【1】
「いい? ママの言うとおりにして。ほら、早く廊下に──」
古びた二階建てアパートに押し寄せた、制服とスーツが入り乱れる警察官の群れ。
星が一歩後退ったのを見て取ると、場の責任者らしい壮年の男性が少し離れたところで控えていた仲間に声を掛けた。
「おい、井口。お前の出番だぞ」
「はい! 小谷野さん」
呼ばれて、長身の若い女性が緊張した面持ちで近づいて来る。
「パパはいっつもきららをたたいてたの。いたくていやだった。すごいこわかった。でもママが、『パパはしんだから、ママもきららもじゆうになれるよ』って、ちがいっぱい──」
ショックを受けているだろう幼子に寄り添おうとしたところ、いきなり堰を切ったように話し出した星に、彼女は一瞬顔を歪め言葉を詰まらせた。
「あ、……ちょっとだけ待っててね。お姉ちゃん、どこにも行かないから。あのおじさんとお話するだけ。ここから見てて」
平静を装いつつそれだけ告げて、彼女は足早に数歩離れた男性たちのもとに向かう。
「小谷野さん、吉倉さんを呼んでいただくことはできますか? もうひとり女性がいたほうが、……すみません、私──」
「おう、わかった。でも、お前のその若さとか未熟さがあの子に安心感を与える部分もあるんだ。それは多分、吉倉よりお前のほうが相応しい。少なくとも、俺たちじゃ星ちゃんを怯えさせただけだからな」
吉倉に病院向かうように言っとけ、と他の部下に冷静な指示を飛ばしながらの小谷野の言葉に、井口が頷いている。
おそらく井口は、「小さな子どもがいる」ために女性刑事だというだけで連れて来られたのだろう。
まだ経験も浅そうな彼女が、自分一人では受け止められない、ケアできない、と判断するのも無理はない。
「もう大丈夫よ、星ちゃん。何も怖くないから。病院に行こうね。お姉ちゃんが一緒にいるから心配しないで」
そそくさと戻ってきた彼女の柔らかい表情と口調に、星は半年前まで通っていた小さな幼稚園で一時担任だった教員を思い出した。
──ようちえん、たのしかったな。ゆみせんせいやさしかった。でも、すぐいなくなっちゃった。……きららがいいこじゃなかったから?
◇ ◇ ◇
「おい、もう星を幼稚園には行かせるな! 疑われてんだろ? ……ったく、うるせえな、センセイってやつは」
「……うん。アザや傷を見つけられちゃって。『家で暴れて転んで~』って言い訳してるけど、信じてないかも。あ、でもね蓮。あの幼稚園しょっちゅう先生変わるし適当だから、警察とかは心配ない、と思う」
しかし両親のそのやり取り以降、星は家から出してもらえていない。
幼い少女の目の前で母親が父親を刺殺した上、己もその場で首を切り裂き死に至った。
夥しい血で朱に染まった凄惨な現場は、星が生まれてから今まで暮らしていた2Kアパートの一室だ。家族三人の寝室として使っていた部屋だった。
床はもちろん、壁まで血が飛び散っている。
「何も娘の見てる前でなんて……。あの子、血だらけじゃないですか! 母親のすることじゃないでしょう。せめて部屋の外に出してから──」
興奮のあまりか震える声で、まだ新米の部類だろう男性刑事がやり場のない鬱憤を上司にぶつける。
「よせ、江藤! 星ちゃんはこの状況をよく理解してない。このままできる限り真実を知らせたくない。……いや、それは無理でもせめて知らせるのを引き伸ばしたいんだ。本当にあの子を思うなら今は抑えろ!」
感情を制御しきれないでいる部下を、小谷野が嗜めた。
「以前法医の先生に聞いたんだ。頸動脈ってのはそんな簡単に切れるもんじゃない。皮膚のすぐ内側じゃないんだってよ。ドラマみたいに自分でスパッと、ってのは無理だってあっさり言われた。『他人がやるにも、かなり力要るよ』ってな」
「で、でも、あの女は首を切って──」
星から引き離すように移動して、唐突に上司が披露する知識に江藤は混乱しつつも返す。
「だからさ、母親、……今野 花が夫を殺したのは防衛だと俺は睨んでる。過剰かもしれんが。やっちまって動揺したのか、血を見て緊張の糸が切れたのか。たぶん掴んでた包丁が、倒れ込んだ拍子に重みで首筋に深く食い込んだってのが検死官の見立てだ」
