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恋するピエロ  作者: 青岬
9/9

質問

 帰りは正攻法で行くことになった。

 せっかく新調したばかりの服が汚れたら台無しだと、白ペンギンが少女に意見したのだ。

 壁となって塞がる商品たちを押し退け───もちろん、鎖が巻き付いてる箱には決して触れないようにして───一人と二羽は道化のもとへと急いだ。


 足は、裸足からハイヒールへの変化になかなか対応してくれなかった。

 何度も転び、そのせいで派手に商品を倒す。

 二羽が眉をひそめるたび、少女の足に擦り傷が増えていった。


 何時間も歩いたような気がした。

 狭く、真夏のように暑いこの空間では文字通り息が詰まった。

 少女の膝は震え、額には汗が流れる。

「あと、どれくらい──────」

 言いかけて口をつぐんだ。

 この質問は既に地下で問いたものだった。

 しつこい女とは思われたくなかった。


 無意味に頭をかく。

 天井を見つめながら、不満を心の中で垂れ流した。

『この店の構造は、客に対しての配慮がないわ。さっきだって、穴の中を通ることを強要して……そんなことをさせる店って、普通あるかしら。大体、こんな暑い温度が好みっていう時点で何処かおかしいに決まってる。』

 自分の足元を見た。

 白いペンギンと黒いペンギンが、つぶらな瞳で少女を見上げている。

 少女は唇を噛み、目を閉じた。

「──────?」

 少女は目を開け、無意識に鼻をつまんだ。

 何か甘ったるい匂いが、鼻孔に侵入してきたのだ。

 空気の流れに従い、とある方向から漂ってくる。

 それは部屋のむっとした気温と混じり、とても甘美とは言えないものだった。


 呼吸が滞る。

 間抜けな客が、蜂蜜でもこぼしたのだろうか。


 少女は眉を潜めた。

 こんな蒸し暑い中で充分苛立っているというのに、更にその衝動を駆き立てる者は誰だ。

 のんきなそちらとは違い、こちらは疲労困憊だと言うのに─────。

「あ、あ、お嬢さん!?」

 後ろからカーシャの呼び止める声がした。

 それは無視され、何の意味も持たなかった。

 少女は、迷いなくその香りの方向へ足を進めた。


 黒いハイヒールが、怒る猛牛の蹄のように音を立てる。

 探し人が見つからない八つ当たりかもしれないが、少女にとってそんなことはどうでもいいものだった。

『砂糖壺でもぶつけてあげましょうか。そんなに甘い香りが好きなら、香水にそれを混ぜて使ってなさい、とね。』

 前に進むたび、むせこむほどの甘い香りが一段と強くなった。


 やがて少女の前に、淡水色の大きなカーテンレールが壁となって現れた。

 その向こうから、陶器が触れ合う音がする。

 きっと、蜂蜜を零した犯人はここにいる。

 少女はカーテンレールを滑らせ、視界から布を退けた。


 次の瞬間、黒が視界に広がった。

 相手が振り向く。

 その姿を自身の瞳に映した瞬間、怒りは呆気なく萎んでいった。


 その顔は、少女の記憶にも新しい。

 相手は燕尾服を着て、シルクハットを被り、ステッキを回し、白く変てこりんな仮面を付けていた。

「……貴方だったの。」

「お帰り、お嬢さん。」

 道化は笑顔で少女を迎えた。

 片手に蜂蜜と苺ジャムをたっぷりとかけたスコーンを持っている。

 きつい甘い香りの正体は、きっとこれだろう。

 蜂蜜を零したという少女の予想は、あまり的外れではなかったらしい。


 道化は、広い机の上に座っていた。

 机に紅茶が入ったマグカップが乗っているのを見ると、一人でお茶会でもしていたようだ。

 少女は道化の元へ歩み寄る。

