死んだと思った相棒がTSして戻ってきた?!
「やった、のか?」
静まり返った戦場にやけに響いた声。しかしその声に何か言葉が返ってくることはなかった。それどころか、誰もがその言葉を飲み込むことすらできずにいる。突如として市街地近くに現れたSクラスの魔獣を死闘の末撃破したというのに、それを手放しに喜べる者はその場にはいなかった。皆の視線の先には魔獣の死骸、そして巨大な盾が転がっている。その盾には傷一つなく、焼け焦げた地面の中央に転がっていることに違和感があった。
「め、女神様ぁ……」
嗚咽混じりの叫びを皮切りに次々と悲しみの声が上がる。滂沱の如く涙を流す者、更には崩れ落ちる者さえいた。それらがいやにクリアな俺の視界に映る。
「なんで俺たちなんかのために!」
ああ。こういう時、リンがいればこんな空気もきっと笑い飛ばしてくれるのに。太陽みたいに明るくて、皆から女神と称されているリンなら……。そこまで考えて、リンがもういないことに気づく。
「リンデルト様が死んだなんて、信じたくない」
死。たくさんの声の中からなぜかそれだけは鮮明に聞き取れた言葉によって、俺は必死に目を背けていた現実を認識する。そうだ、リンは死んだ。生身で喰らえばひとたまりもない魔獣のブレスから俺たちを守るために、ブレスの熱に耐えきれず体が崩壊するその瞬間まで盾を掲げて。自分一人なら逃げることだってできたのに。
「リン……」
その時、ぽつ、ぽつと。突然雨が降り始めた。つい先ほどまでは快晴だったというのに。太陽の光を受けてキラキラと輝いていた盾も、今は曇り空を映して鈍い色をしている。まるで盾が持ち主を喪ったことを悲しんでいるかのように、雫が涙のように伝っていた。徐々に雨足は強くなり、戦いの跡が流されていく。犠牲になった人々の血は雨と混じり薄まっていき、ブレスの余波を受け燃えていた木々たちも今は煙を上げるのみ。あと一時間も経てばこの場所は戦場からただの荒れ地へとその姿を変えるだろう。だが、リンの死を悼む冒険者たちの心は雨にも洗い流すことは叶わなかった。涙と雨で顔をぐしゃぐしゃにした冒険者たち、視界の中の彼らが歪んでいく。それはきっと雨のせいだと笑う、もういない相棒の声が聞こえた気がした。
――――――――――――――――――――――――
あれから何日が経っただろう。女神の腰巾着と揶揄されていた俺は、一人で細々と冒険者としての仕事をこなして過ごしていた。リンが死んでも世界は回り続ける。俺も止まるわけにはいかなかった。
「今日の分の報酬だ。これで何か食ってこい、イツキ。最近のお前はどんどんとやつれていくから見てられん」
顔なじみの受付嬢がぶっきらぼうな口調で俺に銅貨の入った袋を押し付けてくる。その袋は今日の冒険の成果を換金したにしては僅かにだが重く感じる。仕事のできることで有名な彼女にしては珍しいミスだなと思い、袋を返そうとすると首を振って拒まれた。
「これは仕事としてではなく個人的な感情だが。……私はお前にまで死んでほしくない。難しい話だとは思うが、切り替えていけ」
ミスなんかよりよほど珍しい、感情の乗った彼女のその言葉はもっともだった。彼女とは俺とリンが冒険者になった時からの付き合いで、リンが死んだという事実は当然彼女にも重くのしかかっているはず。それなのに仕事をこなし、俺の心配までしてくれることに確かな優しさを感じた。
「ありがとう、ございます。そういえば最近、ちゃんと食べてなかったな」
厚意に甘え、少し多い銅貨を受け取って受付を後にする。お気に入りのレストランに久しぶりに顔を出そうと決意した時、そういえば一人で行くのは初めてだということに思い当たった。こつこつと貯めた貯金を握りしめ、リンと二人で初めて店の扉を叩いた時のことを思い出す。値段に違わない質の良い料理に惚れ込んだリンが週に一度は通おうと言い出した時は、破産を恐れて真剣に止めたものだ。
「いらっしゃいませ、イツキ様。……この度はご愁傷さまでございます」
地位が上がっていつの間にか本当に週に一度通うようになり、顔なじみになった俺へウエイターがうやうやしく頭を下げてくれる。それによってリンの死は街中の人々に知れ渡るくらい大きな出来事なのだと再認識した。頭を上げたウエイターに奥の個室まで案内される。
「うぅ……。女神様じゃなくてあの腰巾着が死ねばよかったのに!」
その道中、個室から聞こえた酔っ払いの大声にウエイターは顔をしかめた。対して俺は苦笑いを浮かべることしかできない。誰もがそう思っていることが痛いほどわかっていたからだ。ともすれば俺自身でさえそう思っている。
「生き残るべきはお前だったよ、リン……」
思わずネガティブな言葉を零してしまう。聞こえないふりをしてくれたウエイターに感謝しつつ案内された個室に入り、いつもリンが頼んでいたステーキを注文する。俺の分は横取りするくせにこちらには一口も分けてくれなかったステーキ、どんな味がするのかずっと気になっていた。しばらくして個室のドアがノックされ、熱された鉄皿に乗ったじゅうじゅうと音を立てるステーキが俺の目の前に運ばれる。付け合せに蒸かし芋と芽キャベツが添えられた、ステーキの焼き色の茶色に断面の綺麗な赤、そして黄色と緑のコントラストが映える一品だ。
「いただきます」
手を合わせ、切り分けられたステーキにフォークを突き刺す。口に運ぼうとするとスパイスの良い香りが鼻腔をくすぐった。いつもは机の向こう側からかすかに香っていただけの匂い、近くで嗅ぐとこれほどなのかと感動する。完璧な焼き色のついた一切れを口に含むと、即座に肉の旨味が口の中いっぱいに広がった。噛めば噛むほど脂が染み出し、ほどよい歯ごたえが口を楽しませてくれる。久しぶりのまともな食事、それも質の良いものに体が喜んでいるのを感じた。
「美味しい……」
これをいつも独り占めしていたリンに不満を感じてしまうほどの逸品だ。だが不満をぶつけられる相手は目の前にいないし、リンはもうこのステーキを食べることもできない。その事実に意識が向くと悲しみが押し寄せてくる。それでも受付の言葉を思い出して、今は食べるのが仕事だと割り切ってステーキを口に運び続けるが、残りは最初の一口よりも塩辛く感じた。
――――――――――――――――――――――――
こちらへ頭を下げてくれるウエイターに手を振りながら店を出て、自宅への道を進み始める。涙こそ止まったものの目は赤く腫れ、すれ違う人々がぎょっとした目で俺の方を見てくる視線が痛い。正直歩くことすら辛いというのに、更に気が滅入る。やっとの思いで家に辿り着き、ドアを開け吸い込まれるように自室へ、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「……はあ、そろそろ片付けないとな」
横向きになった視界に飛び込んできた惨状にため息が出る。飯を食って少し回復したのだろうか、これまで気にならなかったことを気にすることができるようになったようだ。今までよくこんな部屋で生活できていたなと自身に呆れを覚える。床にはこの短期間で溜まったゴミ、脱ぎ捨てた服、本や書類に至るまで何もかもが落ちていて、秩序を保っているのは村を出る時にリンと撮った写真が飾られた写真立ての周りくらいだった。写真の中、二人の少年は無邪気に微笑んでいる。この時の俺たちはこんな悲惨な未来なんて想像もしていなかった。感傷に浸っていると、久々に満腹になるまで食事をとった影響か猛烈な眠気に襲われる。このまま起きていてもいつものように悲しみに支配されるだけ。片付けはまた今度にして、今日はこのまま眠ることにしようと眠気に身を委ねることにした。
「イツキ。僕、死んじゃったあ」
その日の夜、リンが死んでから初めて夢に出てきた。夢の中のリンはいつも通り笑っていて、でもその笑顔は少し曇っていて。無理をしているのが一目瞭然だった。
「でも君が生きててよかった。守れたんだね」
夢の中の俺は実体がなく、手を伸ばすどころか口を開くことすらできない。伝えたいことが山のようにあるのに、リンが寂しそうに微笑んでいるのを見ていることしかできなかった。
「あーあ。こんなことなら、ちゃんと伝えとくんだった」
伝えるって、何を。そう思った時、意識が急に何かに引っ張り上げられる感覚がした。目が覚めるのだと直感した俺は必死に念じる。
(もし奇跡が起きるなら、もう一度だけリンに会いたい!)
