墓場
今朝のスクランブルエッグは失敗だった。
昨日のスープを鍋で温めると、昨日と今日で煮込まれ過ぎたキャベツがぐしゃぐしゃになった。
その中に固焼きパンを突っ込み、スプーンでほぐして食べる。
グラスに満たされた人参ジュースを最後の一滴まで飲みきって、道化は椅子から立ち上がった。
流しの三角コーナーには、黄色い生ごみが入っていた。
郵便受けを確認しに、外へ出た。
玄関のドアを開けた途端、朝の柔らかな香りと、太陽の光に体を包まれた。
乱暴に突っ込まれていた新聞を、郵便受けから取り出す。
『大量に繁殖していたウシガエル、根絶成功』
そんな記事が、第一面にでかでかと載っていた。「何か面白い記事はないかな。」
道化は、新聞の端から端まで、全てに目を通し始めた。
だが、『すいかの美味しい冷やし方』とか、『手作り打ち上げ花火の作り方(十歳未満の皆は保護者の方についてもらいましょう)』などという、事件でも事故でもない平凡な記事ばかりで、道化はうなだれた。
「妙齢の女性が、別居中の夫の愛人を刺したとかいう事件があったら面白いんだけどな。」
ページをめくるたび、ふわりふわりと、まだ新しいインクの匂いが香った。
道化は八時に家に戻り、着替えを始めた。
道化はたっぷり一時間使って寝巻きを脱ぐと、燕尾服に身を包み、最後にシルクハットを被った。
仕上げに、銀の懐中時計を胸に入れると、再び外へ出た。
少しずつ外が騒がしくなってきていた。
道化は、森の中を歩く。
朝の散歩も、道化の日課の一つだった。
木々の隙間から、淡い光がまっすぐ伸び、地面をあちこち照らしていた。
道の途中にポストがあったので、雑貨屋宛てに手紙を出した(『新製品の人参ジュースは最悪だ』)。
歩いても歩いても、森の中の景色は変わらない。
時折風が吹き、上から木の葉がぱらぱらと降り注いだ。
道化の頭上の木に、何か小さい者が降り立った。
目が覚めるような黄色い小鳥だった。
出来そこないのスクランブルエッグを思い出した。
小鳥はさえずりながら、空に向かって言った。
「道化だ道化だ、道化がやって来た。」
その声が響いた途端、すぐそこの茂みが音を立てて震えた。
赤い目をした、真っ白い野兎が飛び出してきた。
「ほんとだ、今日も馬鹿面ひっさげてるぞ。」
上からいきなり、くるみほどの小石がばらばらと落ちてきた。
道化は驚きながらも、間一髪それを全て避けた。
見上げると、木の幹の穴からりすが一匹顔を出していた。
ふわふわの尻尾を振り、尖った前歯を鳴らしながら言う。
「マジックは出来るかい? それとも玉乗りのほうが得意なのかな?」 道化は、持っていたステッキを軽く振り上げた。
すると小動物たちはけらけらと笑いながら、何処かに去った。
「あいつらは、よく飽きんな。」
誰かが、口を動かさずに声を出した。
道化の声ではなかった。
道化はため息を付き、シルクハットのつばを掴んでずれを直した。
「しょうがないさ。動物は草や肉を食べて、誰かと交尾すること以外大切なことがないんだもの。そりゃあ、退屈で人をからかいたくもなるだろうさ。」
これが道化の声だった。
道化は、姿も見えない相手に声をかけられたことを驚きもせず、普通に返事をした。
「でもまぁ、交尾する相手がいるだけ幸せだ。」
「…………。」
きちんと被りすぎたシルクハットの位置を、道化は少しずらした。
「さて。今日は何処へ行こうかな。」
道化は含み笑いをしながら、顎の辺りをゆっくりと撫でた。
*
大小様々な波の音が、耳に届く。
潮風が頬をかすめ、道化の短い黒髪をなびかせた。
道化は、海沿いの崖に向かって足を進めた。
崖までの小さな丘を登りきると、そこには小さな古い墓場があった。
十字やら真四角やらの石が、そこら中に倒れている。
道化は膝ほどしかない柵を乗り越えて、その墓場に入った。
右膝がちょっと引っ掛かって転びそうになったが、ステッキを地面に突き刺してどうにかやり過ごした。
今日は晴天のはずなのに、この場所だけは憂鬱としていた。
あちらこちらに苔がはこびっている。
まるで今を冬と勘違いしているような、木の葉一つつけていない枯れ木が五本指をのばしていた。
「なんて、静かな所なんだろう。」
道化は墓場をぐるりと見渡した。
ステッキを手首にひっかけて回す。
まるで楽器をいじるように、ステッキで一つ一つ墓石を打った。
「ジェーン、アレックス、サラ、ハワード、マリー、ジョーイ、ヴァルヴァロッサ……。」
崖に落ちないように注意しながら、道化は墓場を一周した。
足元にあった岩に腰掛ける(それにも名前が彫られているように見えたが、道化は気にしないことにした)。
潮の匂いを鼻いっぱいにかいで、もう一度墓場を見渡した。
「この人たちは、どんな人たちに愛されていたのか、想像出来るかい?」
他人が見たら、完全に独り言を言ってると思われたはずだ。
だが、道化には話しの相手がいた。
「知ったことか。」
それを聞いて、道化は肩をすくめた。
「つまらない答えだなぁ。君は、想像力に少し欠けているところがある。」