「お疲れ様。」

「えぇ。」

「ほぉ、それが君が買った服かい?」

「えぇ。」

「似合っているよ。先程の裸体も、とても綺麗だったけどね。」

「…………そう。」

「隣へどうぞ。」

 道化がジェントルマンよろしく、片手を優雅に広げ、相手を迎え入れた。

 そこは机の上という何ともお粗末な場所だったが、少女は何も言わずそれに従った。

 尻を冷たく硬い机にくっつけ、両足を床からぶら下げる。

 道化に肩車してもらったときのことを思い出した。

「紅茶はいかが?」

 カップから温かい湯気が流れているのを確認すると、少女はそれを断った。

 残念、とでも言うように、道化は肩をすくませる。

「道化、ほら伝票だ。」

 少女に続き、二羽が足音を立てながら歩いてきた。

 道化の足元から紙を手渡す。

 それに印刷されている数字を読み、道化は僅かに感嘆の声を漏らした。

「これは立派なお値段だ。」

 シルクハットを脱ぐ。

 それを数回叩くと、中から貨幣が宙に舞いながら落ちてきた。

「便利な帽子ね。」

「重宝してるよ。」

 少女に微笑みながら、道化はフッチに商品の対価を手渡した。

「確かに。」

「またのお越しを。」

 兄がお札を数え終え、弟が客に礼を言う。

 カーシャとフッチは、用が済めばさっさと店の奥に引っ込んでしまった。

 恐らく店の常連であろう道化と、世間話をする気はさらさらないようだった。

「これ、有り難う。とても助かったわ。」

 腕の中の黒い上着の存在を思い出す。

 少女は道化にそれを返却した。

「お役に立てたようで嬉しいよ。」

 道化はやっと、甘ったるいスコーンの最後の一口を口に押し込んだところだった。

 少々篭った声で返事をし、上着を受け取る。

 片手で受け取ったからだろうか。

 畳まれていた上着が崩れ、長い背中の先が床についてしまった。

 少女は少々その行動に無神経さを覚え、口をすぼめた。

『せっかく綺麗にしてもらったのに、汚れちゃう。』

 少女はそう思った。

『でも、上着は私のものじゃないし───。』

 所有者が所有物をどうこうするのを、他人が口を挟む権利はない。

 そう自分を諌め、口をつぐんだ。

『私、神経質な人間なのかしら?』

 恥じらいを覚え、少女は熱くなった頬に両手を添えた。

 当の本人の道化は、燕尾服と名乗るのに一番重要な上着が返ってきたことについて、気楽に笑っているだけだった。

「おや? 気のせいかな。皺がなくなって綺麗になっている。」

「サービスですって。」

「ほほぅ。」

「迷惑だった?」

「いいや。わざわざアイロンを物置から引っ張り出すはめにならなくてすんだ。」

 道化が上着を羽織る。

 どうしてこんな室温の中、服をもう一枚纏おうとするのか少女には理解出来なかった。

 我慢強いのか、意地っ張りなのかは分からない。

 どっちにしろ、道化の肌からは一筋も汗が流れていなかった。

 それが恐ろしかった。


 道化はポットの紅茶をカップに注ぎ、一口飲んだ。

 口を離しため息を付いた後、唐突にこちらを振り向く。

 あまりに急だったので、少女は体を緊張で一瞬震わせた。

 頭から足の先まで、道化は少女の体をまじまじと見つめた。

 その視線を怪訝に思い、少女は問う。

「何?」

「幸せだ。」

 脈絡もなく、道化は自分の感情を口にした。

 その答えに少女は少々面食らった。

 道化はまたため息をついた。

 憂いなどではなく、それは満足感からくるものだった。

「その茶色の髪も、緑の瞳も、白いワンピースも、全てが完璧だ。こんなに可愛らしくて、愛らしいものが、私の隣にいるなんて。とても嬉しい。私は幸せだよ。本当に幸せだよ。」