「それは偶然が過ぎませんか?」
江藤刑事の疑問にも、小谷野は慌てることはなかった。
「なあ江藤。もしそんな気ないのに誰か刺しちまったらどうする? お前は仮にも警官だが、一般人ならまずは現実を確かめるんじゃないか? 握った刃物を顔の前に立てて見つめるとか。まあ、即投げ捨てる場合もあるか」
「──あ、確かにあり得る、かもしれません」
その状況を頭に描いたらしく、無意識に両手で幻の凶器を扱う動作のあとで彼は首肯する。
「いや、お前が言うこともわかる。咄嗟に首に包丁当てて切ろうとしたけど、できなくて気が遠のいたって可能性もある。所詮、推論に過ぎねえんだ。でもあれは『自力』じゃない。本人にとっては全部、想定外だったんじゃないか」
詳しくは司法解剖待ちだがな、と言い聞かせるような小谷野が話を続けた。
「花が夫の蓮司を刺したのは、おそらく自分だけじゃなく娘のためだ。それこそ『母親だから』だろう」
「え?」
現場の状況以上の事情を知る由もない江藤刑事が首を傾げる。
「普段から父親が星ちゃんを虐待してたのは、ちょっと聞き回っただけでボロボロ証言が出て来てるらしいしな」
「だったらどうして通報しないんですか! 知ってたならなんで……!」
捜査員の報告から得た最新の情報を小谷野から聞かされて、正義感溢れる若い刑事は再度声を上げた。
「確かにそれが義務で道理だ。けどな、そう簡単には行かねえんだよ。蓮司は粗暴で嫌われてた。もしバレて逆恨みされたら、って自分や家族のこと考えて近所の連中が知らん顔してても俺には責められん」
言葉とは裏腹に、彼自身の悔しさも伝わる。
「……そもそも『通報したらそれで解決』なんてわけないくらい、お前だってわかってんだろ。『通報者の秘密を守る』って原則が、絶対とは言い切れん事実があることも」
無力と無念を噛み締めるような苦渋に満ちた小谷野の表情に、江藤は今度こそ言葉を失くした。
拳を握りしめて俯く江藤をその場に残し、小谷野は星と井口の元へ歩を進める。
「星ちゃん、パパとママは怪我してるから救急車呼んでおじさんたちが病院連れてくからね。星ちゃんはそのお姉ちゃんと先に病院行ってようか」
厳つい顔と雰囲気を精一杯苦心して緩めていると見受けられる小谷野。
隠そうと努めているのは憤りか、星への憐憫か。
ベテラン捜査員だと思われる彼でさえ、「飽くことなく繰り返されている多くの『仕事場』の一つ」と機械的に流せないほどの事件だという証左なのだろう。
「さ、星ちゃん行こう。お医者さんに診てもらったら、お洋服も着替えようね」
井口に促されて母親の血を浴びた姿のまま、少女は人払いされ警察関係者しかいないアパート二階の廊下を進む。
誰もが決して星を問い詰めることはしなかった。
◇ ◇ ◇
「……吉倉さん、申し訳ありません」
「気にしなくていい。その子が今野 星ちゃん?」
「はい」
井口刑事に連れられて行った病院には、両親より年嵩だろう女性刑事が待ち構えていた。
年齢からも、ましてやあらゆる意味で『被害者』なのだから当然とはいえ、関わるすべての人間がこの上なく優しくて星の心を気遣ってくれる。
「星ちゃん、少しだけ入院、……病院でお泊りしようか。ここなら何も怖いことないからね。先生も看護師さんも、刑事さんだっていてくれるわ。夜もずっと誰かいるし、もし起きちゃったらすぐに呼んでいいのよ」
穏やかな女性医師の声に、星は黙って頷いた。むしろあの家に帰される方が困る。
病室に一つきりのベッド。真っ白なシーツ。
身体を清めてから着替えさせられたパジャマは可愛いピンク色で、手首も足首もきちんと覆ってくれる。
いつもの、擦り切れ色褪せたサイズの合わないものではなく。
生まれてから、これほど大切に扱われたことがあっただろうか。
──ママはいつも「しあわせ」になりたい、っていってた。きっとこういうの、なのかな。
今の星の立場で考えることではないくらいは幼心にも察していたが、それでもやはり幸せだとしか表現できなかった。