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恋するピエロ  作者: 青岬
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林檎


 湿った空気が鼻をつく。

 濃い曇天が空に広がっていた。

 白と黒の絵の具を、一対一で混ぜ合わせたような色だった。


 大地には、緑の海が風に忠実に従ってなびいていた。

 背が高く、細長い木々たちが森を形成している。


 その森の中心に一本だけ、他のものと比べて一回り小さい木があった。

 小さいといっても、人の背を由に超す大きさだ。

 生き生きとした緑の葉の中に、鮮やかに光る赤色の実がなっている。


 そして、木の麓。

 地面から宙に向かってでこぼこに伸びる、太い根を枕にして目を閉じている少女がいた。

 まだ成長段階にある体には、衣服を何一つ着ていない。

 肩までの長さの、木の幹のような茶色の髪が顔にかかっている。


 少女が目を覚ました。

 まばたきを数回した後、ごろりと寝転がり、体の向きを変えた。

 手で隠すことなく大きな欠伸をすると、身に纏わりつくけだるさをどうにか振り払い、上半身を起こした。

 歳は低く見積もって十四、高く見積もって十七といったところだろうか。

 欠伸のせいで涙に濡れた両眼は、新緑のように爽やかな緑色をしている。


 少女の二つの目が、周りに広がる風景を捉えた。

 花を咲かせながらそよぐ草原、寄り添って生えている樹木、そして自分が背を預けている木。

 灰色の空を見上げると、固まっていた首の骨が音を立てた。

「…………。」

 頭を下げ、もう一つ大きな欠伸をする。


 少女が、ふと目の前に手の平を差し出し、感触を確かめるようにゆっくりと握り締めた。

 筋肉の収縮が、拳から腕に伝わる。

 次に、片膝を立て、関節に力を込めた。

 その力をばねに、もう片方の足を持ち上げ、立ち上がる。

 よろよろとふらついて、まるで生まれたての仔馬のように情けない。

「あ」

 体が後ろに傾き、中々派手に後頭部を幹に衝突させた。

「――――っ!」

 思わず後頭部を両手でかばう。

 ぶつかる前にこの行動が出来れば痛みを和らげられたのに、と少し悔やむ。

 ひりつきのせいで、目に薄く水が張った。

 痛みがじょじょに消え、やがて気にならなくなった後、少女は自分がここに存在していることの異常さに気が付いた。






 ───ここは何処だ?






 少女は、海の底に沈んでいたはずだった。

 酸素がない水中にいた。

 喉がない体で呼吸していた。

 それなのに、今は地をしっかりと踏みしめ、空気が喉を通り胸を膨らませている。


 何故?


