、キャップの男が座り、ポテトをつまんで笑っている。メガネの男も何も気づかず、スマホを弄りながらコーラを啜る。

「うそ、だろ……」隼人の喉から乾いた声が漏れた。脳が理解した瞬間、ぞくりと全身が粟立った。見えちゃいけないもの。見てしまった。あの男のぼやけた顔が、ゆっくりとこちらを向く。目がないはずなのに、視線を感じる。冷たく、底の見えない視線。

隼人は咄嗟に目をそらし、トレイを握りしめた。心臓が早鐘のように鳴り、掌にじっとりと汗が滲む。店内の喧騒が再び耳に戻ってくるが、すべてが遠く、まるで水の底から聞こえるようだ。もう一度見る勇気はなかった。見たら終わりだ。そんな予感が、胸の奥で鋭く響いた。


上山隼人は、トレイに載せたハンバーガーとポテトを手に、ファーストフード店の喧騒の中で立ち尽くしていた。心臓がドクドクと脈打つ。窓際の席で、さっきまで「静止した男」が座っていた場所に、まるで何もなかったかのように二人の若者が座り、笑いながらポテトをつまんでいる。隼人はもう一度その席を見た。いや、見ないようにしたかった。でも、視線は勝手にそこへ吸い寄せられる。

さっきの「静止した男」は、確かにそこにいた。灰色のスーツを着た、顔が妙にぼやけた男。動かず、ただじっと虚空を見つめていた。なのに、今、その上に人が座っている。いや、正確には「重なっている」。二人の若者の一人が、男の胴体を突き抜けるように座り、テーブルに肘をついている。隼人の背筋に冷たいものが走った。

「見えちゃいけないもの」。その言葉が頭をよぎる。26歳、普通の会社員。つい一週間前まで、隼人の人生に「妖怪」や「霊」なんて言葉は存在しなかった。なのに、あの日――会社の倉庫で古い鏡を割ってしまった日から、妙なものが見えるようになった。最初は影のようなものだった。電車の中で、人の肩越しに揺れる黒い塊。夜道で、街灯の下に立つ人影。でも、日に日にそれははっきりしてきた。そして今、こんな昼間のファーストフード店で、こんなにも「リアル」に。

隼人はトレイを握りしめ、逃げるように空いた席に腰を下ろした。視線を下げ、ポテトを口に放り込む。味なんてしない。頭の中はさっきの男のことでいっぱいだ。あの男は、ただ座っていただけじゃない。隼人が一瞬目を合わせたとき、男の目が――いや、目があったかどうかもわからないが――何か訴えるような気配を感じた。助けてくれ、と言っているような。

「まさか、な……」隼人は小さく呟き、首を振った。考えすぎだ。きっと疲れてるだけ。睡眠不足だ。いや、でも、あの鏡を割った日から――。


さっき窓際に座った二人組の声が聞こえてきた。隼人は思わず耳をそばだてる。

「なんかさ、さっきからすっげえ寒くね? この席、冷房直撃かよ」一人の若者が、肩をすくめて言った。

「だろ? 俺もなんかゾクゾクするんだよ。やっぱ窓際って冷えるのかな」もう一人が答える。

隼人の手が止まった。寒い? ゾクゾク? 彼らはあの男に「座っている」ことを知らない。知らないはずだ。でも、影響は受けている。あの男の存在が、何か彼らに作用している。

その瞬間、隼人の視界の端で何かが動いた。窓際の席。さっきの「静止した男」が、ゆっくりと首を動かし、こちらを見ている。顔は依然としてぼやけているのに、目だけが異様にくっきりしている。黒い、底の見えない目。隼人の心臓が一瞬止まりそうになった。

「お前……俺を見てるのか?」隼人は心の中で呟いた。いや、声に出ていたかもしれない。隣の客がチラッとこちらを見た。

男の唇が動いた。声は聞こえない。でも、確かに何かを言っている。「助けてくれ」。そう聞こえた気がした。

隼人は立ち上がった。トレイを放り出し、出口に向かって歩き出す。後ろを見ない。見たら終わりだ。そんな気がした。でも、背中にあの男の視線を感じる。冷たく、粘つくような視線。

店の自動ドアを抜け、昼間の陽光に飛び出した瞬間、隼人はようやく息をつけた。汗が額を伝う。振り返ると、ガラス越しに窓際の席が見える。二人の若者はまだ笑い合っている。でも、あの男はもういない。まるで最初からいなかったかのように。

「はは……やっぱり見間違いか」隼人は自分を納得させようとした。でも、ポケットの中でスマホが震えた。通知だ。誰から? 手に取ると、画面に知らない番号からのメッセージ。