「っはぁ!はぁ、はぁ……」
次の瞬間には散らかった部屋に意識が戻っていた。飛び起きた俺は頬が濡れていたことで自分が泣いていたということに気づく。こんな夢を見るだなんて、俺はまだ未練を断ち切れていなかったらしい。リンに会いたいだなんて、そんな奇跡など起こるわけもないのになと自嘲気味な笑いが出る。部屋はまだ暗い。時計を見れば午前三時だった。こんな時間に起きてしまっては明日に支障が出る。もう一度眠りに就こうと布団にくるまるが、先ほど夢に出てきたリンの寂しそうな顔が頭から離れなくて、気づけば外から鳥の鳴き声が聞こえてきていた。
――――――――――――――――――――――――
寝不足の目を擦りながら、今日も仕事を受けにいつもの依頼窓口へと向かう。本当はしばらく休んでもいいのかもしれない。実際に休むように言ってくれる人もいた。だが、何かに没頭していないとどうしても辛くなってしまう。現実逃避だとは自分でも思うが、そうでもしないと気が狂いそうなのだ。
「……リンデルト様は……」
そんな時、路肩で会話している人々の口からリンの名前が聞こえた。たくさんの声の中からそれだけははっきりと聞き取れる。冒険者らしい男性二人組だ、一体何を話しているのだろうか。思わず足が止まる。
「そんなわけないだろ?あの方は死んだんだ。葬儀だって執り行われたじゃないか、お前も行っただろう?」
「俺も信じられないよ。でも、実際に何人も見たらしい」
何人も見たって、何を?まさか、リンの幽霊でも出たのか?だとしたら笑えない冗談だ。確かにもう一度会いたいが、幽霊と会いたいと願った覚えはない。
「もう一度言うぞ。リンデルト様は生き返った」
思考は信じられない言葉によって打ち砕かれた。思わず人混みをかき分けて男性に詰め寄ってしまう。
「詳しく聞かせてくれないか!」
「誰だ、てめ……って、腰巾着じゃねえか。はっ、お前が何も知らないとは笑えるな!ついに見限られたんじゃねえのか?」
男性は一瞬ぎょっとした表情になるが、俺の顔を見てすぐに平常心を取り戻したようだ。盛大になじられるが今はそんなことを気にしている場合ではない。聞かなければならないことがたくさんある。
「リンが生き返ったって本当なのか?何人も見たってどこで?今リンはどこにいるんだ!?」
「ちったあ落ち着けよ、その哀れさに免じて話してやるから。実際に会ったって奴が昨日酒場にいたんだ。この前魔物が出没した場所から最寄りの依頼窓口にいたらしい。特に依頼を受ける様子もなかったらしいから、今もそこにいるんじゃねえのか?」
男性の言葉が終わるか終わらないかのうちに俺は駆け出した。あの場所の最寄りの依頼窓口なら、走れば一時間あれば着く。いてもたってもいられなかった。
「情報、感謝する!」
背後で男性が何か喚いているが気にしている余裕はない。一刻も早く噂の真偽を確かめたい、その気持ちが俺の足を前へ前へと進める。息が切れるがそんなことは気にしていられない。一分一秒が惜しかった。もし本当に奇跡が起きたというのなら、リンが死んでから信じなくなった神様に明日からは毎日祈ってやろう。
――――――――――――――――――――――――
「はあ、はあ……」
休憩なしでぶっ通しで走り、一時間もかからずに目的地の窓口がある街に到着した。火事場の馬鹿力か、寝不足とは思えないパフォーマンスを発揮した俺の体もさすがに限界が近い。休憩をとるべきだったと、今更な後悔が酸欠の脳裏によぎる。それでも更にもう一歩踏み出そうとしたその時、かくん、と。急激に足から力が抜けた。そういえば今日の寝不足だけではなく、リンが死んでからは連日無理をしていたなとやっと気づく。でも、無理を止めてくれる奴が隣にいなかったのだから仕方ないじゃないか。妙にゆっくりと流れる時間の中、ぼやける視界で徐々に地面が近づく様子を捉える。せめて顔面から地面に激突することだけは避けようと手を伸ばした。訪れるであろう痛みを想像し目を閉じる。だが、なぜか手に返ってきたのは痛みではなく柔らかい感触だった。
「……どこ触ってるの」
怒りに震える声が頭上から聞こえる。だが俺には声の主に謝罪をしようと思えるだけの余裕はなかった。
「ぅ、あ」
だって、俺は、その声に聞き覚えがあって。
「なんとか言ったらどう?」
何回も聞いたその声を聞き間違えるわけがなくて。
「嘘、だ」
だけど、信じられなくて。
「人の胸を触っておいて、嘘だとは失礼だな!本物だよ!」
でも、やっぱり、この声は。
「り、リン?」
言葉にすれば幻が消えてしまいそうで、でも確かめずにはいられなくて、俺は声の主の名前を呼んだ。ふっと頭上で声の主が微笑む気配がする。
「そうだよ、僕はリン。リンデルト・オウルナイトだ。久しぶりだね、イツキ」
目を開ける。そこには不満そうに頬を膨らませた幼馴染の姿があった。
「で、いつ胸から手を離してくれるの?」
その言葉でようやく、俺は地面につこうと伸ばした手がリンの胸部を掴んでいることに気づいた。いや、普通に考えて人の胸部を掴んでいることに気づかないなんて有り得ない。だが俺が現実を受け入れられないのには明確な理由があった。だって。
「……なあ、リン。お前なんか胸が膨らんでないか?」
リンは男なのに。
「最っ低!」
パチン!と、軽い音が響いた。顔を真っ赤にしたリンが俺の頬を平手打ちした音だ。その一撃で冗談のように俺の体は吹き飛び、建物の体に強く体を打ち付けた俺は意識を手放す。断じて他意はないのだが、最後の瞬間『C』という単語が俺の脳裏に浮かんでいた。
――――――――――――――――――――――――
「やっと目覚めた」
意識を取り戻し目を開けると、こちらを覗き込んできているリンと視線がぶつかった。その表情から見るに今の心境は怒り八割、心配二割といったところだろう。宿屋の一室と思しき部屋から窓の外を見るともう辺りは暗くなりかけていて、相当な時間リンが看病をしてくれていたことがわかった。
「その、さっきはごめん」
先ほどはできなかった謝罪を口にすると、リンは顔を赤らめて俯く。両手の人差し指を合わせ、もじもじと足を動かしてようやくといった様子で口を開いた。
「……えっち」
普通に考えて、男の胸を触って変態呼ばわりされるいわれはない。だが、先ほどの感触は本物だった。死んだと思っていた相棒が実は生きていて、しかも胸が膨らんでいる。言葉にしてみるとあまりにも急展開すぎて頭がついていかなかった。
「黙りこくってないでなんとか言ったら?感動の再会だよ?」
考え込んでいると、いつもの笑顔を取り戻したリンが不満を訴えてきた。その言葉で急に現実味が湧いたのか、急激に視界が潤みだす。
「うわっ、突然泣かないでよ!怖いよ!?」
「ご、ごめん……。でも、でも!もう会えないと、思ってたから……!」
リンが目の前にいて、また言葉を交わせて。その事実があたたかく俺の心を満たして、溢れた感情が涙となって流れる。リンの姿を瞳に焼き付けようとじっと彼の方を見つめるが、涙でぼやけてしまってよく見えない。ぼやけてそのまま消えてしまうのではないかと怖くなり、更に涙が流れる。泣き止まない俺に痺れを切らしたのか、リンがこちらへやって来て俺にぎゅっと抱きついてきた。
「でもこうやってまた会えたよ」
慰めようとしてくれた行為なのだろうが、触れ合うことによってリンの存在を、温かさを感じてまた泣いてしまう。リンのドレスを汚してしまいそうでとっさに離れようとするが、見た目からは想像できないほど力の強い幼馴染にがっしりとホールドされてしまって逃げ出せない。その優しさに甘えることにして、俺はリンの腕の中でわんわんと泣いた。
「そろそろ落ち着いた?」
泣き止む頃にはすっかり日が落ちていて、リンのドレスは俺の涙でぐしゃぐしゃだった。申し訳ない気持ちでいっぱいになり頭を下げて手を合わせるが、リンは優しく微笑んで首を振ってくれる。その優しさがリンらしくて、やっぱりこいつは生き返ったんだと再認識する。
「ああ。取り乱して悪かった」
気を抜けばまた泣いてしまいそうだったが、ひとまず平静を装えるくらいには回復した。ある程度頭も冷え、それによっていくつもの疑問が生じる。
「なあ、リン。お前、生きてたのか?」
「ううん。僕はあの時確かに死んだ。でも気づいたらあの場所で再び目覚めたんだ」
一つ目の疑問は即座に否定された。本人がそう言うのなら間違いないだろう。こんな嘘をつく理由もないはずだ。