「もしも、となどと考えるのは時間の無駄だ。そんな面倒臭いこと、暇な女だけが考えていればいい。」
「もうちょっと、脳みそを働かせて考えてごらんよ。未来とか、過去のことを想像するって、とっても大事なことだと思うね。地震が起こったとしよう。そこら中はちゃめちゃにするほどの、大きなものだよ。馬鹿な父親が、ベビーベッドを本棚の近くに置いといたらどうなると思う? 赤ちゃんは体中に痣を作ることになってしまうし、何より泣きわめく赤ちゃんをなだめる母親が可哀相だ。」
道化の仮面の奥から紡ぎ出される声は、男性にしては少し高めだった。
威厳がなく、空気が抜けた風船のような間抜けな声をしている。
対称的に、道化を相手する声は、少し年輩の男性の雰囲気がした。
合唱でいうと、バスに割りふられるような重みがあった。
「知らんな。我輩には妻もおらんし、従って子供もおらん。自分が今そんな状況に立たされているわけでもないのに、もしも……と考えるのはやはり時間の無駄だ。何より、」
相手の声が途切れた。
そんな事実決して認めたくない、とでも言うような沈黙があった後、再び話し出した。
「何より、我輩には脳がない。」
道化は一瞬、とても間抜けな顔をした。
ふと何か小さな疑問に気付いたように、腕組みをする。
その後腹を抱えて笑い始めた。
「そうだった、そうだった。いや、すまない。」
道化はそう言ってシルクハットを脱いだ。
すまないと言っているわりには、ちっとも申し訳なさそうな口調ではなかった。
手の中のシルクハットが細かく震えた。「貴様、謝る気がないだろう。」
信じられない光景だった。
道化は、シルクハットと会話していた。
シルクハットは拗ねたように黙りこくった。
道化はシルクハットを地面に置くと、ポケットからパイプを取り出した。
刻み煙草を火皿に詰め、マッチで火を点ける。
吸い口をくわえ、煙草をそっとゆっくり味わった。
灰色の煙が空に登り、強く香った。
道化は先程の会話を思い出して、くくくっと笑っていた。
空は青く、高い。
所々に、純白の雲が流れている。
水平線上では、海の青と空の青が釣り合いを壊すことなく調和しあい、混ざっている。
蝉のやかましく鳴く声が、囲むように聞こえてきた。
「……ねぇ。」
「何だ?」
道化の声に、シルクハットが答えた。
パイプから深く煙を吸い込みながら、道化は言った。
「この墓石の人たちは、人生で何度セックス出来たと思う?」
誰かが思い切りむせる音がした。
「君でも、むせることがあるんだねぇ。」
道化は感心したように、横目でシルクハットを見た。
シルクハットは返事をしながら、体を震わせた。
「墓場で、何を言い出す。」
「気になるじゃないか。だって、セックスって、愛の証の行動なんだろう?」
あっけらかんと道化は答えた。
口から煙を吐き出しながら、光がない目で遠くを見つめる。
「出会って、愛しあって、結婚をして、セックスをして、子供を作って……。あぁ、何て羨ましいことだろう!」
「死んでしまえ。」
「いっそそのほうが楽になるかもね。つまらない。あぁつまらない。世界はこんなに美しいのに───。」
シルクハットは、呆れたようにため息を付いた。
また、日課の愚痴が始まった。
毎日毎日、シルクハットは道化の愚痴の聞き役だった。
「なのに何故、私を愛してくれる人はいないのだろう。人を愛すことって、真冬に向日葵を取ってこいって言われるより、ずっとずっと、簡単なことだと思うんだけどなぁ。」
「貴様は、下手の考え休むに似たりという言葉を知っているか?」
「知らない。」
「なら、いい。」
シルクハットは、同情と卑下をたっぷり込めた声で言った。
それから小一時間、シルクハットは耳が痛くなるほど、道化の愚痴を聞かされることになった。
『この世界で、貴様を愛す者などいるものか。慈しむ存在などいるものか。』
正直に思ったことを、口にするのはやめておいた。
この道化は案外傷付きやすい心を持っている。
それに、何をするか分からないからだ。
自らの体が崖から放り出されることをシルクハットは極力遠慮したかった。
肘を立てて、道化はため息を付いた。
「夢の中でもいいんだけどなぁ。誰か、運命の人に出会いたいよ。」
「いっそ別の世界から連れてきたらどうだ、ドリーマーくん。」 珍しく、シルクハットが道化に対して返事をした。
道化は笑った。
いい冗談を言ったつもりのシルクハットも笑った。
道化は笑い続けた。
あまりにも大きな口を開けて笑い続けるので、パイプが地面に落ちた。
火皿からぼとりと落ちた灰の塊が、赤々と光った。
だが道化はそれを気にもとめない。
そのまま体を伏せる。
シルクハットに詰め寄るような体勢になった。
「そうか。別の世界になら、私の運命の人がいるかもしれないんだね?」
シルクハットは、自分がどれだけ重要なこと言ったか、気付くまで少し時間がかかった。
自分自身の発言に猛烈に怒ることになるということを、予想出来るはずもなかった。




