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恋するピエロ  作者: 青岬
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 道化の日課は、それからすぐに変わることはなかった。

 変な知恵を与えてしまった───そう心底後悔していたシルクハットは、この状況を喜んだ。

『そんなことあいつに出来るはずがない……。そうだ、そんなこと、許されるはずがない……。』

 あの日から、二ヶ月ほど経っていた。


 道化は相変わらず、シルクハットに愚痴をたれる生活を続けていた。

 午前六時に起きて、零時に寝る。

 何もない人生だが、それだけ平和だということだ。

 シルクハットは、あの会話のことなどすっかり忘れ、いつもの帽子かけにぶら下がりながらぐっすりと眠っていた。

『やったぁぁぁあ───!!!』

 一階から響き渡った声で、シルクハットは飛び起きた。

 その大きさときたら、天井が吹っ飛んだのかと勘違いさせるほどのものだった。

 二本足を持った生き物が階段を跳ね上がってくる音がする。

 足がもつれたのか、何回かばたんばたんという音がした。

 ドアを蹴り倒しそうな勢いで誰かが寝室に入ってきた。

 その人物は紛れもなく、この家の主だった。

「やった! やったよ! 遂にやったんだ!!」

「……何を?」

 シルクハットは、安眠を邪魔されたことに苛立ちながら道化に訊いた。

 今は燕尾服を脱ぎ、白いエプロン姿の道化が大股で帽子かけに近付く。

「ほら! 見てごらん!!」

 シルクハットに向かって興奮気味に、道化は両手を差し出した。

 道化の両手には、銀色のボウルが掴まれていた。

 シルクハットが、その中に入っているものを確かめる。

 とろりとした透明な液体と、橙に近い黄色をした球体が二つ。

 卵が、銀色の底で波立っていた。

「お前がおそらく料理に使おうとしてボウルに落としたこの卵が、我輩の睡眠を妨げた理由をたっぷりと聞かせてもらおうか。」

「ほら、よく見てごらん! これ、双子だったんだよ!!」

 その声に、シルクハットはまたボウルの中を見た。

 確かに普通のサイズにしては小さい黄身が二つ、白身の中で浮いていた。

「……で?」

「前失敗してしまったスクランブルエッグを再攻略しようと思ってね、雑貨屋で卵を沢山買ったんだ! そしたらごらん! ボウルに最初に一つを割ってみたら、何と双子じゃないか! こんな運のいいことって、中々ない!」