「信じられないが……。生き返った、ってことか」
「そうなるね。僕自身あんまり実感がないんだけど……。だって死んでた間の記憶とかないし」
あっけらかんと言ってのけるリンに少しの呆れを覚える。だがそれは先ほどからずっと感じていたそれより大きな違和感によって上書きされ、脳裏からすぐに消えた。
「で、なんで胸があるんだ?まさか死んで生き返ったら女になったとか言わないよな?」
そう、胸。見た目は女子そのもので、世間からも女神と称されているが実際は男であるリンに胸があるはずがない。でも、さっき感じた感触は本物だった。あいにくこれまで本物を触ったことはないのだが、本物というものはいざ触れてみればわかるものなのだなと妙な感慨を覚える。
「うん。なんか僕、女の子として生まれ変わったみたい」
「うん、じゃねえよ……。いやいや、いくらお前が女装狂いだからって、冗談は――」
もう一度触って確かめるべきか真剣に悩むが、次同じことをしたらどうなるかはなんとなく想像がついた。まだ死にたくないから、好奇心を必死に収めて努めて冷静そうに振る舞う。
「でも、お前が言うならそうなんだろうな。さすがにからかわれてるとも思えん」
「死んだはずの僕が生き返るって奇跡があるくらいなんだ。性別が変わるくらいおかしくないよ!」
荒唐無稽だが妙に説得力のある言葉に俺は思わず納得してしまう。死人が生き返って目の前にいるという常識では計れない事象が起きているのだから、性別の変化など些細な問題に思えた。何より、またリンに会えたのだ。理屈や性別などなんでもいい。
「そう、だな」
「うんうん!それより、もっと他に言うことは?」
リンがにやにやしながらこちらを見つめてくる。言われてみれば言葉にしていなかったなと思い当たり、以前の俺なら言わなかっただろう素直な今の気持ちを伝えることにした。思いは伝えられる時に伝えなければいけない。リンと死別した時に痛みと共に学んだことだ。
「また会えて嬉しい」
「えへへ。僕もだよ」
リンもはにかんで同意してくれる。伝えてよかったと心の底から思えた。そして同時にリンと過ごせる明日がまた来ることに気づく。気づいてしまったら口に出さないわけにはいかなかった。
「なあ。明日からまた一緒に冒険してくれるか?」
「喜んで!」
元気のいい返事にまた目頭が熱くなってしまう。感情的になっているなと自分でも思うが、今日くらいは仕方ない。そう自分に言い聞かせて恥ずかしさをやり過ごす。
「なら、明日に備えて今日は寝ようか。君、酷いくまだよ。最近寝れてなかったの?もしかして、僕が死んで寂しかった?」
「うるせえ。……そうだよ、くそ」
心配してくれつつもからかってくるリンに対して図星だった俺は顔を背けることしかできない。こいつ、面白がりやがって。それでも心配してくれているのが伝わってくるから憎みきれない。
「悪いけど体が限界みてえだし、寝かせてもらうよ。おやすみ、リン」
「うん、また明日。ゆっくり休むんだよ」
男女がひとつ屋根の下で寝るなど普通に考えれば不健全だが、体は女とはいえこいつの中身はリンだ。なら何か起こるわけがない。そう思い俺は安心して布団に潜る。今日は久々によく眠れそうだ。そうだ、明日からは神様に毎日祈らないと。だって奇跡が起きたのだから。そう思いながら眠りにつくのだった。
――――――――――――――――――――――――
「おはよう、イツキ」
翌朝目覚めると、なんとリンが俺よりも先に起きていた。あんなにどうしようもなく寝起きが悪い遅刻魔のリンが朝の六時に既に着替えを終えているという現実が、下手をすればリンが生き返ったことよりも受け入れ難い。
「お、おはよう。早いんだな」
「え?うん、昨日は早く寝たからね」
いやいやいや。どれだけ早く寝ても朝十時までは起きなかったリンの口からそんなセリフが出るなんて、これは夢か?そう思い頬をつねるが、ちゃんと痛みを感じる。
「何してるの?」
「……なんでもねえ」
まあ、早く起きてくれる分にはありがたいからいいか。頭を振って思考を切り替え、昨日と同じドレスに身を包んだリンを見つめる。相変わらず華奢で、胸が膨らんだことを加味しなくても女だと言われても疑いようがない容姿だ。元々の声すら高いのだから、こいつが女装に目覚めるのも仕方のないことだったのかもしれないとすら思える。
「うそ。なんか失礼なこと考えてるでしょ」
「なぜバレた……!」
おかしい、リンにしては察しが良すぎる!嘘をつけないばかりか人の嘘すら見抜けないあの純粋なリンが、人を疑うことを覚えただと?早く起きたことといい、こいつ本当はリンによく似た別人か?
「なあ、リン。俺の秘密をなんでもいいから言ってみてくれないか」
「十三歳になるまでお母さんと一緒にお風呂に入ってた」
即答だった。間違いない、こいつは本物だ。
「なんでそれが真っ先に出てくるんだよ!」
「あと実は可愛いものが好き。昔、僕のドレスを隠れて着ようとしてサイズが合わずにため息ついてたことも知ってるよ?他には、昔告白して振られた女の子の名前だって」
追い打ち、だと。ってか、ドレスの件!バレないようにしてたのに知ってたのかよ!お前がいない時を見計らったってのに!あと子どもの初恋をいつまで引きずるんだ、俺はもう覚えてないのに!
「殺してくれ……」
勢いよく布団に顔を埋める俺を見てリンは腹を抱えて笑う。笑いすぎて息が苦しそうだ。とても楽しそうで、とても腹が立つ。でも同時に、こいつが腹の底から笑っているのを再び見れる日が来たことがたまらなく嬉しい。
「はぁ、はぁ……。一回死んだ人の前でそれ、言う?」
「いや、その。すまん」
リンは笑ってくれているとはいえ、配慮が足りなかったことを反省する。だとしても、結構本気で死にてえ。墓場まで持って行くつもりだった秘密を実は知られていただなんて……。
「許してあげよう。僕は優しいからね!えへへ」
太陽のような笑いを浮かべるリン。不覚にも可愛いと思ってしまったことだけはバレないように、布団の中で手をきつく握りしめた。
「恩に着るよ」
「どういたしまして。じゃあ、君が準備できたら冒険へ行こうか!パーティ【極夜の折紙】、再始動だ!」
既に支度を終えているらしいリンが盾を構えて意気揚々と宣言する。小っ恥ずかしいパーティ名は子供の時に俺が考えたものだ。まさかまた名乗ることになるとはと、運命の巡り合わせに感動しつつ外に出る準備を始める。荷物の多い俺は支度に時間がかかるのだが、それによってリンを待たせるのは初めてのことで新鮮な気分だった。三十分ほど経ち、準備を終えた俺たちは扉を開ける。キィ、という蝶番の軋む音は旅立ちを告げる音としては少し物足りなかったが、これから待ち受けるたくさんの冒険を前にそんなことは些細な問題だった。
――――――――――――――――――――――――
「リン、すまん!二体そっち行った!」
「大丈夫、任せて!はああ!」
リンが盾を振り回す。ゴウ、と風切り音が響き、リンへ襲いかかった魔物二体が盛大に吹き飛ばされていった。
「こっちは終わったよ!そっちは大丈夫?」
「ああ!あと少しだ!」
迷宮の一角で左右から襲い来る魔物の群れを分担して相手していた俺たち。リンは既にあの大量の魔物を全て仕留めきったようで、盾に付いた返り血を振り払いながらこちらを伺っている。対して俺は二体も取り逃したというのにまだ手こずっている。埋まらないどころか日に日に広がっていく気さえするリンとの実力差にうんざりするが、俺は俺にできる戦いをするだけだ。敵からバックステップで距離を取り、目を閉じて腰のポーチから閃光弾を取り出し地面に投げつける。リンは察していたようで盾の陰に隠れていた。
「おらあ!」
眩しさに目を押さえる群れの先頭の魔物に向かって全力で剣を振り切る。首の半ばまで切り裂かれ、そいつはどさりと地面に崩れ落ちる。だが硬い肉に埋もれて剣が抜けなくなり、一瞬手こずったその隙にそいつの後ろから新たな魔物が飛び出してきた。先ほど倒れた魔物を遮蔽物に閃光弾から逃れたのだろう。だが、それくらいの想定外に対応できなければリンの隣には立てない。魔物が持っていた得物、石でできた斧を足で蹴り上げて空中で掴み、構える。魔物の斧の一撃を同じく斧で受け止め、その勢いも利用して体を回し全力で斧を叩き込んだ。ズガァン!と盛大な音が響き、二つに分かれた魔物の体のパーツがそれぞれ迷宮の石壁に叩きつけられる。無茶な使い方をした斧は一撃で壊れ、俺は再び徒手空拳となった。それを好機と見たか、残った三体の魔物は完璧なチームワークでタイミングをずらした連撃を叩き込んでくる。迫り来る剣、槍、そして棍棒。それらを足に巻いたベルトに挿していた短剣を抜いて弾き、想定外の防御によって体勢を崩した魔物たちの急所を抉る。ドサドサドサ、と三つの重たいものが地面に落ちる音がした。