「……どういたしまして、とでも言ったらいいのかしら。」

 相手の恍惚とした表情に、少女は冷静に微笑みを返した。

 その表情のまま、少女は会話を続ける。

「私をこの世界に連れてきたかいがあった?」

 雨はまだ降り止まないらしい。

 ざぁざぁと波長のある音が、店内に響いている。

 道化のカップを傾ける手が止まった。

「貴方がここへ私を連れてきたんでしょう?」

「知ってたのかい?」

 道化はきょとんとした顔で言う。

 少女は首を振った。

「いいえ、全く。でも、その燕尾服を見て分かったの。」

「どういうことだい?」

 少女は道化の顔を見ていなかった。

 額に垂れてくる前髪を指でもて遊びながら、淡々と説明を続ける。

「私が海の底で、誰かに捕まったとき───その人は、真っ黒な両腕をしていたの。手には真っ白な革手袋をしてね。まるで、悪魔みたいだった。」

「ひどい言われようだ。」

「聞いて。その人はこう囁いたの。『迎えに来たよ。』って。そして私は眠って、気付いたら見知らぬ森にいた。何年も海の底で漂ってたはずなのに。そして、貴方が現れた。」

 道化は微笑みながら、紅茶を一口飲んだ。

「会ったときも、この店に来たときも、貴方があの黒い腕の人と同一人物とは、思いもよらなかった。きっと、記憶が薄れていたのね。でもさっきカーシャから上着を渡されたとき、思い出してしまったの。」

「…………。」

「海で白い両手に包まれたときと、貴方の上着を胸に抱いたときの感覚────同じだったの。感触も、香りも、眠気を誘う不思議な力も。怖いくらい。もう、貴方が私を誘拐した犯人だって疑わなかったわ。」

 紅茶を飲み終わったのか、道化はカップを机に置いた。

 机の上には、それと他にもう一つカップがある。

 道化はそのカップを手に取り、少女に語りかけた。

「紅茶はいかが?」

「頂くわ。」

 道化のカップには百合が描かれていたが、こちらのカップには赤紫のコスモスが花を咲かせている。

 多くの言葉を発し、少女の喉は渇いていた。

 了承してくれたのが嬉しかったのだろう、道化は鼻歌混じりでカップに紅茶を注ぎ、少女に渡した(紅茶から湯気が立っていなくて、少女は安堵した)。

「美味しい。」

「それは良かった。」

 時間が経って冷えたのだろう、無論アイスティーとまではいかなかったが、紅茶は程よい冷たさを持って少女の喉を滑り落ちていった。

「それにしても……人の形をしたバクなんて、初めて見たわ。」

「バク?」

「だって、この世界は夢の世界なんでしょう?」

 道化は肘を付き、頭を傾けた。

 人差し指を頬に打ち付けながら、遠い目をして店内を見る。

「夢か……それも正しいかもしれないね。君がいた世界と、この世界は全くの別物だから。」

「でしょうね。元の世界で、私、とっくに死んだわ。」

 少女が紅茶のお代わりを所望した。

 道化は再び紅色の液体を惜し気もなく彼女のカップに注ぐ。

「世界が違っても、君は君さ。君がこの世界に来たから、新しい体が与えられたのさ。」

「それ、どういうこと?」

 道化は笑い、片手を上げて少女の問いを静止した。

 シルクハットを脱ぎ、片手で器用にくるくると回す。

「焦らないで。頭の中に一辺に新しいことを詰め込もうとするのは、ロクなことにならない。昔、知り合いに円周率を最後まで求めようとしたやつがいたんだけどね、三日後に泡を吹いて死んでしまった。ゲームでもしようじゃないか。時間はたっぷりある。ゆっくり語り合おう。」