 少女は、今とても奇妙な体験をしていることになる。

 何故なら少女は生きてはいなかったのだから。

 彼女はそのことを忘れるほど、傲慢ではない。

 それなのに、こんな立派な体を思うがままに操れている。


 少女は眉間に皺を寄せ、首を傾げた。

「……あぁ!」

 合点がいった証の声を外に出した。

 手の平を叩く。


 これは夢なのだ。


 頭が重い。

 先程まで熟睡していた感覚が、体に残っていた。

 だが、今も覚醒はしているわけではないだろう。

 そう、現在体験していることも全て、現実ではない。

 海の底で、眠ったことは覚えている。

 頭の中の願望が、睡眠中に夢となって現れただけだ。

「ふむ。」

 成る程幻の中でなら、体を持ち、水の中からはい上がることもたわいない。

 少女は木の下で、固まった体をほぐすため大きく伸びをした。

「夢の中を過ごすのは初めてだけど、」

 悪くない。


 少女はこの夢を、精一杯楽しむことに決めた。






     *






 少女は、木になっていた果実を何とか一つもぎ取った。


 自分のものとなった果実をまじまじと見つめる。

 たわわという言葉がよく似合う、大きな実だった。

 片手だけでは余りに頼りなかったので、もう片方の手をその輪郭に添える。

 赤く歪みない丸い姿が何とも美しい。

 球体型の鏡のように、少女をうっすらと皮に写していた。

 少女の緑の目さえもその小さな世界の中で赤に染まることを余儀なくさせられた。

 つるんとした表面を親指の腹で撫でると、冷たい内部の温度が伝わってくる。


 味も素晴らしかった。

 少女には、口に溶けかけの氷が滑り落ちたように思えた。

 爽やかに香り、適度に冷たい。

 まるで体全てが舌になったように喜ぶ。


 丸い果実がすっかりやせ細ってしまった頃、少女は自分の体に何一つ纏ってないことをやっと気にしだした。

 頬に朱色をさしながら、ほんの少し膨らんでいる胸を両手で隠す。

 誰もいるわけではないが、浴室以外でこんな格好をしているのは、たとえ夢の中でもどうも恥ずかしい。

 誰にも見られることがないのが唯一の救いである。


 腹は満たせたが、さてこれからどうするか。

 少女はため息を付いて、頭を垂れた。

「こんにちは、お嬢さん。」

 その声に勢いよく頭が上がる。

 茶色の髪が軽く揺れた。


 いつのまにか、少女の前に男が立っていた。

 足音も、気配も何も感じさせないままに。

 目の前の人物が、挨拶代わりに少女に礼をした。


 針金のように細い長身を黒い燕尾服に包み、頭の上に黒いシルクハットを乗せている。

 右手には、シルクハットと燕尾服と同じように黒いステッキ。

 黒い革靴が、黄緑色の床を踏みしめていた。


 二人の間の時が止まる。


 少女の顔が一瞬で沸騰したように赤くなった。

 頭で考えるよりも先に足が動き、後ろの木の陰に素早く隠れた。

「お嬢さん?」

 幹ごしに、男性としては高めの声が聞こえた。

 風船の空気が抜けたような、間抜けな声だった。


 少女は壁になってくれている木に寄りかかり、しゃがみ込む。

 何故こんな森で、自然の中には不釣合いな、真っ黒な服を着た男が現れるのか、皆目検討がつかない。

 自身も釣合いが取れている格好ではないことは、重々理解しているが。

「お嬢さん。」

 草が踏みしめられる音がした。

 その音は規則正しく、どんどん大きくなってくる。

 少女の心臓が大きく震えた。

 足は怖気づき、汗が額に滲む。

「いや!!!」

 少女が羞恥と恐怖で目を固く閉じながら、叫んだ。

 同時に、もうほとんど芯しかない手の中の果実を男に向かって投げ付けた。


 濁りない音が聞こえたということは、見事命中したらしい。

 閉じられたオルゴールが音を奏でなくなるように、足音がぴたりと聞こえなくなった。


 裸の少女に遠慮なく近づいてくる行動を見る限り、男は他人とは少し違う思考をしているようだ。

 だが流石に少女のこの行為を、歓迎とは思わなかったらしい。

 男は忠実にそこで立ち止まった。

「私が嫌い?」

 また、風船の空気が抜けたような間抜けな声がした。

 少女は返事をしなかった。

「嫌いと言われるのは悲しいなぁ。」

 間抜けな声が、雀の涙ほど憂いを帯びた。

「嫌いとか、嫌だとか、そういう言葉は……、うん、君からだけは言われると悲しい。」

 また、草が規則正しく踏みしめられる音が再開した。


 少女は目を瞑り、身を強張らせる。

 音は、やがて止まった。

 だが、いくら経っても何も少女の体には触れてこない。


 少女は震えながらゆっくりと目を開けた。

「逃げないで。」

 決して体をはみ出さないようにして、幹の横から男が手を伸ばしている。

「君が嫌がることはしないから。」

 その手には、燕尾服の上着が垂れ下がっていた。






     *






 あまり時間を置かずに、木陰から少女は出てきた。