「ふう。待たせてすまん、終わった」
「相変わらず芸達者だねえ」
短剣を振って血を払い、ポーチから取り出した布で入念に拭いながらリンに声をかける。リンはすぐ後ろで俺の戦闘を見ていたようで、思ったよりも近くから声が聞こえて少し驚いてしまった。肩がびくりと跳ね、それを見たリンが笑う。恥ずかしさを誤魔化そうと話を戻すことにした。
「器用貧乏なだけだ」
「僕はすごいと思ってるよ!」
本気で思ってくれているのが伝わってくるまっすぐなその言葉に俺はどうしても複雑な感情を覚えてしまう。リンは弱冠十六歳にしてSランクの称号を手にした天才だ。隣に立つために俺はなんでも身につけた。剣術も槍術も斧術も、体術だって。だけど俺はBランク止まりだった。SどころかAの壁にだって届かない俺は、リンの腰巾着と揶揄されても仕方ない。もしリンが俺と同じ凡人なら。何度もそう思ったことがある。
「ありがとな。お前が褒めてくれるだけで救われるよ」
それでも感謝を伝え、リンの頭を撫でようと手を伸ばして気づく。リンがいつものように撫でられ待ちの姿勢をとっていないことを。
「ん?その手、どうしたの?」
「いや、こういう時はいつもお前撫でられたがるじゃねえか」
いい事を言ったと自分で思った時は決まって撫でられたがる、褒められたがりのあのリンが何もしてこないなんて。風邪でも引いたのだろうか、でも戦闘時に不調はなさそうだった。頭の片隅に違和感を覚えつつも、その尻尾には手を伸ばしても届かない。
「え、ああ、そうだったね。ごめんごめん、ぼーっとしてたや」
「今日は帰るか?戦闘に響いても困るだろ」
俺の言葉にリンは首を振って、握った拳を掲げて戦意を表明する。まあ、この迷宮はBランク向けだ。Sランクのリンなら余裕があるくらいだろう、一瞬気が抜けるのも仕方ない。そう思うことにして、さらに深部に向かうことにした。
――――――――――――――――――――――――
迷宮深層。現れる敵の強さも見つけられる資源の価値も桁違いなそこで、俺たちはいわゆる宝箱を見つけた。罠の可能性もあるそれをどうするかというのは、冒険者たちに降りかかる定番の選択肢だ。
「どうする。開けるか、置いておくか」
「開けよう!」
やっぱりリンならそう言うと思っていた。こういったものは体感七割が罠なのだが、毎回三割を引く自信があるらしい。何度もろくでもない目にあってきたというのに、その自信どこから湧いてくるのだろうか。冒険を始めたての頃毒針が飛んできた時なんて、たまたま通りかかった僧侶が居なければ大惨事だったというのに。
「ならリンが開けろよ」
怪我はしたくないのでこういう時はリンに押し付け……任せるようにしている。リンなら頑丈だし、そもそも言い出しっぺだし。
「はーい。まったく、臆病なんだから」
「慎重と言え、こら」
失礼なことを言いながら俺をずいと押しのけ、宝箱に手をかけるリン。誰かさんと違って知恵で生き残って来たんだよ、凡人はこれくらい考えを回さなきゃいけないんだ。
「おったから、おったか……。うわぁ!?」
独特な旋律を刻みながら宝箱を開いたリンが悲鳴を上げた。驚き目をやると宝箱に見えたそれから針が射出され、リンの顔の前に掲げた腕に突き刺さっていた。顔を顰めているリン。傷口から血がぽたり、ぽたりと地面に垂れる。
「おい大丈夫か!?」
「いてて。やっちゃったあ……。」
リンはドレスの裾を無事な方で破り、傷口の上を縛って止血を試みる。こういう時治癒魔法が使える人間がパーティにいないのが歯痒い。しばらくしてリンは針を抜いた。幸い傷はそこまで深くないようで、抜いた跡からはあまり血が流れていなかった。
「勢いが弱くて助かったあ」
呟きながらリンは更に裾を破って傷口も縛ろうとした。そうなるといくらドレスの丈が長いとはいえ、二度も破られると足が相当露出する。スカートから覗く白い肌が妙に艶めかしく見えて、思わず目を逸らした。これまで何度も同じような場面には遭遇してきたというのに、こんなことは初めてで戸惑う。もしかして、リンの体が女性になったから?そんなことを考えていると、俺の目が何か違和感を訴えてきた。違和感の元はリンの傷口。正確には傷口があった場所だ。目を逸らした時に視界に入ったのその一瞬、何か理解できない事象が起きていた気がする。
「……え?」
我が目を疑い、もう一度よく見ようと思った時にはもう腕は布で縛られた後だった。それでも何か見つけられないかじっと見ていると、傷口を塞ぐ布が時間が経っても赤く染まらないことに気づく。おかしい、あれだけ血が出ていたのに?
「どうしたの、ぼーっとして。もっと進もう?」
「あ、ああ……」
半ば上の空で返事をし、先を歩くリンの後を追う。その時、俺はなにかに引っかかりバランスを崩しかけた。
「っと、あぶね……」
何に引っかかったのか足元を見てみると、そこにはリンが腕から抜いた針が落ちていた。だが、普通に考えていくら太くても針につまづくなど有り得えない。せいぜい蹴飛ばして終わるはず。そう思い目を凝らすと、針の先の地面に深さ数センチのくぼみが出来ていた。それは先ほど宝箱を発見した時に周囲を観察した際には間違いなくなかったもの。どうやら俺はそれにつまづいたようだ。それにしても、なぜ先ほどまで無かったものが突然現れたのだろう?もっとよく見ようと針に近づこうとした、その時。
「危ない!」
数歩先を歩いていたはずのリンがいつの間にこちらへ来たのか、ものすごい力で俺の腕を掴んできた。驚き振り返ると、リンは鬼気迫る表情を浮かべている。有無を言わせぬその表情に俺は押し黙ることしかできなかった。
「……もし刺さったらどうするのさ」
がっしりと掴まれたまま引きずられていく。俺を掴んでいるのは利き腕、それは先ほど針が刺さった方の腕だった。加えて俺はある事実に思い当たる。迷宮の罠から射出される針に塗られている毒は、溶解性のものであることがほとんどだということに。地面のくぼみもそれによって生まれたものだろう。ならば、どうしてリンは無事なんだ?
――――――――――――――――――――――――
その後は特に何事もなくその日の冒険を終え、俺たちは迷宮から出た。変化を強いてあげるならばリンがいつも以上に無双したおかげで普段より深い場所まで潜れたくらい。途中から俺は半ば傍観者だった。
「あー、疲れた!お腹も空いたし、久しぶりに君の手料理が食べたいな!ねーえ、作ってくれない?」
先ほどまでの迷宮探索で獅子奮迅の活躍を見せた盾の女神と、今目の前にいるリンが同一人物だとはなかなか信じられない。上目遣いにこちらを見てねだってくる様子は名実ともにかわいらしい少女のそれで、中身がリンだと分かっていても心臓が跳ねるのを抑えることができなかった。再会してからリンが以前とどこか違う気がして、なかなか本調子で接することができない。リンの細かな仕草すら違って見える。まるで、生まれた時から女性だったかのような。
「わ、わかった。何が食べたい?」
「ハンバーグ!」
それでも好物や性格は変わらないのだから不思議な感覚だ。偽物の線も考えなかったわけじゃない。だが、昨日リンしか知らない秘密を知っていることを確認している。ならいよいよ俺の気のせいなのではないだろうか。もしや、リンの胸に惑わされている?俺はそんなに色狂いだったのか。
「おーい、どうしたの?」
「いや、その。すまん……」
申し訳ない気持ちになって謝罪を口にする。リンは何も分かっていない様子だが、願わくばこのまま俺の気の迷いには気づかないでいてほしい。
「ハンバーグ、だったよな。作るよ」
「わーい、やった!君の料理は美味しいからなあ」
こいつ、嬉しいことを言ってくれる。あの店が一番気に入っているんだと思っていたのに、再会してすぐに俺の手料理を求めてくれるなんて。可愛いところもあるじゃねえか。
「あと、今お財布持ってなくて。なくしちゃったのかな」
いや、絶対それがメインの理由だろ。よくよく考えてみればリンがそんなに可愛いことを言うわけがなかった。本当に惑わされすぎだぞ、俺!