 道化がシルクハットを叩いた。

 数回叩いた後、シルクハットの中から紐で縛ったトランプが出て来た。

 表面がつやつやと輝き、上等な品であることが窺われた。

「ポーカー? 女性とするゲームとしてはイマイチだと思うよ。」

 一体誰に対して意見したのだろうか。

 道化は少女に話しかけたわけではなかった。

 道化はトランプを中へ戻し、またシルクハットを叩いた。

 次に、赤と黒で割り振られた薄い盤が落ちてきた。

「チェス? 説明が面倒臭いな。もっと簡単なゲームはないのかい?」

 道化は再度誰とも分からない人物に意見し、盤をシルクハットの中へ戻した。

 またシルクハットを叩く。

 今度は少々乱暴に。


 やがて、ばらばらとたくさん、小さな薄い駒が出て来た。

「うん?」

 それはいくつか道化の手からこぼれ落ち、床を転がっていった。

 道化は落ちてきた駒を眺める。

 その駒は薄く、小さな円の形を描いていた。

 表と裏で色が違い、白と黒で対になったものだ。

 やや遅れて、暗緑の色をした盤が落ちてきた。

 二つに折られ、盤上は黒い線で区切られている。

 先程のトランプとは違い、この玩具は安物さが感じられた。

「オセロか……。」

 道化は腕を組んで頭をひねる。

 そのままの姿勢で少女に訊いた。

「ルールは知ってるかい?」

「もちろんよ。」

 少女はやや口角を上げて答えた。

 海に落ちてきた言葉の中から、そんな遊戯があることを知っていた。

 自らの知識に大きな不足はないようだ。

 少女はそのことが嬉しかった。

「黒と白に別れて、互いの駒をひっくり返しながら数をきそうんでしょう。ひっくり返すのには、確か相手の色を自分の色で挟むのよね。簡単だわ。」

 少女は口からすらすらとオセロのルールを話す。

 道化は相手に気付かれないように笑った。

 少女のその口調が、ませた子供が大人に一生懸命背伸びして喋っているように思えたのだ。

 道化は床に落ちた駒を拾い集めた。

「では決まりだ。」






     *






 少女は唇をすぼめた。

 目の前の光景に、肘を付いて拗ねている。

「また私の勝ちだ。」

 盤を挟んだ向こうから声が届いた。

 少女は相手を軽く睨み付けると、次に盤上に視線を投げた。


 白い円が、緑の大地を埋めつくしていた。

「……貴方、何かズルをしてない?」

 駒を一つ盤から取り上げる。

 それを憎そうに弄びながら、少女は言った。

「おや、これは少し心外。」

「だってそうじゃない。こんな簡単なルールのゲームなのに、私、もう五回も負けたのよ。何かこの駒に細工がされてるんじゃないかしら。」

 少女は目の前に駒を掲げる。

 開始時に闇を纏っていたそれは、数分後には潔白に染まった。

 白は黒を瞬く間に奪っていった。

「A minute to learn, a life time to master.」

「……何ですって?」

 道化は舌を一度ももつらせることなくその言葉を口にした。

 少女が眉を上げて怪訝に問う。

「覚えるのに1分、極めるのに一生という意味さ。」

 道化はくすくすと笑いながら、少女をからかった。

 幼子の頬が赤く染まる。

「もう一回、もう一回よ!」

 少女はゲームの続行を命じた。

 相手の了承も得ていないのに、駒を盤から落としていく。

 道化は少女の求めを断わらない。

 長い手を伸ばし、駒の整理を手伝った。

 白と黒、対の色が二つずつ並べられ、遊戯は再開された。

 少女は黒、道化は白を操作する。

 二人が着用している衣と反対の色だった。

「……そういえば。」

「何だい?」

「私は何故生きてるの? もう一つ、私は何故こんな姿なの?」

 少女は駒を動かしながら道化に訊いた。

 熱中し過ぎたせいで、今まで殆ど会話をしていなかった。

 なのでこれが、ゲームが始められてから最初の質問となる。

「ふぅむ。それはとても難しい質問だね。どう説明したらいいか、」

「ごまかそうとしないで。」

 道化の番になる。

 自らの色を二つ結び、間を一つめくった。

「生まれてすぐ、君は死んだ。それは確かだよ。でも幸か不幸か、魂は天に召されることはなかった。神様に置いてけぼりにされたということだね。」

「嫌な言い方。」

 少女は道化の表現に不快感を感じ、腕を組んだ。

 少女の言葉に、相手は笑みを浮かべながら肩をすくめた。

「ここで重要なことが、魂は変化するということだ。体は失っても、魂は成長を続けたんだ。この世界に来て、君には新しい入れ物が与えられた。この世界の神は気がきくようだ。その精神に相応の体を与えてくれたんだろう。」

「だから私は、赤ん坊ではなく成長した姿でいられるってこと?」

「そういうことさ。」

「…………でも、何年も語り継がれる悪霊伝説だってあるわ。死んでもずっとその姿のままの魂だって、存在するんじゃないの?」

「それは幽霊だからさ。幽霊の魂は成長しないよ。元々幽霊は、生前その姿のときに何か思い残りがあったから世界に留まるものだろう? 強い思い入れがある魂は、成長も腐りもしないのさ。でも本来魂は純粋な存在だ。成長していくし朽ちていく。他にご質問は?」