 もし自分が人間だったのなら、確実に額に青筋を立てているはずだ。

 そうシルクハットは思った。

「出ていけ。」

 冷たい刀で野菜を切ったように、シルクハットはさらりと会話を打ち切った。

 道化は両手を引っ込ませ、シルクハットをまっすぐ見据えた。

「そうはいかない。ここからが話の本題なのだから。」

 落ち着いたのか、道化は先程より低い声でシルクハットに囁く。

「ほぅ。ではさっさとその本題を聞かせてもらおうか。」

 シルクハットもそれに応え、道化よりずっと低い声で応戦した。

 道化は前髪をかき上げ、不適に笑った。

「明日迎えに行くよ。私の運命の人を。」

 シルクハットは、とんかちで頭を殴られたような気持ちになった。






     *






「何故いきなり、そんなことを思い立ったんだ。」

「早速実行に移すのは、やっぱり少し気がひけたからね。だから、何か私がびっくりするようなことが起こったら、すぐにやってみようって決めてたんだ。」

 翌日の午後七時、道化は夕食を目の前にしてはいなかった。

 夕日が木々の隙間を縫い、ばらばらに割れた橙色の光が道化の体を照らす。

 空に浮かぶ丸い太陽は、昨日ボウルに落とされた卵によく似ていた。


 道化はステッキを振り回しながら意気揚々と森の中を歩いていた。

 こんな時間に散歩したことは久しぶりだ。

 日課以外の行動をしている。

 それだけで、道化は喜びをひしひしと感じた。


 森が静寂へと包まれていく。

 道化は木々に寄り掛かり、シルクハットを脱いだ。

 シルクハットを胸の辺りで持つ。

 そしてその平らな頂上を、まるで埃をはたくように拳で叩いた。

 白い革手袋が、黒いシルクハットと対照的だった。

「悪いことは言わん。やめておけ。」

「おや、何故だい?」

 シルクハットの中からは、いろんな物が落ちてきた。

 フォーク、金貨、ネクタイピン、飴玉、腕時計、ハンカチ、手帳、羽ペン、それに活きのいい蛙と蛇(最後の二つが出てきたときは、シルクハット自身が悲鳴を上げた)。

「上手くいきっこないからだ。」

「そんなこと、やってみなきゃ分からないさ。」

 振り落とされる手に、加減している様子は全くない。

 シルクハットは頭に加えられる痛みに耐えながら、道化と会話した(蛙は蛇の毒牙から必死に逃げようと飛び回っていた)。

 シルクハットは深いため息を付いた。

「こんなこと、許されるはずもない。」

 道化は、シルクハットの言葉に瞬時に答えた。

「許されないのなら、秘密にしておけばいい。」

「あのな……。」

 まるで、悪戯好きの子供が誰かに諌められただけのように、にっこり笑って言う。

 まるで改める気はない。


 シルクハットは苦虫を噛みつぶした顔─────もとい口調になった。

 道化が自殺でもするつもりなら、シルクハットは喜んでその行動を応援だろう。

 だが、道化の行いで自分に迷惑がかかるのはどうしても避けたかった。


 シルクハットの中から、何かが夕日の光を反射しながら落ちてきた。

 最後に落ちてきたのは、女性が化粧のときに使うような、小さな手鏡だった。

「これだこれだ、やっと見つけた。」

 道化は機嫌良さそうに、地面から鏡を拾い上げた。

 何の変哲もない、黒い枠で囲まれている丸い手鏡だ。

 道化が顔の前でそれを掲げる。

 銀色に輝く表面は、橙色の夕日と、道化の白い顔を狂いなく映した。

「自分の顔に見とれる趣味でもあったのか?」

 シルクハットの言葉を無視し、彼を頭に戻した。

 鏡を手の中でもてあそびながら、道化は自分の頭に向かって話しかける。

「『白雪姫』って童話、君知っているかい?」

「ガラスの靴を落としたやつか?」

「林檎を食べた少女の方だよ。まぁともかく、白雪姫という話の中には、自分が望むものを映してくれる、世にも便利な鏡が出てくるのさ。」

 道化は愛おしそうに、鏡の表面を指で撫でた。

 鏡が道化の細長く真っ白な指を映し、きらりと輝いた。

 シルクハットは、その鏡をじっくり眺めた。

 そして、一拍置いて、素っ頓狂な声を出して驚いた。

「何でもか?」

「そう、何でもだよ。もちろん、遠い遠い所にいる人でもね。」

「何を望むつもりだ?」

 道化は、愚問だとばかりに口角を上げた。

「分かりきっているくせに。」

「これが最後だ。やめておけ。」

「おや、じゃあ君が私を止めてごらんよ。」

 道化は、笑いながら、両手を鳥のように広げた。

 それは、黒い十字架のようだった。

 道化がステッキを手から離した。

 木の根の元へ落ち、ステッキが音を出して地面に臥した。


 会話がなくなると、森の中の木の葉のざわめきが、ざぁざぁと耳に入ってきた。

「ほら、今の私には武器も何にもない。止めてごらんよ。拳で横っ面を殴ってごらん。足で鳩尾を蹴ってごらん。さぁ、早く。」

 風が強く吹いてきたことや、森がどんどん闇に包まれていくことに、今までほとんど気付かなかった自分に驚いた。


 シルクハットは道化の挑発に乗ることが出来なかった。

 あの墓場のときのように、冷静に答えることすら出来なかった。

 しばしの沈黙があった後、道化は肩を竦めた。

 明らかにシルクハットを嘲る笑みを浮かべ、ステッキを拾い上げる。

「まったく、君はどうしようもないほど無力だね。」

 シルクハットは、今ほど両手が欲しいと願ったことはなかった。

 両手があれば、この優男の首根っこを力いっぱい握りしめることが出来るのに。

 そう思った。


 道化はあぐらをかき、木にもたれかかって座り込んだ。

「さて。話を戻そう。この鏡はね、その白雪姫の継母が住んでいる城から昔拝借してきたものなんだ。」

「拝借?」

「盗んだのではないよ。誰もいなかったから、黙って持ってきただけさ。」

「…………。」

「あの時は、ただ面白そうなものがある、と思って持ってきただけだったのだけど……まさか、こんなことに役立つとは思わなかった。」

 道化は含み笑いをして、鏡を自分の顔の元まで持ってきた。

「さて、あの意地悪女王はどんな呪文で鏡を使っていたかな……。確か、決まり文句はこんな感じだったと思うのだけど。」

 声が途中で掠れることがないよう、軽く咳ばらいをした後、よく通る声で道化は鏡に願った。

「鏡よ鏡よ鏡さん。別の世界にいる、生涯誰も愛すことがなく死んだ者を映しておくれ。」

 しばらく、鏡には何の反応も起きなかった。

 道化が手鏡を回しながら、無意味に表面を叩いた。

 自信に満ちていた顔が、途端に冷や汗を流し始める。

「違ったかな……まさか壊れていたんじゃ……確かに、一回も磨いてあげたことなんてなかったからなぁ……。」

 道化が困ったように頭を抱えた。

 シルクハットにとって、こんな好都合なことはなかった。


 賭けに勝った。

 そうだ最初から、何も心配することはなかった。

 こんなこと、上手くいきっこなかったんだ。


 だが次の瞬間、シルクハットは低くうめき声を上げることになった。

 鏡が震え、表面に映っていた道化の顔が歪んだのだ。


 道化は、鼻がくっつきそうなほど鏡を顔に近付けた。

 道化の白い顔が、化け物のようにぐにゃぐにゃと曲がってきている。

 銀に輝いていた表面が、黒く濁り始めた。

 道化の白い顔と鏡の黒い濁りが交じり、激しく渦を巻き始めた。

 既に道化の顔の面影は全くない。

 黒と白は、やがて一つになり、澄んだ灰色になった。

 その灰色は、時間が経つにつれ、どんどん透明になっていく。

 やがて、鏡の中は完全に色を失くした。

 そのとき、道化が願ったものは、鏡にはっきりと現れていた。


 道化は、鏡の中をじっくりと眺めた。

 映っている者に触れられるはずもないのに、鏡に手を伸ばす。

 喜びを噛み締めながら、道化は鏡を胸にしまった。

「待っていて。私の、未来の花嫁さん。」

 道化は立ち上がり、森の奥にへと足を進めた。

「何処へ行くつもりだ?」

 シルクハットの問いに、道化は手短に答えた。

「『魔女』の所さ。」

「お前は、あの女が嫌いではなかったのか?」

「あぁ、嫌いさ。殺してやりたいほどね。でも、今回ばかりはあれの力を借りないと、どうしようも出来ない。」

 道化が立ち去った木の元、蛇はやっと、蛙の足を全て飲み終えた所だった。





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