魂
「そんなこと、出来ない。」
濃橙のランプが、部屋を照らしている。
天井から吊り下げられたランプが揺れるたび、床に映る道化の影も揺れた。
今にも切れそうな細い紐が、ランプの運命を握っていた。
道化は、白いソファに腰を降ろしている(柔らかすぎて坐り心地は悪かった)。
机には、紅茶が入ったカップと、白い皿に並べられたクッキーが乗っていた。
道化は目の前の人物の瞳を見ながら、もう一度言った。
「そんなこと、出来ない。」
「おや、無理なのかい?」
道化から机を挟んだ向こうには、もう一つソファがあった。
道化が座っているそれとは違い、一人用のものだ。
そしてその上には、一人の老婆が座っていた。
淡い紫のドレスの上に白いカーディガンを羽織り、上品そうに微笑んでいる。
頭の上できっちり纏められている白髪は、若いときはさぞ美しい髪色だったのだろう。
この老婆こそ、喜怒哀楽の変化が乏しい道化が───はっきりと、確実に───嫌いと感じる相手だった。
魔女はホットミルクを啜っていた。
机にある砂糖壷の蓋を開けると、一掴み中身をすくった。
それをマグカップの中に入れ、銀のスプーンで中を掻き回し、また口を付ける。
魔女は、客である道化に目をやった。
くすくすと楽しむように笑い、道化の仮面の顔を眺める。
「似合っているねぇ、それ。」
道化は、その言葉に何も答えなかった。
先程までの会話を続ける。
「何か、別の方法はないのか。」
「ないよ。こればっかりは、私にはどうにも出来ない。紅茶もう一杯いかが?」
道化は、軽く手を上げてそれを断った。
苛立ちを隠さず、ステッキで軽く床を叩いた。
「貴方は魔女だろう。」
「そう人は言うね。」
「何か別のやり方は見つけられないのか。」
「無理だねぇ。お茶菓子はいかが?」
魔女は、こんがりと焼かれたクッキーを奨める。
甘い香りが漂い、可愛らしく星型やらハート型にくり抜かれ、とても美味しそうだ。
道化は再び、手を上げてそれを断った。
「その方法でしか、無理なんだな。」
魔女は、道化が手に取ることのなかったクッキーを自分の元へ寄せた。
それを一つ口に入れ咀嚼する。
さくさくとクッキーが潰れる音が部屋に響いた。
魔女は頬を動かしながら、じっくり自らのお手製の菓子を味わった。
口の中のものを飲み込むと、また道化と話し始めた。
「あぁ。だって、彼女は、そこにいるんだから。こっちから迎えに行ってやるのが紳士じゃないかい?」
「…………。貴方に従うことにしよう。」
道化は、ソファから立ち上がった。
上の重みがなくなったソファが、ゆっくりと膨らみを取り戻す。
帽子かけに吊り下げていたシルクハットを被り、道化はドアに向かった。
「あら、もうお帰り?」
「邪魔をした。」
魔女が、首を傾げて訊ねた。
道化は魔女の顔を見ないまま、足を進める。
「お土産に、林檎でもいかが?」
魔女はマグカップを机に置き、椅子から立ち上がった。
すぐ近くにある戸棚の元まで歩いていき、両開きのドアを開ける。
すると、そこには林檎が沢山入った籠が中に納められていた。
深紅の皮が照明の光に照らされ、なめらかな輝きを描いている。
道化は振り返った。
道化は、この家に来て初めて笑っていた。
「やめてくれ。友人と、白雪姫の話をしたばかりなんだ。」
*
道化は魔女の家を出た後、あの墓場へと向かった。
相変わらず波の音は衰えず、崖の下では白い水しぶきが飛び散っている。
道化は、胸元から小瓶を取り出した。
あの魔女から貰ったものだった。
いか墨のように真っ黒な液体に満たされており、道化の片手にすっぽりと収まってしまうほど小さい。
開け口の所には紙の札が付いており、真っ赤な文字で『Don't drink!』(飲むな)と書いてあった。
「……ご丁寧に、髑髏マークまで描かれているよ。」
道化はちょっと躊躇いを見せながら、瓶のコルクを抜いた。
腐った卵のような匂いがする。
道化は瓶を口元まで持ってきた。
そして瓶を傾け、中の液体を一気に飲んだ。
前に失敗したスクランブルエッグとそっくりな味がした。
すぐにでも吹き出したかったが、努力して体の中へと押し込んだ。
「流石に、赤ワインと同じ味ではないと思ったが。」
道化は苦い顔をして、空になった瓶を見つめた。
そして、地面を力強く蹴った。
道化は、海へ飛び込んだ。
*
ここは、道化がいる世界ではなかった。
喋るシルクハットも、魔法の鏡も、魔女も存在しない世界だった。
赤ん坊は自分でおむつを代えられないし、魚は空へ飛び立とうとはしないし、太陽が昇るのは東と決まっている。
そんな世界だった。
その世界のある所に、一人で暮らしている人間がいた。
その人間は、他の人間と比べてみると、どうも『個性』という言葉では片付けられない特徴があった。
その人間は、海で暮らし、肉体を持っていなかった。
つまり、その人間は既に死んでいたのだ。
その魂は、天国に登ることも、地獄に堕ちることもなかった。
天国に行けるほど善行はしていなかったし、地獄に堕ちるほどの悪行もしなかったからだ。
その人間が生きている間に成し遂げたことといえば、涙を流し、喉から声を張り上げただけだった。
その者は、赤ん坊のまま人生を終えた。
前述通り、それは海で暮らしていた。
何故海で暮らすことになったのかは分からない。