 道化は手を広げて少女に言った。

「…………分かったような、分からなかったような気分だわ。」

「また疑問があったら訊いておくれ。」

 少女は盤の四隅に順番に目を通した。

『……半分でもいい。』

 どうにかこの四角い世界の頂点を支配したかった。

 そうすれば、簡単に逆転ができ、勝利の近道を歩める。

 しかしこれまでのゲームで、少女は一度も角を黒く染めることが出来なかった。

 可能だと考え気分が高揚した途端、相手にことごとくその場所を奪われていったのだ。

「二つ目の質問。この世界は現実のもの? だとしたら、私の元々の世界とどんな関係があるのかしら。」

 文句を言う代わりに、少女は道化に質問を続けた。

「先程よりもずっと簡単な質問だ。」

 道化は手の平で駒を回転させながら、次の出方を思案していた。

「大きな樹木を想像してごらん。枯れたものは駄目だよ。太い枝を伸ばし、何万と葉っぱを振るわせてる木を。」

 少女の頭で、道化と初めて対面したときの木が思い出された。

 赤い果実を実らせ、その根はとても若々しかったのを覚えている。


 少女は小さな絶望の声を上げた。

 道化が一気に六つの駒を白くしたのだ。

「世界が一つしかないという考えは、愚かで居丈高さ。そんなもの、掃いて捨てるほどあるんだよ。」

 おまけに道化は、四隅の一つを自らの領地に加えた。

 少女が唸りながら駄々っ子のように足をばたつかせる。

 その弾みで、ハイヒールの片方が床に落ちた。

「その数え切れないほどある葉っぱの中で、たった一枚が君の世界。そしてその隣で揺れているのが、今いる世界とでもいったところかな。何千何百とある世界の内の二つに私達はいるのさ。騒ぐほどの価値はない話だよ。」

 道化は苦笑しながら、一旦机から立ち上がった。

 転がっていったヒールを拾い上げる。

 そして少女の前にひざまづくと、その細い足首に黒革をはめ込んだ(自らの行動がまるで幼児のように思え、少女はわずかに頬を染めた)。

「君の世界の常識を、この世界と共有させないほうがいい。気を付けて。二十年来の親友が次の日に殺し合ってるなんて、珍しくもないことだから。」

 少なくとも、君の世界では動物は話さないようだけど。

 道化はそう付け加え、再び机に身を降ろした。

「この質問はここらへんで終わらそう。世界観をだらだらと説明するのは、最も退屈な行為だから。簡単に言えば、君の世界よりずっと便利に出来ていて、ずっと住民は狂っているということかな。なぁに、すぐ慣れるさ。」