「材料費、あとで請求するからな」
「えー!けち!」
けちとは人聞きの悪い。むしろなぜ俺が出さなきゃいけないんだ。飯を作って材料費も出してなんて、慈善事業じゃねえんだぞ。
「うるせ。帰るぞ」
飯を作るなら家に帰らねえと。って、まずい。今俺の家は……。
「……」
「急に立ち止まってどうしたの」
さすがにあの惨状に人を招く訳にはいかない。申し訳ないし、何より俺の尊厳に関わる。リンに見られたら三年はからかうネタにされそうだ。
「そういえば、ここからじゃお前の家の方が近いよな。調理器具借りてもいいか?」
「いいけど、最後に洗ったのいつだったっけなあ」
そうだった、こいつには生活力がなかった。前家に行った時大掃除を手伝わされたことを思い出して思わず眉をしかめてしまう。
「一応聞くが、部屋は片付いてるか?」
「当社比……」
足の踏み場があれば運がいいほうだな。今回も片付けを手伝わされる覚悟を固め、リンの家に向かうことにする。道中で買い物を手早く済ませ、そこまで中身の入っていない俺の財布から代金を支払った。見かけによらず大食いなリンの胃袋を満足させるには俺の財布では正直厳しい。荷物も俺が持たされ、リンの家まで歩くこと数分。俺の借家とは比較にならないくらい豪華な一軒家にたどり着いた。もっとも、綺麗なのは見た目だけだろうけれど。そして案の定、足の踏み場もないほど散らかったリンの家で俺たちは一時間以上を片付けに費やした。何故か俺よりもリンの方が嫌そうな顔をしていたのは納得がいかないが、ひとまず人が二人座れるだけのスペースは確保できたので、疲れた体に鞭打ってこのまま料理を作ることにする。一度腰を落ち着けてしまうともう立ち上がれない気がした。
「ふあ……。今日は疲れたねえ」
発掘されたソファでくつろいでいるリンが大あくびをして呟く。人に料理をさせておいて随分な態度だが、今更気にしていたらリンと付き合っていくことは不可能なので寛大な心でそこはスルーする。
「お前は久しぶりの冒険だったみたいだしな。そうだ、怪我は大丈夫か?」
「え?ああ、もう大丈夫だよ。ちょっと痛いくらい」
心配をさせないように無理をしているようには見えない。だとすれば驚異的な回復力だ。そういえばリンの持っている盾は由緒正しいアーティファクトだと言っていたが、それが装備者になんらかの変化をもたらすのだろうか。もしかして、リンが生き返ったのもその盾によるもの?その可能性はゼロではないかもしれない。
「ならいいんだが……あれ、毒針じゃなかったか?」
「いや?普通の針だったよ?」
それは間違いなく嘘だ。だとすれば針のあった場所のくぼみに説明がつかない。それに、リンが俺を慌てて制止した理由にも。あれは俺が毒に触れないようにしたのだろう。
「なんでそんな嘘をつくんだ?」
部屋の空気が凍った。返答はなかなか戻ってこない。リンが言葉を選んでいるのが伝わってくる。
「……だって、怖いじゃん。毒針が刺さったのに無事だなんて、バレたらどんな顔されるか」
リンは横たわっているからキッチンからは顔が見えない。だけど、きっと今リンが見たことのない顔をしているのだろうということは想像に難くなかった。
「僕、生き返ったんだよ?普通じゃ有り得ないことが起きた。それを受け入れてもらえただけで奇跡なのに、それ以上異変が起きて、更に受け入れてもらえる保証なんてなかった。信じてもらえるか分からない、それが怖かったんだ」
生き返り、それが手放しで喜べる奇跡ではないことを他でもないリン本人が強く理解していた。毒針が刺さっても毒が効かなかったことだって、リン自身が一番驚いていたのかもしれない。そして俺はそれに気づけないばかりか、リンを疑ってしまった。そんなの、幼馴染失格じゃないか。
「……そうか。怖い思いさせて悪かったな。でも大丈夫だ。俺はお前の言うことなら信じる、だから言ってくれ」
「……ありがと。僕もちゃんと話さなくてごめんね。他に隠してることはないし、次からちゃんと話すから」
リンの雰囲気が柔らかくなったことを感じる。これにて一件落着、そう思えた時。俺の頭が猛烈な違和感を訴えた。何か、何かを見落としている気がする。だがそれが何か分からない。喉の奥に小骨が引っかかったような感覚。ごめん、リン。これを最後にするから、お前を信じるためにお前を試させてくれ。
「どうしたのさ、怖い顔し……、っ!?」
リンに近づき、傷口に巻かれた布を剥がす。そこには傷一つない真っ白い肌が広がるのみ。あるはずのもの、針が刺さった痕跡が全くなかった。
「……なあ、リン。なんでも話すって言ったじゃないか。なんでこっちは隠すんだ?」
「そ、れは」
疑念は連鎖する。脳が活性化し、これまで見落としていたはずの事が見えた。おかしなことは他にもある。
「それに、俺がお前のドレスを隠れて着ようとした件。思い出したんだが、あの日お前はSランクの勲章授与式に呼ばれて、絶対に家にいなかったはずなんだ」
「……」
リンは喋らない。こちらを見つめてくるその瞳は光を映しておらず、姿形はリンなのに目の前にいるそれは人ならざるものにすら見える。
「なあ、リン。いや、お前は誰だ?」
眼前のそいつは観念したように目を伏せ、一瞬後に顔を上げたかと思うと神々しさすら感じさせる笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。その表情に、リンの面影はまるでなかった。
「まさか気づかれるとは思いませんでした」
口調すら変貌している。間違いなくリンの声のはずなのに、全くの別人が喋っていると直感的に分かってしまった。
「それでも、そうですね。あなたには知る権利があります。全てを話しましょう」
そう言って、目の前のリンの姿をしたなにかは語り始めた。自分が何者か、そしてリンはどうなったのかを。
「わたしを一言で説明するのであれば、人々が思うリンのイメージの集合。それらが彼の形をとって現界した英霊です。肉体が女性なのは、人々がリンのことを女性と誤認していたから。そしてその事から分かるように、わたしとリンは全くの別物です。これまであなたが会話していたのは、あなたを含むリンを知る人間の記憶を参照して再現していた、いわば彼の影。酷なことを言いますが、リンはもういません」
言葉が出なかった。あまりの急展開、そして告げられた残酷な現実に。生き返ったと思ったリンが実は全くの別物で、俺の知るリンはもういない?
「そういうことです。理解が早くて助かります、さすがはリンの相棒。伊達に彼の隣に立っていたわけではないようですね」
俺の思考を読んだその言葉に、いよいよ目の前の自称英霊がただならぬ存在だという現実に理解が追いつき始める。同時に、リンがいないという現実にも。
「あなたには二度も幼馴染との別れを経験させてしまって、申し訳ないと思っています。叶うならばわたしが完璧にリンを演じ、あなたに仮初でも希望を見せたかった」
そんな仮初、望んじゃいない。そう言いたかったが、一時でもリンと会話をできたことが俺の心を救ってくれたのも事実だった。あのままだったらきっと俺は壊れていただろう。でも、だとしてもこんな現実、あまりにも……。
「……こういう時、リンなら何と言うのでしょう」
英霊は顎に手を当て思案する。そして、何かに思い当たったように頷いた。再び雰囲気が変わる。
「イツキを守れてよかった。それに、君の中の僕は死んでないよ。ずっと忘れないでくれたら嬉しいな」
英霊がリンを模して放った言葉。それは本当にリンが言いそうな言葉で、でもリンでない存在が口にしたという現実が俺にとって我慢ならなくて。気づけば俺は拳を掲げていた。怒りに任せて拳を振り抜く。
「一度は許しましょう」
英霊は全力の一撃を食らっても眉ひとつ動かさず平然としていた。それどころか反撃さえしてこない。その超然とした在り方にリンとの、人間との違いを見た気がしてしまって、俺はへたりこんでしまった。
「あなたはあなたの日常に戻りなさい。リンはもういません。彼に守られ生き残ったあなたには、明日を生きる義務がある」
英霊は俺に手を差し伸べる。だが、その手を取って立ち上がることは俺にはどうしてもできなかった。
――――――――――――――――――――――――
どれくらいの時間が経っただろう。俺は自分の部屋で座り込んでいた。周りを見渡せば昨日家を出た時よりも更にめちゃくちゃになった景色が広がっている。そして拳に鈍い痛みがあるのは、俺がこの惨状を生み出したからだ。曖昧な記憶を辿る。半ば自失の状態でリンの家から帰宅した俺は、リンが死んだという事実を残酷なくらい正面から突きつけられたことに心が耐えられなかったようで、感情が決壊した。声の限りに泣き叫び、部屋中のものにあたり、体力が尽きると同時に電池の切れた玩具のようにへたりこみ、今に至る。