 淡い色の肌には、黒く分厚い上着を纏って。

 男の上着の端は、少女の太股の中程まで届いていた。

 その持ち主の男は、先程までの少女を真似するように、幹に背中を預けて空を見上げている。

「雨が降ってきそうだね。」

 男が不快そうに言った。

 少女が相槌を打つことはなかった。

 無言で、男の横に自分も幹に背中をもたれかける。


 少し肌寒くなってきたこの気温の中では、男が貸してくれた上着は有り難かった。

 燕背服の最大の特徴である、割れた背中が尻をさらけ出してないか頻りに気になることを除いては。


 深い沈黙が続く。

 空の黒い雲はどんどん濃度を変えている。

 少女は隣に存在する人物の顔を、右斜め下からまじまじと見つめた。


 彼の顔は、至極奇っ怪だった。

 とても変てこりんな、白い仮面を付けている。

 輪郭をなぞるように、耳の辺りまで口角が伸び、両目は三日月が上向きになったよう。

 まるで、誰かを嘲っているような笑み。


 二度も伝えるのはくどいようだが、やはり至極奇っ怪な顔だ。

 まるで道化を演じているように見える。

 その癖、あの下品な原色だらけでぶかぶかの水玉の服を着ていない。

 逆にそのことが、男を何となく滑稽に見せた。

「─────あの───」

 この沈黙を断ち切ろうと、少女が口を開いた。


 それに反応した音は、男の口から発っせられたものではなかった。

 柔らかい草の上に、何かが着地したような軽い音がした。


 少女と男が、首を回して音の方向に目を見張る。

 赤い実だ。

 二人から少し離れた、草の上。

 形成したときは皺一つなくぴんと張っていただろう赤い皮は、べろりと垂れ下がり、黄ばんだ中身を醜く曝している。

 所々どす黒く染まった、変わり果てた姿。


 少女が首を上げる。

 熟し過ぎた実が、強制的に木から別れを告げられたのだろう。

「勢力をそのまま閉じ込めたような、そんな色をした実も、やがて朽ち果て、醜くなる。全く不思議なことだね。」

 男が、少女の顔を覗き込んで言った。

 その顔の近さといったら、鼻と鼻が触れてもおかしくない距離だった。

「お腹は空いていない? 林檎でもどうかな。」

 即座に少女に後ずさりされたことを気にする様子もなく、男は白い手袋に包まれた指を伸ばして、頭上を指した。

 もう腹は十分膨れていた少女は、首を横に振る。

「それは残念。では、私だけでも頂こう。」

 男が、黒いステッキを反対に持つ。

 先端を、緑の固まりに突っ込み、乱暴に掻き回した。


 やがて、赤い実は一つ落ちてきた。

 男のシルクハットに当たり、跳ねたそれは男の手を最終的な着地点とした。

「ごめんよ。」

 男が誰に言うとでもなく、呟いた。

 シルクハットが軽く震えているのは気のせいだろうか。


 男が口の前に実を差し出し、かぶり付いた。

 きちんとした身なりに似合わない、中々豪快な食べ方だ。

 しゃりしゃりと実がすり潰されている音がする限り、歯はちゃんとあるようである。

「木の下に、男と女と林檎。いいね、まるでアダムとイヴのようだ。」

 少女は男が言ったその言葉に、肩をすくめただけだった。


 瞬く間に、果実は芯を残すだけになった。

 それを地面に投げ捨てる。

 男は改めて少女に一礼をした。

 慌てて少女も礼を返す。

「初めまして、お嬢さん。」

「えっと、初めまして、お兄さん。」

「おじさんと答えてくれなかったのが嬉しいね。」

 男は頭を上げると、自分の上着で包まれている少女の体を首からつま先まで眺めた。

「男として素直に言うと、その格好の方が好ましいのだけれど。紳士としては、君をいつまでもその淫らな姿のままで過ごさせる訳にはいかないな。」

 男が腕を組んで悩ましく言った。

 それを聞いた途端、少女は驚きで両目を開いた。

「協力してくれるの? この格好を、少しでも改善することに。」

 男がまた頷く。

 ぽかんと口を開けた少女に、男は笑って答えた。

「もちろん。」

「そう……。」

 少女はこの男の気質を、改めて考えさせられることになった。

 第一印象としては最悪だ。

 だが思ったほど、悪人ではないということだろうか。

「さて、服を手に入れるには服屋だね。早く行こう。あまりいい天気ではない。」

 男が空を眺める。

 太股の間を掠めていく風が、湿り気を帯びていた。


 少女は、胸の辺りの生地を軽く撫でた。

 男について行った方が、お互い有意義であることは目に見えている。

 だが、信用していいのかはまだ判断が付かない。

 この男のことは、まだ分からないことばかりなのだ。


 だが今は───


 少女は、決意を固めた。

「───お言葉に甘えて。」

 少女が答え、男が笑った。

 少女は、男が伸ばした手を取った。


 体温がまるでない手だった。




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