 道化は手を振りながら楽観的に答える。

 少女はその様子に小さな怒りを覚え、同時に安堵を感じた。

 前髪をいじり、指を盤に伸ばす。

 白い駒が二つ黒に変わっただけだった。

「三つ目の質問。これで最後よ。一番私が貴方に訊きたいこと。──────あっ、そこは駄目!」

 少女の制止に、道化は伸ばしかけた手を引っ込めた。

 もう一つ白い駒を、角に敷こうとしたのだ。

 狙いを定めていた場所を奪われかけ、少女は思わず声を出してしまった。

 懇願の瞳で相手を見つめる。

 道化は何も言わず、駒の位置を変えた。

 角ではない場所だった。

 黒を二つ、白に染め変えた。


 少女は道化から目を逸らした。

 声を荒げたことの恥ずかしさもある。

 しかし今相手を直視出来ないのは、それだけではない気がした。

「何故私をここに連れてきたの?」

 少女は目を伏せながら相手に問いた。

「何故? とてもとても簡単な質問だ。」

 先程までの道化の笑みは、まるで父親になったかのように優しいものだった。

 だが今の彼の口角は、それとは違った。

 道化は明らかに少女を嘲っていた。


 突然の雰囲気の変わり具合に、少女は対応することが出来なかった。

 ここに座っていることが、妙に場違いに思えてくる。

 道化の姿を一瞬瞳に映した。

 彼は長い足を軽く組み、奇妙に頭を傾けていた。

「君を連れてくるのには苦労した。隣だからといって、簡単に別の世界に旅行へは行けない。とある人物の力を借りた。それでも腕を持っていくだけで精一杯だったよ。」

 道化は新たにポットから紅茶をつごうとした。

 だが中身は空となったらしい。

 紅い雫が一滴落ちただけだった。

「そこまでして、何故私を?」

 道化は相手からの最後の問いに、口を動かした。



「            」






「──────今何と?」

 今もしもカップを手に持っていたら、床に白い破片が飛び散ることになっていただろう。

 少女は自身の緑の目を限界まで見開き、相手に聞き直した。

 道化は微笑みながら、再度答えを繰り返した。

「私と恋人になってほしい。」

 先程の発言と一字一句違えず、道化は言った。


 少女の肩に冷や汗が流れた。

 体温が急激に奪われていく。

 ただ戸惑い、視線をあちこちに巡らせた。


 少女は道化の答えを聞き逃したわけではない。

 一度でその意味を理解することが出来ず、再読を頼んだのだ。


 助けてくれた人物は誘拐犯だった。

 恐ろしい感覚を覚えた。

 最初はどうにか、その気持ちを揉み消そうとした。

 だが犯人は今、少女に自分との関係を望んできた。

 感情の隠蔽が限界を迎えていた。

 目の前のゲームの相手は普通の人間ではない。

 精神が壊れている。


 気付けば少女は体を震るわせていた。

 相手の表情の変化を気にせず、道化は喋り続ける。

「君と仲良くなりたいんだ。一緒に生活してほしい。一緒にご飯を食べて、一緒に散歩をして、一緒に寝よう。私に愛の言葉を囁いてほしい。睦まじい恋人になろうじゃないか。」

 相手は一旦言葉を区切った。

 頭に浮かんでいた想像を口にするのを少し躊躇ったらしい。

 だが逆に沈黙の時間が、次に発せられた言葉を強調した。

「もちろんベッドの中でも。」



 記憶が全て飛んだ気がした。

 少女の視界が、一瞬真っ白になった。


 気付けば少女は、手にコスモスのカップを持っていた。

 半分ほど残っていた中身はこぼれ、床に雫が垂れる。

 相手の白い仮面は紅茶で濡れていた。

 燕尾服やシルクハットも例に漏れてはいない。

 全く無意識の行動だった。

 少女は道化に、紅茶を真正面からかぶせたのだ。


 投げ捨てるようにカップを机に戻す。

 少女は立ち上がり、道化を一目を見ずに歩き始めた。

 ヒールの踵を高く鳴らし、足を進めていく。

「何処に行くんだい。」

 その問いを少女は無視した。


 この道化と一緒にいてはならない。

 逃げろ。

 本能がそれを告げていた。

 足をもつれさせ、半ばパニックとなりながら少女は商品の海を掻き分けた。


 突然視界が歪んだ。

 腕の感覚がなくなる。

 眩暈がしたかのように感じ、少女は倒れかけた。

「おっと危ない」

 後方からの支えで、転倒は免れた。

 全身に力が入らず、少女はそれに身を預ける。

 つっかえ棒は燕尾服を纏っていた。


 仮面が上から覗きこんでくる。

 それも段々と黒みを帯びた。

 目の前が光を失っていった。

「おうち」

 五感の機能が停止していく。

 少女はそんな中で、はっきり呟いた。

「おうち、帰りたい。」

 道化は少女をしっかりと支えた。

 片手で肩を抱き、もう片方は腰にあてる。

 相手の耳に口を近付け、ピエロは惨たらしく言った。

「君におうちはないんだよ。」

 少女は既に聴覚が働いていなかった。

 まるで死に行く者のように、瞼をゆっくりと閉じた。

 道化は両手に力を込める。

 少女の目にかかっていた前髪をはらった。


 道化は少女を抱いたまま、空に悪態を付いた。

「効くのが遅すぎる。」

 それは後方にいる者に対してだった。

 相手は今まで隠れていた商品の陰から、小さな体を現す。

 道化はずっと前からその存在に気付いていた。


 勘付かれていたことに動揺することもなく、相手は道化に手を差し出した。

「睡眠薬と紅茶代、合計10000アール。」

 へらのようなその手は、綿毛のように白かった。




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