「お前も見えるようになったな。逃げても無駄だ。次はお前が――」

メッセージはそこで途切れていた。隼人の手からスマホが滑り落ち、アスファルトにカツンと音を立てた。


隼人はスマホを拾い上げ、震える指で画面をもう一度確認した。「次はお前が――」。途切れたメッセージが頭の中で反響する。知らない番号。いや、番号自体が不自然だ。0で始まり、桁数が多すぎる。こんな番号、存在するはずがない。隼人は慌てて電源を切り、ポケットに押し込んだ。背後でファーストフード店の自動ドアがシュッと開く音がして、思わず肩が跳ねた。振り返ると、ただのサラリーマンがトレーナーを下げて出てきただけだった。

「落ち着け、俺……」隼人は自分に言い聞かせ、駅に向かって歩き出した。昼間の街はいつも通りだ。人々がすれ違い、車のクラクションが鳴り、ビルのガラスに陽光が反射する。でも、隼人の視界の端には何かがある。影のような、揺らめくもの。見ようとすると消える。あの日――会社の倉庫で古い鏡を割ってから、ずっとこうだ。


その夜、隼人は自分のアパートで、ネットを漁っていた。鏡について。呪われた鏡、霊が宿る鏡、なんでもいい。手がかりが欲しかった。ファーストフード店で見たあの男のことが頭から離れない。灰色のスーツ、ぼやけた顔、底の見えない目。そして、あのメッセージ。あの男はただの幽霊じゃない。何かを伝えようとしていた。いや、引きずり込もうとしているのかもしれない。

検索結果は胡散臭いオカルトサイトばかりだったが、一つ、妙に具体的な記事が目に入った。『明治期の「囚鏡」伝説』。古い鏡にまつわる話だ。曰く、明治時代、ある地方の監獄で、囚人の魂を封じるために作られた鏡があった。死刑囚や重罪人の「最期の姿」を映し、その魂を閉じ込める。そうして作られた鏡は、持ち主に異能を与える代わりに、徐々に精神を蝕み、最終的には鏡の中に「取り込まれる」。記事の最後には、「囚鏡は現在も各地に散らばっており、誤って破壊すると封じられた魂が解放される」と書かれていた。

隼人の背筋が凍った。倉庫で割ったあの鏡。埃まみれで、フレームに奇妙な刻印があった。会社が古いビルを買い取った際、前のテナントが置いていったものだ。誰も気にせず、隼人が不用意に触って、棚から落として割ってしまった。あの瞬間、ガラスの破片が不自然にゆっくり落ちた気がした。まるで時間が止まったように。

「まさか……あの鏡が?」隼人は呟き、立ち上がった。会社に戻るしかない。鏡の破片がまだあれば、何か手がかりがあるかもしれない。


夜のオフィスは静まり返っていた。隼人は懐中電灯を手に、倉庫の奥へ進んだ。蛍光灯のスイッチを入れても、なぜか点かない。空気が重い。まるで水の底にいるようだ。倉庫の隅、ビニールシートの下に、割れた鏡の破片がまだあった。埃とガラス片が混ざり、床に散らばっている。隼人は膝をつき、慎重に破片を拾い上げた。表面に映る自分の顔が、なぜか歪んで見える。いや、顔じゃない。後ろに何かいる。

振り返ると、そこにいた。ファーストフード店で見た男。灰色のスーツ、ぼやけた顔。だが、今はもっと近い。すぐそこに立っている。空気が冷たく、鼻をつくような異臭が漂う。男の口がゆっくり開き、声にならない声が響いた。

「お前が……解放した……」

隼人は後ずさり、鏡の破片を握りしめた。鋭いガラスが掌に食い込み、血が滴る。「何だよ、てめえ! 何をしたいんだ!」叫んだ瞬間、男の目が一瞬だけはっきりした。そこには、恐怖と絶望が詰まっていた。まるで、男自身が何かに囚われているように。

「お前も……見えるなら……終わりだ……」男の声は途切れ、姿が揺らめいた。次の瞬間、倉庫の空気が一変した。ガラス片が勝手に震え出し、床に散らばった破片がカタカタと動き始めた。まるで何かに引き寄せられるように、破片が集まり、鏡の形を取り戻そうとしている。

隼人は逃げようとしたが、足が動かない。体が鉛のように重い。視界が暗くなり、耳元で囁き声が響く。「お前も鏡の中へ……」。男の姿はもう見えない。でも、鏡の破片に映る自分の顔が、徐々にぼやけていく。まるで、誰かに取って代わられるように。


翌朝、隼人の同僚が倉庫で奇妙なものを見つけた。埃まみれの古い鏡。割れていたはずなのに、なぜか完全に修復されている。表面には、灰色のスーツを着た男が映っていた。いや、男じゃない。上山隼人の顔だった。ぼやけた、どこか虚ろな表情で。

同僚が鏡に触れた瞬間、かすかな声が聞こえた。「助けてくれ……」。だが、誰もそれに気づかなかった。鏡は再び倉庫の奥に放置され、静かに次の「解放者」を待つ。



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