「……なにしてんだろ、俺」
虚しさだけがただ心を満たしていた。もう何もしたくない、いなくなってしまいたい。いっそリンのいるところへ。
「リンが知ったら怒るだろうな」
だとしても、俺はもう耐えられない。一度目の別れでヒビの入った心は、二度目の別れを経て崩壊してしまった。
「もし会えたら謝るからさ。許してくれないかな」
ここは建物の七階だ、きっとここからならリンのいる所へ行けるだろう。なのに、なんで俺の足は縫い付けられたように動かないんだ。動け、動けよ。感情に任せて拳を自分の足へ振り下ろそうと今一度強く握りしめたその時、自分が何かを握りしめていることに気づく。いつの間に手に取ったのだろう。半ば無意識で手を開き、手の中のものを確かめる。
「う、ぁ」
そこには俺がBランクになった時にリンがくれたペンダントがあった。写真が中に入る形式のもので、俺の授与式の日の写真が入っている。そして、その写真にはある魔法がかけられているのだ。それは、『言葉を記録して再生することができる』というもの。
「イツキ、Bランク達成おめでとう。君の『考える』戦い、凄いなって思ってるよ。もし辛いことがあったらこの言葉を思い出してほしいな。なんたって、Sランクからの褒め言葉だからね!」
気づけば俺はリンの言葉を再生していた。その瞬間、頭が冷える。考える力が俺の武器だとリンは言ってくれたのに、俺はそれを捨て、挙句の果てには命まで捨てようとしてしまった。
「ごめん、リン」
心が壊れたならまた繋ぎ合わせればいい。それは命があるからこそ許されることだ。俺はまだ生きている。そして、俺の心の中にリンはいる。英霊は、リンは言った。『忘れないで』と。現に俺はリンの言葉を一言だって忘れてない。今だって全部鮮明に思い出せる。
「……いや、ならそれはおかしい」
思い出し、考えて、辿り着いたのはある違和感。英霊は自らを『人々が思うリンのイメージの集合』と称していた。それはつまり、第三者目線による断片的なリンの姿を縫い合わせたということ。でも、それは果たして本当に成り立つ理屈なのか。ある人が見たリンとまた別の人が見たリンが矛盾なく共存する、もっと言えば俺の知る男性であるリンと人々が思う女性としてのリン、その二つが矛盾なく共存しなければおかしいはずだ。思考が白熱する、頭が痛い。だけど、これが俺の武器なんだ。
「考えろ、考えろ」
英霊は女性の体を持って現界した。それはつまり、女性としてのリンのイメージが優先されたということ。それならば、英霊は自分のことを女性だと認識するはずだ。英霊の理屈で考えると、リンを女性だと思う人々のイメージが集まったのだからその集合体である彼女がリンを男だと知る術はない。なのに英霊は『人々がリンのことを女性と誤認していた』と言っていた。つまり、男性としてのリンを知る人間の記憶も持っているということ。ならば。
「その記憶は、俺とリンだけのものだ」
俺の中のリンのイメージも英霊の中にあるのだろうか。俺しか知らないはずのドレスの件を知っていたのだから、きっと俺の中のイメージ、記憶も参照されているのだろう。ここまで何も矛盾はない、なら何がこうも引っかかっているんだ?思考をさらに深くへ。きっとこの無限に思える思索の海にも底はあるはずだ。
「……なんで俺も覚えてない記憶を持ってるんだ?」
そうだ、俺の初恋の相手。本当に名前も思い出せない少女のことを英霊は覚えていると言った。あの場面でリンの正体を疑った俺を前にした英霊目線、絶対に嘘はつけないはず。つまり、英霊は本当に初恋の少女の名前を知っている。でも、絶対にそれはおかしいのだ。だって、その少女を知る者はもう俺とリンを除いてこの世に一人も居ない。俺たちの故郷はもう滅んでいるのだから。
「つまり、英霊の中にはリン本人の記憶がある」
英霊は嘘をついていた。理由は一体?答えはすぐに出た。
「リンはまだ生きてる!」
リンを模した姿で現界した英霊の中には、第三者から見たものだけでなくリン自身の記憶がある。そして記憶とはその人間を形成するもの、いわば人格。第三者から見たリンの記憶を縫い合わせただけの英霊が人格を持ったように、リン自身の記憶にも人格は宿っているはず。つまり、リンという人格は死んでいない。そして、何の因果かリンの肉体は既に現世に再び存在している。
「なら、俺にできることがあるはず」
今は表に出ていないが、リンの記憶、ひいては人格をなんらかの手段で表に出すことは可能なのではないか。そうすればリンは本当の意味で生き返る、かもしれない。分からない、全てが机上の空論だ。そもそも人間が生き返るということ自体が常識の埒外。どれだけ考えても理解しきることは不可能だ。でも、だからこそ。どんな可能性も否定しないことに価値があるのではないだろうか?俺の考えた理屈が正しい確率なんて砂漠の中から一粒の砂を見つけるようなものかもしれないし、そもそも端から不可能なものかもしれない。だが、試してみる価値はある。
「準備が必要だな」
――――――――――――――――――――――――
翌朝、まだ早いというのに形成された人だかりの中央に英霊がいた。昨日までと同様リンとして振る舞っている彼女は視界の端に俺を見つけたようで、一瞬だけ笑顔を曇らせる。だがそれに気づくものはただの一人もいなかった。
「おーい、リン!こっち来てくれ!」
あくまでリンを相手にしている時と同じように英霊を呼びつけた。もし俺が英霊の正体を指摘したとして、より人望のあるリンの姿をした英霊の言葉を人々は信じるだろう。そうなっては俺の考えは実行に移せない。なら英霊がリンのふりをしていることを逆手に取って、リンの幼馴染という立場を最大限強く活かしてやる。
「あれ、イツキじゃん!どうしたの?」
英霊は俺の予想通りリンとしての演技を全うするため、人々の前では仮面を脱がなかった。リンが俺を無視するのは不自然だと判断したのだろう。英霊と俺が一対一ならきっと相手にされず終わっていたが、人の目がある事によって彼女は俺の相手をせざるを得ない。これで作戦の第一段階はクリアした。次なる段階へ進むため俺は口を開く。
「単刀直入に言う。俺と決闘しろ」
「……え?」
英霊は絶句する。彼女の背後、人だかりからどよめきが聞こえた。それは次第に嘲笑へと変わっていくが、そんなことは気にしていられない。
「なんで僕が君と決闘しなくちゃいけないのさ!」
我に帰った英霊はリンが言いそうなことをリンがしそうな表情を浮かべて口にする。その姿を前にどうしようもなく虚しくなるが、これも全てリンを取り戻すために必要なこと。沈みそうになる心を奮い立たせて英霊との対話を続ける。
「俺がリンの隣に立つためだ」
リンを取り戻すために英霊を騙す俺と、自分が自分でであるために人々を騙す英霊。両者の思惑が交錯する偽りだらけの今日の作戦の中で唯一かもしれない本心から発した言葉をぶつけると、英霊は俯き何かを思案し始める。
「わかったよ。君がそう言うなら理由があるんでしょ」
結論が出たようで、神妙な表情を浮かべた英霊が決闘を承諾する。リンなら断らないと思ったのだろうか。なんにせよ、これで第二段階もクリアしたことになる。
「場所を移そう。ここは狭いし人が多すぎる」
「わかった。平野に出ようか」
準備は全て整った。やれるだけの事はやってここに来た、あとは全力でぶつかるだけ。俺はリンの意識が消えていない事に全てを賭けてここに来た。
――――――――――――――――――――――――
「やろうぜ、英霊。リンを返してもらう」
「やはりそれが目的でしたか。無駄ですよ、あなたの思うような都合の良い展開など存在しません。何度でも言いましょう、リンは死んだのです」
街から平野へ出た俺たちは向き合い、それぞれの武器を構える。冷たい風が両者の間を吹き抜けた。英霊のスカートが風に舞う。リンの姿をした威風堂々とした立ち姿の彼女はとても美しかった。だがその顔に表情はなく、俺の考えなどお見通しだとどこまでも冷静に現実を突きつけてくる。
「俺はあいつを信じてる」
「愚かですね。その愚かさが、あなたの命を奪うのです」
その言葉と同時に、眼前の英霊は強く地面を蹴り俺との距離を一気に詰めた。盾を前面に掲げて駆けるその様子は、まるで巨大な壁が迫ってくるよう。回避か、迎撃か、それとも。一秒にも満たない時間で判断を迫られる。
ギィン!、と。