その者が気付いたときには、既に魂が海の底に落ち、半分海藻が纏わり付いていたのだ。
肉体を失った魂は、海で暮らすことを望んではなかった。
水中というものはどうも視界が安定せず、常に静寂とした冷たさが付きまとい、おまけに無神経な魚たちが目の前で糞を垂れることもあるのだ。
だが、逃げようとしても、海がそれを許そうとしなかった。
泣きわめいて、水の外にいる誰かに自分の存在を伝えたらいい。
そう思った魂は、すぐ声を張り上げた。
魂の声は、音となることはなかった。
魂は、自分が喉を遠の昔に失ったことに気が付いた。
魂は、冷たい水の中で、虚しく漂うことしか出来なかった。
朝を迎えるたび、魂は海の外に恋い焦がれた。
だが年月が過ぎるごとに強くなる想いとは皮肉に、自分の居場所はここしかないことを、魂は認めなければならなかった。
魂は、水の中に溶けこんできた言葉によく気を取られた。
その言葉は、立派な肉体を持ち、人生を楽しんで生きている人間たちのものだった。
『今日のご飯は何にしようか。』
『あいにくの雨だ。』
『チョコレートの誘惑に負けない人っていると思う?』
『来週姪っ子の誕生日でね。』
『走ると転んでしまうよ。』
最初、魂は嫉妬、怒り、それと悲しみから人間の言葉を聞くのを酷く嫌がった。
何とか耳を塞ぎたかった。
だが塞ぐ耳がない以上、それから逃げる術はなかった。
それでも、魂は降り注ぐ言葉を無視し続けた。
『見てごらん、カモメが飛んでいるよ。』
『人魚姫は七色の泡となって消えたのさ。』
『海の近くの街に生まれて、本当に良かった。』
意地は、やがて疲れと悲しみに変わり果てた。
何故自分だけ、肉体を持っていないのか。
何故自分だけ、こんな海の底で暮らさなければいけないのか。
何故自分だけ、孤独なのか。
魂は海の中から空を見た。
もう日が暮れていた。
深い藍色に染まった空の所々に星が光っている。
何も変わりない、いつもの単調な夜だ。
自分はまた、一人で日の出を迎えなければいけないのだろう。
ずっとずっと。
誰かに疎まれることも、好かれることもなく。
誰にも存在を気付かれず。
ただ、永遠に海の底をさ迷う。
嫌だ!!
今自分が肉体を持っていたら、きっと涙を流している。
魂はそう思った。
日々は少しずつ流れる。
魂は海藻の中に潜り、波の音を聞きながら過ごした。
ある日、興味深い言葉がこぼれ落ちてきた。
『お月様、どうか私の願いを叶えて下さい。』
願いごとは、流れ星だけに願うものだと思っていた魂は、これを聞いて驚いた。
月に願う人間もいるのだと。
魂は海面に視線をはせた。
今日は満月だった。
魂は海藻の網から出て、もっとはっきり月が眺められるようにした。
一瞬で消え去ってしまう、小さな光。
そんなものより、一晩中空の上でどっしり構えている月に願うほうが、確かに叶いやすいかもしれない。
魂は一人で納得し、笑った。
また日々は過ぎる。
魂は、人の言葉を聞くのが好きになっていた。
魂は今までで一番興味深い言葉を聞いた。
『世界で一番、愛してるよ。』
とても幸福そうな、とても楽しそうな言葉だった。
愛してる。
好きよりも、大好きよりも価値のある言葉。
魂は感心した。
愛してるという言葉は、今まで言われた側が嬉しく感じるものだと思っていた。
だが、言う側も嬉しいものなのだと、初めて知った。
魂はいつのまにか愛してるという言葉を好むようになる。
いつか誰に言ってみたい。
そして、幸福な気持ちになってみたいと。
魂は、深く悩んだ。
何故自分がこんな所に閉じ込められているのか、ということと殆ど同じくらい悩んだ。
喉がなければ、声を出せない。
もし声を出すことが出来ても、言う相手が見つからない。
魚や貝に呟いたとしても、答えてもらえない。
魂は、この悩みに心を捕われることになった。
魂は、月に願っていた人間のことを思い出した。
海面を見る。
波の流れで、月が揺れて見えた。
黒い夜空に浮かぶ白い光が、まっすぐ歪むことなく海を照らしている。
魂は、月をじっと見据えた。
胸もないのに、熱い何かを感じた。
『いつか─────』
月は、何も答えずにただ海面に浮かんでいた。
突然、体が締め付けられる感覚がした。
二つに引き裂かれているように痛む。
魂は今まで味わったことのない苦しみに、ただ戸惑った。
そのせいで、誰かの腕が自分の後ろに伸びていることに全く気付かなかった。
黒い両手が、魂を捕まえた。
魂は、硬直しながらも、相手の姿をしっかりと見た。
体はない。
ただ、黒い袖を纏い、白い革手袋をはめた両手だけが、そこにあった。
まるで、腕以外透明人間がいるようだ。
『貴方は何?』
『貴方は誰?』
魂は何と訊いたらいいのか分からなかった。
腕は獲物を捕まえられたことを喜ぶかのように、体を激しく振った。
そのせいで、魂はとことん目を回すはめになった。
揺れる視界が気持ち悪い。
水の青が、どんどん真っ黒になっているのは気のせいか。
声が響く。
それは上から聞こえたものではなく、海の中で放たれたものだった。
その声は愛に満ち、ゆっくりと発音された。
『迎えに来たよ。』
魂は抵抗出来なかった。
苦痛のせいで、動く気力を失った。
月も、水も、海藻すら消えていく。
魂は、海の中で初めて、深い眠りに落ちた。