金属同士のぶつかる音が響いた。俺が選んだのは防御。両の手に構えた剣を交差させ、正面から受ける。だが英霊の持つ大盾の重量と人間離れした突進の速度が合わさって、俺の立ち位置は一メートルほど後ろに押し出された。大きな衝撃を受けた手は震えている。戦闘開始早々にして力の差を嫌でも感じざるを得ない。笑いすら出てくるが、負けるわけにはいかないのだ。
「おい、リン。いつまで寝てんだ、起きろ!」
自分を奮い立たせるためにもいつもリンを起こす時と同じ調子で声を上げ、両手に握る剣を一点を狙って同時に振放つ。だが英霊は涼しい顔で盾により俺の剣を受け切り、鍔迫り合いに持ち込む間もないうちに大きく盾を振り抜いて俺を吹き飛ばした。
「目を覚ますべきはあなたの方です」
吹き飛ばされるさなか、空中で体勢を整えようとするが英霊はそんな隙も与えてくれない。前方へ跳躍し、俺との距離を一気に詰めて追撃に盾を振り下ろしてくる。間一髪剣で地面を突き座標をズラすことに成功、英霊の一撃を回避した。ズガァァン!と轟音が鳴り響き、一瞬前まで俺のいた場所がクレーターのようになっているのが見える。
「冗談じゃねえ、全く!」
こんな相手と正攻法でやりあって勝てるわけがない。元々リンと手合わせした時でさえ手も足も出なかったのだから、英霊と化した『人々の思い描く誰よりも強いリンデルト』を俺がどうこうしようというのがそもそも間違いなのだ。だが、間違いだと分かっていてもその道を突き進むしかない時はきっとある。俺にとってそれは今だ。
「これならどうだ!?」
腰のポーチから煙玉を取り出し地面へ投げる。着弾地点から煙が立ち上り、お互いの姿を捉えることは困難になった。英霊もこれにはさすがに攻めあぐねている。強制的に時間を作り出しペースを掴ませないというのはリンから学んだ格上を相手にする際に有効な手段だ。そして、俺には他にも手札がある。ポーチを探り、感触だけで目的のものを見つけると同時にそれを口に含んだ。その時には既に煙は薄くなり始めていて、英霊は俺の姿を捉えるや否や再び突進を仕掛けてきた。愚直とまで取れるその行為の裏には格下の俺相手に小細工など必要ないという思い、慢心が見て取れる。それは俺の唯一の勝ち筋。
「らぁ!」
英霊の盾に剣を叩き込む。先ほどは弾かれた俺の剣は盾越しに英霊に衝撃を伝え、膝を折らせた。一瞬遅れて英霊の足元を中心に地面が円形に陥没する。何が起きたか分からないといった表情で英霊は俺に視線をよこしてきた。きっとその瞳には、煌々と輝く魔法陣が顔に浮かんだ俺の姿が映っているのだろう。
「っ、外法を!」
「こうでもしなきゃお前には手が届かねえんだよ」
もっと言えば英霊の中にいるリンにも。俺が口にしたのはいわゆるドーピング剤、その特上クラスだ。人間が普段は発揮できない、もっと言えば身の丈に合わない力を引き出してくれる魔法薬。その分代償は大きく、もしこの戦いを無事に切り抜けることができたとしても俺は数日はまともに動けないだろう。そもそも無事に切り抜けられるかどうかすら怪しいけれど。だって英霊は完全に俺を殺す気だろうから。正体を知られた以上英霊にとって俺の存在は不都合、消せるなら消してしまいたい。提案を飲まれた時から分かっていたことではあるが、実際に殺意を向けられると嫌でも現実を再認識してしまう。リンの顔をしたものに殺意を向けられるのは、今こんなことを言っている場合ではないのだろうが心にくるものがあった。
「……なんですか、その表情は」
鍔迫り合いの中英霊は呟く。心底分からない、といったその表情に苛立ちを覚えた。この感情が理解できないなんてやはりこいつは人間ではない、リンの皮を被っただけの化け物なんだと痛感する。
「てめぇには関係ねぇよ!」
叫び、膠着した戦況を打破するべく更なる力を込める。早くもドーピングの反動が来ているようで腕に激痛が走るが、そんなことは今は気にしていられない。一手、一手だ。リンを目覚めさせるためには、この馬鹿みたいに大きい盾を貫いて一撃でも叩き込めればいい。
「がぁぁぁあ!!」
半ば悲鳴じみた声が喉から漏れる。あと一秒でもこの状態が続いていれば耐えられなかったかもしれないが、先に我慢の限界が来たのは英霊の方だったようで、バックステップで一度大きく距離をとった。だが時間が経てば不利なのは俺。ドーピングの力は徐々に失われていくだけではなく、反動が一秒ごとに積み重なっていく。正直、もう剣を手に持つことすら辛い。たった数秒英霊と互角に渡り合うためだけにこれだけの犠牲を払わなければならない自分の非力さが憎かった。
「何があなたをそこまで駆り立てるのですか」
英霊は俺が即座に追撃を仕掛けないことを見て、警戒の姿勢は保ちつつ問いを投げかけてきた。だが俺には時間がない。答える時間も惜しみ、一足飛びに距離を詰める。だが普段よりずっと速くとも、先ほどまでとは比較にならないほど緩慢になったであろう攻撃が英霊に届くわけがなかった。易々と大盾で防がれ、そのまま盾をフルスイングされる。俺の体は冗談のように吹っ飛んだ。あまりの衝撃の大きさに脳が揺れ、受身を取ることもできずに地面に激突する。
「ぐ、ぁ」
「幼馴染の死を受け入れていれば、あなたまで死ぬことはなかったのに」
かつ、かつ、と靴音が響く。英霊がゆっくりとこちらに歩いてきているのだろうが、俺は頭をそちらに向けることもできない。動かなければという焦燥と、身じろぎ一つできないほどの痛みだけが支配していた。
「理解に苦しみます。もっとも、理解する必要もないと思いますが」
英霊は勝利を確信したようにゆっくりと歩みを進めてくる。この状況を打開できるかもしれない唯一の可能性である腰のポーチは、吹き飛ばされた時にどこかに飛んでいってしまったようだ。武器を手に取らなければ、そう思うが体が思うように動かない。距離が詰まり、耳に入る足音が大きくなる。
「さようなら。あの世でリンに謝りなさい」
足音が止まるまで俺の手は武器に届かなかった。戦闘中、抜かせることすらできなかった剣を英霊が構えた気配がする。更なる痛みの予感に反射的に全身が強ばった。だが、それ以上にリンを取り戻せなかった悔しさが俺の心を満たしている。死ぬことは怖くないが、リンにもう一度会えなかったことは死ぬよりも辛い。
「くそ」
迫る最期の瞬間、脳裏をよぎるのはリンのことばかり。ああ、そうか。きっと俺は、リンのことを……。
ブン、と。
思考を中断したのは剣が振り下ろされる風切り音。だが、俺の意識は途切れない。全身が死ぬほど痛いが、それは薬による反動によるものだ。剣で斬られる痛みがそれを上書きすることはない。しばし沈黙が辺りに満ちた。
「……何が、起きたというのです」
沈黙を破ったのは英霊の震え声だった。心の底から困惑していることが伝わってくるその声に、俺は何か予想外の事態が起きたことをようやく察する。ようやく動かせそうなくらいには回復した頭を英霊の方へ向けると、剣を振り下ろした姿勢の英霊と、俺から二十センチほど離れた場所に突き刺さったリンの剣が見えた。それが意味するのは英霊は動けない俺への攻撃を外したということ。そして、それが意味するのは。
「っ、まさか」
英霊は目を見開き、次いで脳裏に浮かんだある考えを否定するかのように頭をぶんぶんと振った。その考えが何なのか、おそらく同じ可能性に思い至った俺は思わず呟く。
「リン」
「ありえない、リンの意思は眠っているはず。現に今も、わたしは自分の意思でこの体を動かしている!」
英霊が取り乱しつつある隙に俺は激痛に耐えつつ剣を拾い、それを支えに立ち上がる。その間英霊はどこか他の場所を見ているような目つきで何かを探しているようだった。
「一体わたしに何をした、リン!」
怒りに満ちた声を上げ、地面に突き刺さった件を引き抜いた英霊は再び俺に斬りかかる。だが目にも止まらぬ速さで振り抜かれた剣は、見当違いの場所を薙いだだけだった。
「一体どれほどまでの思いがあれば、英霊であるわたしの意思を上回れると言うのです!」
攻撃を外し無防備に体を晒す英霊に向け攻撃を仕掛ける。剣を支えに一歩踏み出し、半ば倒れ込むように拳を叩き込んだ。一瞬遅れてこちらに目線をよこしてきた英霊は我に返ったように動き出し、俺の拳を真正面から受け止めようと盾を構えようとする。
「届……け!」
限界をとうに超えた俺の体はついに走馬灯を見る準備を始めたのか、時間がゆっくりと流れているような感覚に陥る。視界の中央、英霊の瞳に俺が映った。あまりにも満身創痍な自分の姿に呆れすら覚える。そして、ここまで自分を突き動かしてきた名前の付けられないある感情の正体に急に合点がいった。英霊の瞳の中、俺の表情が穏やかなものに変化していく。そして、ほとんど同時に英霊は目を見開いた。瞳に映っているのは俺、だがきっと今彼女は俺ではない何かを見ているのだろう。何となく、そう思った。
「そうか。リンはあなたの事が――」
『うぁあああああああああああ!?待って!それはダメ、その記憶は見ちゃダメぇえええ!!』
その時、リンの声が聞こえた気がした。英霊の動きが止まる。俺の拳は盾に阻まれず、英霊の体へと吸い込まれていく。どす、と鈍い音が鳴った。
『……あなたたちの勝ちです』
同時に俺は限界を迎え倒れ込む。せめて顔面から地面に激突することだけは避けたかったが、体が動かない。そういえば最近似たようなことを思ったなと、ゆっくりな時間の中で場違いな思考をしたその時。
「いてて……。って、危ない!」
俺の体は優しく受け止められた。頭上から先ほどまでの冷たいものとは違う優しい声が聞こえる。それは、俺が全霊をかけて取り戻した待ち望んだ声だった。見上げると英霊――いや、リンが何が起きたのか分からないという顔でこちらを見ていた。
「……寝すぎだ、馬鹿」
その顔があまりにも間抜けで、思わず悪態をついてしまった。だが俺の気分は晴れやかで、顔にはきっと抑えきれない笑みが浮かんでいることだろう。だって、こんなに嬉しい事はないのだから。笑顔はそのままに頬を涙が伝うのを感じる。
「おかえり、リン。会いたかった」
「えっと、その、ただ、いま?……じゃなくて!君、傷だらけじゃない!何があったの!?」
全く。お前の体に散々にしてやられたってのに、覚えてねえのかよ。それすら馬鹿馬鹿しく思えて笑いがこぼれる。笑うと全身が軋んで痛みが走るが、今はこの痛みすら愛おしく感じた。
「なんでもねえよ」
「そんなわけ……っ、待って、何か頭に入ってきて……」
リンが頭を抑え、ややあって頬を染めたかと思うとばっと勢いよく顔を背けた。そして消え入りそうな声で呟く。
「全部、思い出した。ねえ、君、僕のために命懸けてくれたの……?」
「まあ、そうだな」
何を今更という気持ちになるが、考えてみればリンは英霊の中でずっと眠り続けていたようなもの。ようやく意識が戻ったかと思えば目の前に満身創痍の俺が倒れかかってきて、しかも知らない記憶がたくさんあるのだから混乱するのも無理はない。
「……僕の、ために?」
リンは同じことを繰り返し口にし、事実を飲み込もうと試みているようだ。そっぽを向いているので表情は分からないが、声は震えている。どういう感情なのか疑問を口にしようと思ったその時。
「わー!!」
リンが俺を突き飛ばした。三回ほど地面を転がり壁にぶつかる。
「いっ……てぇ……」
意識がふっと遠のきかけるのを感じる。さすがにダメージが蓄積しすぎたようだ。だが今は意識を手放したくない。なんとか体を起こそうと力を込める。
「うそうそうそうそ!そんなの、そんなのって!!」
リンの声が近づいたり遠のいたりする。何事かと視線をやると、俺の思いを他所にリンは走り回っていた。痛みよりも困惑が勝つ。何事かと思い様子を見ていると。
「そんなの好きになっちゃう!もう好きなのに!!」
決定的な言葉が聞こえた。時間が止まる。
「ってか、僕のために命かけるなんて、イツキも僕のこと好きなんじゃないの!?わー!!」
ひとしきり騒いだ後、リンは俺のそばで立ち止まる。こちらを覗き込んでくる瞳と目が合った。驚いたように見開かれる目。いや、さっき話しただろ。まさか、俺がいるの忘れてたのか?
「……聞こえてた?」
そのまさかだった。嘘だろ。
「ごめん」
全部はっきり聞こえていたので素直に謝ることにする。リンの表情が固まった。その様子がとても可愛らしく感じたので、追い打ちをかけてやることにする。
「俺も好きだ、リン」
涙はまだ止まらない。嬉しさと愛おしさと、ほかにもごちゃ混ぜになった感情で俺の涙腺は壊れてしまったようだ。
「ぴゃー!!!」
リンは思いっきり叫び、あたふたと左右を見回し、しばらくして俺を見つめてきて、そして抱きついてきた。その力がとても強くて、痛くて、でも嬉しくて。
「僕も、好きだもん。……やっと、言えたぁ」
リンの口から思いが溢れた。その思いがとても嬉しくて、俺も痛む体に鞭打って強く抱き締め返してやる。
「ずっとずっと好きだったもん!絶対君より先だもん!」
「……そうかよ。気づくのが遅くて悪かったな」
わーわーと騒ぐリン。腕の中で暴れられるが、頭を撫でてやると動きが止まり、徐々に落ち着いてくれた。しばらく頭を撫で続けてやる。どれくらいそうしていただろうか、リンが潤んだ瞳で上目遣いに俺を見、口をもごもごとさせた後に呟いた。
「もう一回、言わせて。……好きです」
「ありがとう。俺も好きだ、リン」
ちゃんと伝えてくれたのが嬉しくて、俺ももう一度思いを口にする。言葉にすることで自分の思いを再認識できた。その喜びによって緊張の糸が緩んだのか、意識が遠のき始める。ああ、くそ。もう少し、このままでいたかったのに。体から力が抜け始める。
「ゆっくり休んでね。……あ。……膝枕、しようか?」
「お願い、しようかな……」
リンが膝を差し出してくれる。だが、その感触を楽しむより先に俺の意識は暗闇に溶けていくのだった。
――――――――――――――――――――――――
あれから二週間。俺たちは再びパーティを組み、リンが生き返る前と変わらない冒険の日々を過ごしていた。その間英霊の人格が出てくることもなく、リンは名実共に生き返ったのだと実感する。
「リン、そっち行った!」
「任せて!」
迷宮にて、俺たちは今日も狩りをしている。最近調子がいいこと、そして俺のランクアップを見据えたいこともあり、今日はAランクの魔物が出る迷宮を選んだ。今のところは手こずることもなく順調に進んでいる。
「よし!一丁あがり!」
その要因の一つにリンの強化がある事は明確だった。英霊としてこの世に生を受けたリンの肉体は生き返る前と比べて格段に強く頑丈で、多少の傷ならすぐに治るほど。リン自身は特に気にしていない様子だが、俺はどうしても英霊のことが頭をよぎる。何かの拍子にまた出てこないか、リンの肉体の主導権を奪われないかが不安なのだ。
「どうしたの?変な顔して」
「あ、いや。今日もお前は可愛いなって」
半分は本音で半分は誤魔化すための言葉を口にすると、リンはぼっと顔を赤くした。そうだ、変わらないと言ったが俺たちの関係性には明確な変化が生まれた。
「平然と言わないでよ、照れるから……」
リンは真っ赤になりながらもこちらへ擦り寄ってきた。関係性に明確な名前こそ付けていないものの、リンは俺への好意を隠さなくなり、また俺もリンへの好意を日に日に強く実感している。
「近くないか……?その、何がとは言わんが、当たる……」
「いいじゃん、ちょっとくらい。役得でしょ?」
女性の体になった相棒は以前と違って積極的になった。今のようないわゆるボディタッチをしてくるなんて前まででは考えられなかった。リンが性別の壁や色々なことを気にして自分の思いに蓋をしていたのだと思うと申し訳ないし、その思いに気づけなかった自分が憎い。
「しゃあねえな……」
だから今、積極的なアピールにはできる限り正直な反応を返すようにしているし、こちらからも積極的に好意を伝えるようにしている。その結果、生き返る前と比べてリンの笑顔が増え、更に明るくなった気がするから効果はあるようだ。
「さあ、次行くぞ!」
実は、Aランクに無事に上がれたらリンに正式に告白しようと思っている。リンが生き返った日、お互いに思いを伝えることはできてもそれ以上の進展はなかった。だが、俺たちはきっとお互いに今以上を望んでいる。それならば俺が一肌脱がないわけにはいかなかった。
「うん!行こう!」
リンも俺がAランクになったら恒例のプレゼントとして渡したいものがあると言ってくれていたし、ちょうどいい機会なんだと思う。……まあ、結果はほとんど見えているが。それでも今の時点で滅茶苦茶に緊張しているけれど、リンならきっと笑って受け止めてくれると信じている。
「ちゃんとついてこいよ?」
俺はリンのことが好きだ。性別なんて関係ない。リンという人間が好きなんだ。ずっと隣にいてくれて、太陽のように明るくて、誰よりも臆病なのに勇敢で、そのくせ恥ずかしがりな可愛いリンが好き。
「うん、ちゃんとついていくさ!……どうしたの?」
その時、どこかからか視線を感じた気がした。辺りを見回すが誰もいない。不思議に思ってリンの方を見ると、彼女の盾に彫られた女神の肖像と目が合った気がしたが、さすがに気のせいだろう。……この肖像、こんな表情だったか?
「いや、なんでもない。進もう」
俺たちは一歩を踏み出した。その一歩は迷宮の奥に向かうためのものでもあり、俺たちが共に生きている証でもあった。願わくば、これからもリンと歩んでいきたい。だって、俺たちは相棒なのだから。